怖がることは、いいことだ『千と千尋の神隠し』
素晴らしく気持ちのよい映画だ。釜爺のいるボイラー室から湯婆のいる天上階までの高低差を描ききり、飛翔する龍や水面を走る電車の美しさ、愉快なキャラクターなどなど、イマジネイションの大洪水に見とれたりワクワクしたり少し怖かったりグロテスクだったり。
意外だったのはネット界隈での感想を読んでいて、説教くさいという感想がちらほらあったことだ。もちろん川が汚染されていることを始めとした自然に対する人間の所業や、金儲け主義への批判は十分感じることはできる。『千と千尋』の他の宮崎作品にも同様の確固たるメッセージ性を感じるが、私は説教くさいとまでは感じたことがなかったので、まことに意外で驚いた。
それにしても、実に楽しい映画だった。だが、満足している一方で、あまりのテンポのよさに観ている間はいいのだが、振り返るとふに落ちないことたくさんがある。たとえば、湯婆の双子の姉だか妹だかの確執がよくわからないし、ハクがなぜ、魔法使いに弟子入りしたのかもわからない。そんなことを考えても、この映画を楽しむうえでも理解するうえでもあんまり意味はないのだけれど、なんかちょっと騙されたような気がしたのが残念だ。
子供が観たら千尋とハクは、また会えるかもしれないと思うのだろうか。ハクは埋め立てられた川なので二度と会えないし、ハク自身もそのことは知っていながら、また会う約束をするところが悲しい。子供が大きくなったら、この悲しさに気づくのだろうか。
そういう悲しさを微塵も感じさせず、あっさりと終わったところが見事だと思う。そこが私がこの映画で一番気に入っているところかもしれない。
おしまいに・・・・、この映画では親の立場がまったくない。勝手に店の食べ物を食べて豚になり、人間に戻っても豚になっていたことは知らない。車の中の枯葉を払うときも何食わぬ顔だ。この無神経ぶり、畏怖のなさ!(*ためいき*)
怖がらない人は、おそらく想像力が不足している。想像力が不足することによる弊害はたくさんあると思う。他の動物と違って野生の勘が薄れている人間は、迫り来る身の危険を想像力を働かせて察知することが必要なので、想像力不足の一番の弊害は生命の危機につながることではないだろうか。
そうであれば、想像力が少なそうな千尋の両親などは、なるべくして真っ先に豚になったのかも。好奇心と冒険心だけが旺盛で、畏れず怖がらない人間の行く末を暗示しているのかも。というわけで、妖怪の類がたくさん出てきた映画だったが、私にとって一番不気味(かつ、不愉快)なのは千尋の両親だった。