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’91自主上映フェスティバル報告


『ウンタマギルー』『恋恋風塵』『生きるべきか死ぬべきか』『都会のアリス』『ミステリー・トレイン』

どうです?すごいラインアップでせう。この’90年の「自主上映フェスティバル」が好評・・・・つまり収支トントンにつき、昨年12月第2回の自主上映フェスがめでたくも花々しく開催されたのであった。そもそも高知市には自主上映サークルが十ぐらいあって、それぞれ個性を発揮した上映会が再々催されるので、キネ旬のベストテン作品も日本の古〜い映画(雷蔵会なんてグループもあるのだ)もマニアが狂喜しそうな究極のマイナー映画も地方に居ながら結構見ることができるのだ。そーゆーありがたい自主上映サークルが束になって、更に強力な番組を組んでくれたのがこの「自主上映フェスティバル」。二日間に渡り5本の傑作を次々と上映、半券を出せば出入り自由、県外からも見に来る人がいるというのに、これが見にいかずにいらりょうか、というわけで、映画評論家の講演なるものは無視して映画だけにどっぷり浸った暗闇愛好家至福の週末であった。


ワイルド・アット・ハート(デイヴィッド・リンチ監督)

あのD・リンチが純愛映画を作ってしまった。全編オズの魔法使いで統一されたこの映画、二人の恋路を裂こうとする悪い魔女(女主人公の母親)に対して天から善い魔女が登場!主人公に励ましの言葉をなげかけ、それに勇気を得た彼は彼女に愛の告白。しかも、「ラブ・ミー・テンダー」を熱唱するという、彼女はこの時をどれほど待ったことか。私はこの超現実的なハッピーエンドに涙を流した。感動!デイヴィッド・リンチの映画を見て感動することがあろうとは・・・・。(ソ連が崩壊するはずだ。)しか〜し、私はだまされないぞ。当のリンチはこんな映画を作っていながら純愛なんか小指の先ほども信じてないのだ。まことにけしからん奴、デイヴィッド・リンチ。彼はもっと邪々しいものが好きなのだ。たとえば、女主人公がたった一人でいる部屋に、いかにもうさんくさい、どう見てもあぶない男ウィレム・デフォーが入って来る。そして、彼女のそばに行って、「『ファック・ミー』と言うんだ。」とたぶらかす。彼女がだんだんその気になってきて「ファック・ミー」と言ったのをきくと笑って去って行く。私はこの時、ウィレム・デフォーの生臭い息を顔に受けたような気がした。これが『ワイルド・アット・ハート』のハイライトシーンなのだ。D・リンチを好きだという人は気をつけなければいけない。無闇に好きを公言しては、こういう邪悪なのが好きだとバレてしまう。ここはやはり涼しい顔で紳士淑女然として「おもしろい映画ですね」と言うに止めておくのがリンチらしいというもんだ。


コントラクト・キラー(アキ・カウリスマキ監督)

イギリスはこれほど寒くて冷たい国なのか?『コントラクト・キラー』は青い映画。こういう薄ら寒い世界で独りで暮らし、外国人だからと真っ先に合理化の対象にされ水道局をクビ。趣味もなく希望もなけりゃ死ぬしかない。でも、ジャン=ピエール・レオがまともに自殺できる人に見える?自分で死ねないので殺し屋を雇い、知らない間に殺してくれと依頼したわけ。ところが、ひたすらブルーの映画にパッと明るいプラチナブロンド、青い瞳の花売り娘が登場!これがJ・P・レオの希望の星となるのは当然。ところが、殺し屋はキャンセルできず、逃亡生活をするはめになったのであった。それにしても希望を手にしたレオと、死を宣告され虚無人間となった殺し屋の対決は、コミカルな味わいの映画の中でものすごい緊張感があった。数秒間のクライマックスで映画を奥深いものに仕上げたお手並み、あっぱれ。カウリスマキも青の時代を生きぬいた人なのだろう。


裸のキッス(サミュエル・フラー監督)

デイヴィッド・リンチとかデイヴィッド・クローネンバーグとかアンジェイ・ズラウスキーとか破滅型指向のマイナスパワーを持つ監督は映画監督では少数派である。黒澤明のように悲劇性を背負いながらもベクトルは善なるものや未来を指しているのが多数だと思う。サミュエル・フラーも多分、多数派だろう。『ストリート・オブ・ノー・リターン』はバイオレンス仕立ての純愛映画で思わず涙がこぼれたし、この『裸のキッス』も前進する女性が主人公だから。元娼婦の主人公は心を入れ替え今は看護婦となって誰からも愛されている。ところが前の職業がバレておまけに殺人の容疑までかけられてしまう。うたがいは晴れたものの、町を去らなければならないのだった、というストーリー。こんな話にもかかわらずスカッとした性格のせいだろう。彼女なら新しい町でもきっとうまくやっていくに違いないと思わせるのだ。それと、この映画は身体に障害を持つ子供たちに世間(観客)の目を向けさせる働きもしている。そんな、こんなで私はフラー監督を気に入っている。’60年代始めの白黒映画だった。


アシク・ケリブ(セルゲイ・パラジャーノフ監督)

この映画はまるで盗賊の宝物の箱のようだ。目がくらむほどの美術品がぎっしり。どの画面も隅から隅まで美しい。それは宝石だったり、緑の中の真っ赤な木の実、あるいは真っ白の鳥だったり。あらゆる色彩の組み合わせが静かに溶け合って、おしまいまで味わいつくしたい目のごちそうだ。ところが、なんとももったいないことに、ごちそうを前にして私は居眠りをしてしまったのだ!なんたるちあ、さんたるちあ。これはどうも単調な永遠に続くかとも思われる中近東風の音楽のせいらしい。いっしょに見た友人二人も眠ったというし、あの蓮實重彦氏さえパラジャーノフで寝たというのだ。監督はその辺を考慮して眠ってもわかる簡単なおとぎ話にしたのだろうか。とにかく眠っても傑作だと思えるなんとも摩訶不思議な映画であった。


あんなに愛しあったのに(エットーレ・スコラ監督)

1本で2度おいしい抱腹絶倒の喜劇。イタリア近代史を背景に三人の男と一人の女の恋模様(生き様)を楽しめる。もちろん、あんなに愛しあったのに・・・・ワッハッハと笑えるところと、哀感漂いこれが人生か・・・・と渋味どころもある。それと「映画狂が泣いて喜ぶ映画」というのがこの映画の最大の魅力。『ローマの休日』のスペイン広場をあんなふうに見せてくれるなんて!あのフェリーニ監督が、あのマストロヤンニが映画の中で『甘い生活』を撮影している!(わざわざ撮影している演技をしてくれているのだ!)『自転車泥棒』は出てくるは、デ・シーカは演説しているはで、これは『アメリカの夜』をしのいで映画についての映画ベストワンだ。おしゃべりで泣き虫なイタリア人。直情径行型人間のバイタリティーあふれるイタリア。イタリア万歳。イタリア映画万歳!!である。

というわけで、今年も「自主上映フェスティバル」の開催を祈っている。

(1992年3月号)


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