春ですね

嬉しいことにアネモネが咲きました。一昨年、球根を庭に植えて年が明けての春に咲き、そのままほったらかしていたので、高温多湿に弱い球根は腐ってしまっただろうと思っていたのです。思うに、アネモネが終わってからドクダミやら紫蘇やらが生い茂る場所なので、多湿ながら腐るほどの温度にはならなかったということでしょうか。もし、そうならドクダミや紫蘇やらは引かずに昨年同様、ぼうぼうにしておかねば。

テタテートは鉢植えだったのを地植えにして、昨年は一つくらいしか咲かなかったのですが、今年は四つくらい咲きました。来年はどっと咲いてほしいな。

昨年、3月に植えた透百合。三つ入り球根の一つは袋の中でバラバラになっていて、バラバラのまま埋めたけれど、やはり昨夏に咲いたのは二つ(白と柿色)だけでした。1メートルは有に超していましたが支柱なしで倒れませんでした(拍手)。その白が早2本伸びている(^o^)。増えました~。柿色は土の中から顔を出しただけなので1本やら2本やらわかりません。これは肥料をやらねば。

この春は、心に余裕がなかったのでしょうか、クロッカスが咲いてから気がついてビックリしました。いつもだったら芽が出て蕾をつけてと楽しんでいたのに。アジュガに浸食されてクロッカスのスペースが狭くなりました。もっと日当たりのいいところに植え直そうかな。

1月の休眠期に風知草と桔梗を庭に植え替えたのが、ちゃんと芽を出すか気に掛かります。
これから色々咲くのが楽しみです。若いときは冬が好きでしたが(クリスマスとかお正月があるため)、寒さが身に堪えだしてからは梅から藤まで(初夏の新緑もいいな)の春が一番です。

伊藤神谷「書の世界」展7ほか

伊藤神谷「書の世界」展7/<併催>橋雅会選抜展

伊藤神谷「書の世界」展7のチラシ画像

伊藤神谷(しんこく)は、いの町神谷(こうのたに)出身の名誉町民であり、川谷横雲(川谷尚亭の兄)に師事した人です。紙博(いの町紙の博物館)には売店の奥に常設展示場があります。
今回の展覧会は、一字書あり条幅あり屏風あり。書体もいろいろ。篆書の「紫陽」は、墨の色が違う?滲みが柔らく温かい。そう、だいたいの書に温もりを感じました。太字もありましたが、痩せた字が印象的でした。「いろは歌」(屏風)なんか楽しい(^_^)。線が震えているのも好きです。
比田井天来、川谷横雲、川谷尚亭、川崎梅村の書もありました。横雲の「洛陽城東」など、程よい文字ですごく好き♥。
橋雅会(はしみやびかい)は、神谷先生の功績を称え、その足跡から学ぼうとしてスタートしたグループだそうです。県立美術館でグループ展を開催しているようですが、この選抜展はバラエティに富んでいて何れも見応えがありました。
テーブルには神谷書集があって、あとがきにお弟子さんが記したものだと思いますが、天来先生が「速く書いて書けないものが遅く書くと鈍重になる。遅く書いて書けないものが速く書くと浮滑になる」と言っていたので神谷先生は「痩をもってよくし得ないものが肥に過ぎると醜怪となる。肥をもってよくし得ないものが痩に過ぎると寒険となることは言えないだろうか」と言っていたそうです。
私は速く書くと紙を捉えられず上滑りになるため遅く書くしか能がないのですが、それで鈍重なのか(笑)。結局、両方できて一人前ということなんですね。険しい道です。趣味なのでそこは目指してないのでご安心を。楽しく書いて、いつも「あー、面白かった」で終わっています(^_^)。

今回のお茶屋の見方
書って筆脈・気脈が大切なんだそうです。お師匠様には、楷書でも墨継ぎをせず一文字は書くようにと言われています。連綿でなくとも筆脈を途切れさせないように書くのが大事なんだとか。ということは、線が切れているように見えても空中での筆の動きを含めば「書は一筆書きである」ってことですよね。だから、作品に向かい合ったとき、まず、書き始めはどこか探します。そして、筆がどう動いて行ったか後を追っていきます。中には書き始めさえわからず、多分ここだと思うけどと自信がないものもあって、そんなときは作品のタイトルに目をやって「やっぱり!(正解だったか)」と答え合わせをしたりします。文字数が多い作品は、目についた文字だけ。そうやって観ていくと筆の動きが想像できて楽しいんじゃないかな。

安芸市立歴史民俗資料館>川谷横雲
安芸市立歴史民俗資料館>川谷尚亭

あじさいの会 色鉛筆画展

同じ階で色鉛筆画もやっていました。プレバトで芸能人が描く色鉛筆画に負けない絵もたくさん。すごいな~。

第17回全国土佐和紙はがき絵展

第18回全国土佐和紙はがき絵展の募集チラシの画像

3階でははがき絵展も。はがきサイズとは思えないくらいスケールの大きい絵もありました。大賞や受賞作の一部は次回の展覧会の募集チラシに載ったり、お持ち帰り自由の絵はがきに印刷されていました。印刷よりも断然オリジナルが美しいです。

第17回全国土佐和紙はがき絵展:大賞やその他の受賞作の画像があります。
第18回全国土佐和紙はがき絵展:現在は募集要領が記載されています。


いの町紙の博物館では手作り紙芝居のコンクールをやっているようです。面白そう!
【観覧可】手づくり紙芝居コンクール本選のお知らせ(3/24)
(2024/03/09 いの町紙の博物館)

アンダーカレント

『アンダーカレント』の感想を毛筆で書いた画像 軽薄なワタクシからは遠い

2時間半近い長尺を面白く観たけれど、私の現実からは遠いのでこれといった感慨はなかった。
かなえ(真木よう子)は、失踪した夫の悟(永山瑛太)のことをわかってなかったし、自分自身のこともわかってなかった。深層心理というのは自分でもわからないものだから不思議はない。夫が失踪した後、銭湯をつづけるため雇った堀(井浦新)は履歴書に書かれていること意外は何もわからないのだが、かなえはどこか相通じるところがあると感じている。

人をわかるって、その人の言動の見当がつくっていうことだろうと思う。例えば、喜びそうな贈り物を選んで実際に喜ばれる。本心なのか喜んでいる演技なのか表情で見当がつく。嬉しい贈り物をもらうと、好みをわかってくれていたという二重の喜びがある。長年の付き合いなのに重要な知らせを今になってかい?と腹の立つこともある。相手の意外な出方に「見当」をチビチビ修正しながら付き合いは続く。私は自他共に認める単純な人間だから、それくらいのわかり方で充分ではないかと思う。極端な話、その人がどういう人かの解釈も作品の解釈のように人それぞれだから、各人がその人をわかったつもりでいいと思う。幻想の人と幻想の自分でどんな不都合があるのだろう?私には不都合がなかったものだから、この作品があまり響かなかったのかもしれない。(悟の失踪も作り物っぽい。)

それよりかなえと悟が再会して、悟が本当のことを話し、かなえが私ももっとわかろうとすればよかったと言ったのに、男女の関係としてはもう覚めてしまって、そこから再スタートとはならないのが人間関係の妙だろうか?
かなえは悟の両親が早くに亡くなっていたと信じて、似た者同士的親しみを感じていたとのことだったが、堀こそ似た者同士だった。堀は妹の喪失からくる空虚感を、かなえは自分自身を失った空虚感をかかえていたのだから。
幕切れが凄くいい。犬の散歩に出たかなえを、かなり遅れて堀が追いかける。お互いをわからないうちから、わかりあっていた二人が続いていく。美しい景色だった。

かなえの封印した記憶から山岸凉子作の漫画「海の魚鱗宮(わだつみのいろこのみや)」を思い出して再読した。オカルト風味の深層心理サスペンスの名作だと改めて思った。
(2024/02/24 あたご劇場)

カラーパープル

『カラーパープル』の感想を毛筆で書いた画像 感動~!でも無難作かな?

スピルバーグが監督した1985年の作品(ウーピー・ゴールドバーグ主演)は、きれいさっぱり忘れていた。今作でセリー(ファンテイジア・バリーノ)が夫のひげをそるため、その喉笛に剃刀を当てたとき、そういえば前の作品でもこんなシーンがあったと思い出したくらいだ。夫に対する積年の恨みというより、セリーが女友達の影響から自分が如何に踏みにじられたきたか、その不当に目覚めたがゆえに殺意を覚える重要なシーンだったのだと今にして思い至った。スピルバーグ作品ではサスペンスの演出力が凄かったため、そのシーンだけがよみがえったのだろう。

今作は、歌良し、踊り良しのミュージカルだ。父にも夫にも暴力を振るわれ恐ろしくて言われるままにこき使われていたセリーが自立し、生き別れの子どもたちと最愛の妹と再会を果たすまでの話で、20世紀初頭から半ばまでの時代が描かれている。男に対しても嫌なことは嫌と言いサバイバルしてきた肝っ玉姉ちゃんソフィア(ダニエル・ブルックス)や、歌姫シュグ(タラジ・P・ヘンソン)などの登場により退屈はしないし、セリーがやっと目覚めるシーンでは感動したが、もっと引き締まった傑作にもできたろうにどこか物足りない無難な作品となっているのが残念だ。
(白人に「ノー」と言っただけで刑務所に入れられたソフィアが酷かった。黒人男性に黒人女性が「ノー」と言うのがどれだけ勇気のいることか。そういう時代に自分らしさを貫き生きるのがどれだけタフなことか。確かにソフィアは強いが、もし、彼女が男に生まれたなら全く必要のない強さなのだ。それを「ソフィアは強い」で済ませる人がどれだけ多いことか。「ノー」と言ったことで酷い目にあった。しかし、その「ノー」がどれだけのものかセリーは気づくのだ(ToT)。ソフィアが理不尽な目にあっていることを見て、自分も理不尽な目にあっていたことに気づいたのだと思う。)

ソフィアやシュグなどの特別な人ではなく、大多数の女性がそうであったようなセリーが主人公なのはよかった。セリーがセリーらしさを損なうことなく、「ノー」と言えるようになり自立できソフィアの力にもなれた。
それにしても、神様抜きにはこの作品が成り立たないような作りになっているのが驚きだ。目立たないけれど紫の花だって神様がお作りになったのよ。美しい紫の花セリー。そんな(?)シュグの言葉がセリーの力になる。
あるいはセリーの夫の改心が神の罰を恐れる信心からのものというのも(^_^;。
そういうことなら、神様を信じる人が他人を差別しているなら、もれなく罰を当ててほしい。よろしく、神様。

(2024/02/12 TOHOシネマズ高知5)