高野豆腐店の春

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不幸不運は人生の一部

今どきの映画にはめずらしくデジタルっぽくないソフトな画質で尾道の春が捉えられ、まこと春のようにやさしく明るい内容にピッタリだった。
高齢の豆腐職人の父辰雄(藤竜也)と出戻り娘の春(麻生久美子)。二人の愛情はもちろん、商店街の仲間たちや辰雄が病院で知り合ったふみえさん(中村久美)が織りなす、可笑しくも心温まる遣り取りが初春一本目にはちょうど良かった。(寅さんが懐かしい。)
喧嘩をしても縁が切れない人との繋がりというか、喧嘩が出来る人との繋がりは私には家族以外ではないが、大切だと思う。侃々諤々できる間柄であれば話題のタブーも少なく、情報交換がしやすいのでその結果として世の中さえずいぶん違ってくるだろう。

辰雄もふみえさんも被爆ゆえの健康被害が続いているのだと思う。二人が話していて、辰雄が亡くなった人のためにも人生の終わりに良かったと思える生き方をしようと言うのに、本当にそうだと思った。幸不幸は一時のことで人生の一部でしかない。トータルで満足できる人生かどうか。そういう風に考える年頃に私もなったわけだ。

それにしても撮影時に81歳だという藤竜也のカッコイイこと!怒りの表情は新薬師寺の婆娑羅に勝るとも劣らない。仏像好きは拝観に行くべき作品だ。
(2024/01/08 あたご劇場)

PERFECT DAYS

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沁みる

今、『ノマドランド』を思い出している。共通するところのある作品だが、『ノマドランド』は見終わってすぐに問題作だと思ったのに、本作には詩のようなものを感じている。

見始めは、目に新しいトーキョーだな、盆栽や銭湯などの文化だけでなく地下街の猥雑なところや汚れまでも美しく撮影されて外国人受けしそうだなと思い、自分自身も楽しんだ。主人公のカセットテープの音楽も聴いたことのある曲がいくつかあって、音楽が国境や世代を越えることを実感した。でも、ビルやトイレの掃除は中高年の女性が多いと思っていたし(今は変わっているのだろうか?)、室内で栽培している盆栽は幼木であっても屋外でもう少し陽や風にに当てた方がいいのではとか思ったし、現実世界はもっとあくせくしているので、箒で掃く音で目覚めたり、人が目にとめないものを見つめたり、密かなちいさな楽しみをいくつも持っている「この作品≒主人公の平山(役所広司)」は浮世離れしていると思った。平山は人との軋轢を逃れ、自分でも気づかないうちに結界にこもった都会の仙人なのだ。

そして、正にその仙人に私は長年憧れてきた。浮世のしがらみのない山奥の澄んだ空気の中で霞を食って生きる。
平山は父との関係で酷く傷ついている。大抵の人は、若いとき傷ついても様々な経験を経て反省したり、あるいは許したりすることができて、親の死に目にうん十年ぶりの再会などというのはよくある話のような気がするが、平山は傷ついたままだ。妹が「昔の元気な父じゃない」と会うことを勧めても出来ない。また、おそらく挫折を知らない妹たちを住む世界が違うと言う。そんな哀しいことを言うなよ(T-T)。仙人は哀しい。

うん十年ぶりのヴィム・ヴェンダース監督作品だったが、やっぱり合う。『パリ・テキサス』『都会のアリス』『ベルリン天使の詩』、ほとんど忘れてしまったが、主人公は人間関係の軋轢みたいなものは大の苦手だったのではなかったっけ?

何を着ても似合うのは良い俳優の条件で、役所広司は軽くクリアしている。何も身につけないでもカメラの前で自然に振る舞えるというのも条件に加えるべきなのかも(?)。そうするとカンヌ国際映画祭で俳優賞を受賞できる。あれ?違う?長回しのアップに耐える表情筋の鍛え具合だろうか。
(2023/12/25 TOHOシネマズ高知5)

ジャンポール・ゴルチエのファッション狂騒劇

『ジャンポール・ゴルチエのファッション狂騒劇』の感想を毛筆で書いた画像

言葉とカット割の洪水

むかし、「装苑」という雑誌で楽しみだったのは、美少年好きの長沢節さんのシネマエッセーと、デザイナーの卵さんがデザインした服のページだった。また、今でもたまたま点けたテレビでファッションショーなどを放送していると、つい見入ってしまう。私はファッションセンスもなくおしゃれでもないけれど、そのぶっ飛んだデザインは見るだけでとても面白い。美術の中でも前衛だと思う。
ゴルチエは『フィフス・エレメント』の衣装なんかも担当していたそうだし、新装開店したキネマM(ミュージアム)の様子見も兼ねて行ってきた。

映画はゴルチエの自伝的レビュー(revue)の制作をドキュメントしたもの。ゴルチエが寸分の空きなくしゃべりまくり、ゴルチエがしゃべらないときはスタッフがしゃべりまくる。音楽もなりっぱなしで、カット割が激しく、たいへん騒々しい作品だった。10人中楽しめる人は3人くらいか???私は、映画としてはあまり面白くないかもと予防線を張っていたので、ゴルチエの発想を大いに楽しんだ。でも、数が多いは、じっくり見せてもらえないはで、あまり頭に残ってない。ただ、マドンナの尖ったブラジャー(?コルセット?)の衣装はゴルチエだったとわかった。それと、ボーダー柄のTシャツを着た彼は、垂れ目のピカソみたいだった。

キネマMは音よし、映像のキレよし、椅子の座面やや固し、バリアフリーでないのが意外だった。飲み物とポプコーンを売っているみたい。新しい臭いがしたので頭が痛くなったら嫌だなと思っていたが痛くならなくてよかった。
(2023/12/18 キネマM)

福田村事件

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知が負け情が勝つ問題

香川県の被差別部落から行商に来ていた一行が、関東大震災の後、千葉県の福田村で朝鮮人と間違われて9人が虐殺された事件を基に作られた作品だ。シベリア出兵、朝鮮の三・一独立運動、被差別部落解放の水平社運動が巧みにドラマに組み込まれている力作で感動した。

戦死者の遺骨での帰還や残された妻たちの心の隙間、空威張り自警団会長、朝鮮人と交流を求めていた者の挫折などが時代背景としっかり結びつけられていたと思う。また、新聞編集部長と若い記者を登場させることによって現在に繋ぐ客観的な視点も確保されていた。関東大震災後のデマにより犠牲となった劇作家(社会主義者)、飴売りの朝鮮人なども印象に残る場面となっていた。重層的によく考えて作られた作品だと思う。
特に、村人に囲まれ朝鮮人に間違われたら殺されかねない逼迫した状況で、行商一行の親方(永山瑛太)が「朝鮮人なら殺してもいいのか!」と言うのは、この作品に必要不可欠なセリフであり、親方がこのセリフを言うのに納得感のある人物に作られていたのには唸った。この親方は、一行の誰かが「朝鮮人の売る飴だから毒入りかも」と言うのを耳にして大量に飴を買ったり、効能の怪しい薬を障害者に売ったときも新入りの子どもに、「自分たちは更に弱い立場の者から金儲けするしかない」と言った後、「せめてもの罪滅ぼしや」とすれ違う巡礼者におにぎりを丁寧に差し出していたのだ。

それにしてもデマを信じ込み、不安と恐怖から過剰防衛に至るのは今でもあり得ることだ。(新型コロナへの不安と恐怖からマスク警察が発生したり、政府発表やそれについての無批判・無解説なメディアを信じ不安と恐怖がつのり、戦争方向へ荷担することも考えられる。)
知らなかったり先が見えないと不安になるのだが、仮に多少の知識や見通しがあったとしても理性に見放され感情的になるのが人の常だから、なかなかの問題だ。群集心理かなんだか知らないけれど一億総火の玉にならないためには、意見の一致をみない皆バラバラのへそ曲がり集団になるのが理想的なような気がしてきた。私自身は政府の言うことを鵜呑みにしないことと、「この状況を○○さんが見たら何と言うか」と何ごとも客観視できるようにしたいが、「○○さん」は誰にしたらいいだろう?
(2023/12/14 あたご劇場)