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■くりからもんもん>死者と生者をつなぐ映画(1)
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●お茶屋の記憶に基づきストーリーを書いています。しがない記憶力ですので、実際のストーリーと若干ズレがあるかもしれませんがご容赦ください。



『スタンド・バイ・ミー』
ゴーディ(リチャード・ドレイファス)は、車の中で深い溜め息を吐く。そして、弁護士が刺殺されたという新聞記事をもう一度確かめると、少年期のある年の夏を回想する。それは兄を亡くしたばかりで、両親は深い喪失感に沈みゴーディを顧みることがないため、彼にとって辛い毎日だった。しかし、一方で友達とのバカ話や死体探しの冒険などによって救われた、可笑しくて悲しくて振り返ると最も輝かしい夏だった。
そんなことを思い出すきっかけとなったのが、親友の死を報じた新聞記事だったのである。

(1986年:ロブ・ライナー監督)
『君がいた夏』
ビリー(マーク・ハーモン)はプロ野球の選手で、成績は泣かず飛ばずの失意の日々をすごしていた。そんなところへ従姉のケイティ(ジョディ・フォスター)の訃報が届く。遺灰をビリーに葬ってほしいというのが彼女の遺言だった。
遺灰をどうすればいいのか。ビリーは6才年上の憧れの女性ケイティとの思い出を振り返る。10才の彼と16才のケイティ、16才の彼と22才のケイティ。ビリーは、思い出の中でケイティの慈愛を確認すると同時に、彼女の広げることが出来なかった翼を知るのだった。

(1988年:スチーブン・カンプマン&ウィル・アルディス監督)
『ジュリア』
雨の中、灰色の湖面に浮かべたボートに乗って釣り糸をたれているリリアン(ジェーン・フォンダ)のモノローグは、色彩の話から始まる。晩年に振り返る過去の色彩の中でも、親友ジュリア(バネッサ・レッドグレープ)との思い出は鮮やかによみがえる。富豪の娘に生まれながら親類を嫌い、反ナチの地下活動に身を投じ亡くなった美しく聡明な女友達。親友のためにしたかったけれど、どうすることも出来なかったことが、苦く思い出されるのだった。

(1978年:フレッド・ジンネマン監督)
 
●サンドイッチ型

上記の3本に共通することは、いずれも生者が死者の回想をすることである。始めと終わりに現在の生者が登場し、回想場面を挟んでいるので、私はサンドイッチ型と呼んでいる。サンドイッチ型の特徴は、生者が死者を回想するとき、生きるパワーのようなものを得ることではないだろうか。

『スタンド・バイ・ミー』での冒頭では、親友が刺殺されたことを知り、半ば呆然としながら親友との少年期を思い出す主人公が描かれている。これがラストシーンになると主人公は作家になっていることが明らかになり、少年期の思い出を作品に昇華させている。
クリスがゴーディの肩を抱き「自分の将来はロクでもないだろうが、お前の書く才能は俺が守る。」と言ったことを始め、死体探しの冒険を作品にしたのは、もちろん友達への感謝の念があったためだろう。また、純粋に自らをぶつけ支え合った友達との思い出は、人生の中で最も輝かしく、大人になっても自分を勇気づけてくれるものだということを残しておきたかったのだろう。
そして、主人公の息子たちがちょうど少年期真っ只中で、彼らもそんな友情を育んでいるところだろうか、そうだといいね、と思わせるところは、この作品が死者の回想を個人的な感傷に終わらせず、少年期賛歌として普遍性を持ち得たところであり見事だと思う。

『君がいた夏』は原題を『STEALING HOME(ホーム・スチール)』といい、積極性の話である。主人公ビリーは、すっかり積極性をなくしているが、従姉のケイティの思い出をたどることにより積極性を取り戻す。ケイティとの思い出は、少年の一夏の経験もの的要素があり、1本で2度おいしいところがあったりするのだが、それはさておき、大人になったビリーはケイティの慈愛を確認できただけでなく、彼女の積極性が封じ込められていたことに気づく。したがって、ケイティを開放するため、彼は遺灰を飛翔させることにする。そして、結果的にビリー自身も積極性を取り戻すのである。彼が積極的に生きることは、亡くなった従姉の分まで生きるということにならないだろうか。もし、そうならケイティへのこれ以上の供養はないだろう。

余談だが、『マディソン郡の橋』でも兄妹が母親フランチェスカの遺灰を風に撒くシーンがある。『マディソン郡の橋』もサンドイッチ型であり、兄妹は、母親の遺品の中から自分たちに宛てられた手紙を見つけ、自分たちが知らなかった母のもう一つの顔を知る。そして、この真実を語った手紙が、兄妹のそれぞれの生き方に微妙に影響し、彼らは手紙を読む前より善く生きることができそうなのである。

同じサンドイッチ型でも『ジュリア』は、『スタンド・バイ・ミー』『君がいた夏』とはずいぶん趣きが異なる。それは、主人公が晩年に死者を回想しているからだろう。
何もかもが様々に色彩を変え、思い出さえも不確かで移ろいやすい。しかし、親友ジュリアと愛人ダシール・ハメットの思い出は今も色鮮やかだ。それは繰り返し思い出していたからだろうか。
年を取って回想すれば、それはほとんどが死者との思い出になっているだろう。また、自らも死を意識せざるをえない年齢になったとき、最も記憶に残っている思い出はどのような意味があるのだろう。どんよりとした湖面で釣り糸をたれる。そのように停滞した空ろな命が、最愛の友を亡くした悲しみ、その遺児を見つけられなかった無念さ、そして、ジュリアの冷たい身内に対する憎しみに波立つのだろうか。
その年の私のベストワン作品と言っていいかもしれないのだが、ずいぶん前に観たきりで肝心なところを忘れているのが残念だ。



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