私が、生きる肌

エンドクレジットの背景でDNAのらせんがうごめいている。豚の遺伝子が気になるところ(笑)。

いや~、面白かった!スペインって本当にオンリーワンの変な芸術家が続々と出てくるなあ。こんな話、アルモドバル監督以外の誰が思いつくでしょう。男と女、女と女、男と男、女だった男と女、男だった女と男・・・・、えー、順列組合せが苦手なのでこの辺でやめるけど、そこのところが柔軟だと話も無限大に広がるような気がする。
それにアルモドバル監督は、イイ趣味している。俳優の趣味がイイ。マリリア(マリサ・パレデス)、ビセンテの母(スシ・サンチェス)と母親タイプの俳優に淀川長治さんは泣いて喜びそう(?)。話も母ものだし。その他、性悪セカ(ロベルト・アラモ)を含め適材適所で感心するばかり。

いろいろ感じるところはあったけれど二つだけ。
ロベル(アントニオ・バンデラス)、その娘ノルマ(ブランカ・スアレス)、その一時のお相手ビセンテ(ジャン・コルネット)の三者は可哀想の三つ巴。誰が一番可哀相か考えだすと夜も寝られない。

もう一つは、ベラ(エレナ・アナヤ)の選択について。彼女がテレビのリモコンでチャンネルを切り替えると、チータが獲物を捕らえたシーン、魅力的な男前が映ったシーン、ヨガのシーンが出てくる。手術によって別人となったベラは、今後どう生きるかを三つの選択肢から選ぶ。食うか食われるかの戦いをいどむか、女性として男性を愛して生きるか、外見が変わっても自分自身であることを守っていくか。心身ともに強くしなやかに保つヨガを選んで本当によかった。だからこそ自分を見失わず、母親に再会できた。
ベラも可哀想といえば可哀相なんだけど、アルモドバル作品ではちっとも悲観する必要がないのがいいと思う。男の子を泣かして、女の子と仲良くすればいいじゃん(?)。気になるのは豚の遺伝子だけだ。

[追記]
もう一人の主人公ロベルについても、やっぱり書きたくなった。
私は、外見は他人のためにあると常々思っていた。誰が誰かを認識するためには外見が一番の判断材料であって、自分は自分であることがわかっているから、自分のためには(おしゃれやエチケットのためをのぞいて)自分自身を見る必要性はあまりないのではないかと。
ところが、この映画を観て、自分が自分であることを認識するには自分の外見を見ない方がよいくらいなものかもしれないと思うようになり、これって裏を返せば、自分を認識するのに外見に左右されるってことだよねぇと思い至った。簡単に言えば、ある朝、鏡を見ると他人の顔だった・・・・ってことになったら、「私は誰?」状態に陥るぞと(笑)。たかが上っ面のことなのに、本人でさえ外見で混乱してしまう。(ベラが自分を保てたのは奇跡のようなものか?ヨガって凄いな(?)。)

ロベルは、ベラの中身が誰かわかっていながら亡き妻似のベラに惹かれてしまい、彼女が自分を愛するようになると期待する。ベラへの仕打ちを思えば、よくそんな期待ができるものだと加害者側の罪の意識の薄さを感じたものだったが、そんな問題ではなかったようだ。大嫌いな人にそっくりな人をなかなか好きになれないように、大好きな人にそっくりな敵を好きになってしまう。見た目に左右されるな、中身が大事とは言うけれど、上っ面の縛りはきつい。

LA PIEL QUE HABITO
THE SKIN I LIVE IN
監督:ペドロ・アルモドバル
(2012/11/03 あたご劇場)

「私が、生きる肌」への4件のフィードバック

  1. お茶屋さん、こんにちは。

     明日付の拙サイトの更新で、こちらのかるかんをいつもの直リンクに拝借したので、報告とお礼に参上しました。拙日誌の締めで言及していた“豚の遺伝子”がトップに来ていることに、まず笑わせていただきました。お茶屋さん、女性ですし、「なに、それ!」って、やはり看過できない気にはなるでしょう?(笑)

     ベラのチャンネル選択についての分析的解釈の鋭さに感心するとともに、追記で言及しておいでの部分への大いに共感を覚えました。拙日誌に綴っていたことの核心部分とまさに符合していて、なんだか嬉しくなりました。

     トンデモ作品のようでいて、ロジカルな意味でも非常に含蓄のある批評力と哲学に富んだ作品でしたよね。どうもありがとうございました。

  2. ヤマちゃん、どうも~。リンク、ありがとうございます。
    豚の遺伝子は笑っちゃいましたよ。
    手術用の糸は豚の腸だそうで、ウィルスも豚を介して人に感染するようになるとかで(?)、だから豚なのか、科学的だな~と思ってました(笑)。

    ヤマちゃんの日誌では、ベラが買い物から帰った後、新聞で昔の自分を見て我に返ったという趣旨のところがあったでしょう。私は、なぜ、買い物中に逃げなかったのか不思議だったので、なるほどと思いました。ただし、そうすると自分を見失ってたことになるんだけど。長いこと逃げる機会を待っていたのに。ベラとビセンテの間をフラフラしてたんでしょうか?なんか、どっちでもいいやって感じではあるのですが。

  3. お茶屋さん、
     実際には、あんな超弩級のアイデンティティ・クライシスに見舞われることって、なかなかないから、あくまで比喩的な話にはなるのだけど、ビセンテは、あそこまで完璧に女性に変えられちゃった自分を突きつけられると、もうビセンテであったことを捨てて、ベラになりきることでしか生き延びる道がなかったのではないかと思います。
     僕には従軍体験がありませんが、とんでもない指揮官に率いられる部隊に配属された兵士が無用の残虐行為を強いられる状況のなかで生き延びていかざるを得なくなったとき、平時のときの自分を捨て別人になりきるしかなくなる場合って、ある意味、それに近いのではないかという気がします。
     そうまでして別人化を自身に課した場合、別人になったまま買い物をしている最中に元の自分を取り戻したりすることは、なかなかできないだろうという気がするのです。
     つまり、ビセンテは、ベラとビセンテとの間をフラフラしていたのではないということです。ベラになりきっていただろうし、そうしなければ、生き延びられなかっただろうということです。

  4. なるほどぉ。
    ということは、逃げだそうとしていたのは監禁からってことで、家に帰ろうとしてたのではないってことですね。
    コメント、ありがとうございました。

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