ここがおもしろい『マルコヴィッチの穴』

ちょっとどころか、大々的にネタをばらしていますので、
この映画をご覧になる予定の方は御注意ください。

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・意表を突く視覚表現
・人を操ることのおもしろさ
・器じゃなくて中身が肝心
・そして彼らは、いなくなった?
・ジョンマルファン的楽しみ
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まず、オープニングで操り人形が出てきたことにビックリ。しかも、一目でジョン・キューザックとわかる(笑)。この操り人形の表情には(怪しい腰つきを含め)楽しませていただきました。
操り人形は、幻想的というか詩的で、映画との相性がピッタリですね。もちろん、ここでは音楽も欠かせません。
操り人形のおかげで、この映画は贅沢になりました。他人の内部に入り人を操るというテーマとも呼応し、人形遊びで自らを慰めるという、主人公のおたく的気質を物語る点でも、操り人形はいいアイディアでした。
また、天井を低くするだけで、あれだけ面白い絵になるとは!天地が逆さの『ポセイドン・アドベンチャー』がありましたが、天井を低くしたのは初めてではないでしょうか。天井を低くするために、7と2分の1階を作ったのでしょうね。

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クレイグ(ジョン・キューザック)は最初、他人(ジョン・マルコヴィッチ、略してジョンマル。)の内部に入って、ジョンマルとしてものを見聞きするおもしろさを味わう訳ですが、やがて自分の意志でジョンマルを動かせることに気づき、人を操るおもしろさを体験するようになります。
ただ、ジョンマルが内側からクレイグの意志に支配されるようになると、姿形はジョンマルでも中身はクレイグになってしまいました。髪形だってクレイグ好みになってしまうし、着るものだってクレイグ好み、部屋の様子もロッテ(キャメロン・ディアス)と暮らしていた頃のように雑然としてきます。このへんが観てすぐわかるように描かれていて、S・ジョーンズ監督は映画の基本がわかっていると思います。
ジョンマルの方は、自分の体も意志も乗っ取られた格好で、たまったもんじゃないですね。乗っ取られた間、彼はいったいどこに存在するのでしょうか。身体だけでも存在すると言えるのでしょうか。

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映画のおしまいでクレイグは、他人の内側に入っても、その人物を操れなければ、その人物としてしか生きられないという、オマケの体験をすることになります。つまり、その人物がクレイグの見たくないものを見ると、彼は自分の意に反して見ざるをえない立場になるのです。
その人物の頭の中だけで存在し、その人物に彼の意志が全く反映されないので、クレイグ好みの髪形も服装も出来ません。こうなると、映画の観客にしかクレイグの存在はわかりません。クレイグは存在しないことにされても、文句を言う人はいないでしょう。
こういう状態(ラストのクレイグやジョンマルの状態)って、存在しているって言えるの?ってことが描かれているようにも思えるのですが。
それとは少し(かなり?)違うかもしれませんが、自分の意志で自分を制御できない状態ってありますよねぇ。年を取ると指先に水分がなくなって、思うように紙を繰れなくなるんですよぉ。それに「これは絶対引き受けないぞ。」と思っていても二つ返事で引き受けたり。そんな時は、誰かが私の内部に入ってきてるんでしょうか。(入ってるんだったら、代りに仕事してくれ〜。)

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ほかにも、ロッテがジョンマルの内部に入る(他人の目で見る)ことで、本当の自分に目覚めたところとか、役者の特別出演とかおもしろいところはたくさんありますが、やはり、私にとってはジョン・マルコヴィッチです。
世界で一番セクシーな俳優は、誰が見てもセクシーだったのね。そういう風な役どころを与えられていました。それがクレイグが入るとセクシーじゃなくなるんだもん(笑)。うまかったですね。(『フェイス・オフ』を思い出したりもしました。)
ダンスシーンは、ところどころ吹替えでしたが、よくぞ踊った(笑)。
自分で自分の頭の中に入ったときはマルちゃんだらけで、これっていつも自分のことを考えている超ナルシストってことですよね。幼児期、少年期のトラウマや、青年期に「あなたって変」と言われたことや、○○の匂いをかぐマルちゃん。こんな映画に出演するなんて、余裕だわ、ユーモアがあるわ(ハート印5連発)。ますます株が上がりましたわよ。
(「知的障害者の役」は『フォレスト・ガンプ』と間違われたのかな。最初、てっきり『二十日鼠と人間』のことを話しているんだと思いましたよね。「宝石泥棒」は何が何と間違われたのでしょう???)




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