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暗闇愛好家 ムービーレポート タイタニック(ジュームズ・キャメロン監督) 日本人は何でもお金に換算する。つくづく金畜生だと思う(動物の視点を持つ方々には不愉快な表現だと思う)。だから、映画を一つ誉めるにも日本人であり金畜生である私はこう言うわけだ。「いや〜、230億円が無駄ではなかった!」 確かにお話はメロドラマだ。身分違いの恋という図式どおり運び、大味で御都合主義的だ。しかし、タイタニックの悲劇を挟んだため、「生きる」こと「生かす」ことを描いたドラマになった。生きる喜びに輝いていたジャックが、自らを犠牲にしてローズを生かし、ローズもジャックの望みどおりタイタニックを生き延び、タイタニック後も生を全うする。レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの好演に助けられ、感動的なドラマになっている。 また、主役の二人のみならず、乗客乗員の各エピソードもタイタニックの悲劇性を高めている。 そして、本当の主役ともいうべき船には圧倒された。大きさスピード、夜の海に映る灯かりの美しさ、内装の豪華なこと、1等2等3等ボイラー室の様子、1度観ただけではもったいない。氷山に衝突した直後の何事もなかったかのような状況から、じわじわと船が傾きパニック状態に陥り、船尾が屹立し水没するまで。遭難した人たちの恐怖を味わいながらも、スペクタクルは圧巻としか言いようがなく、また観たい。 どんな映画も賛否両論があり、『タイタニック』も例外ではない。だが、賛でも否でも、このスキだらけで誉めるところもけなすところも山ほどある大作は、観た後、話に花が咲くこと請け合い。ビデオで観るなどもってのほか、是非、映画館に足を運んでご覧あれ、と職場でも喧伝しているところだ。 ロストハイウェイ(デヴィッド・リンチ監督) 時制も空間もバラバラのパズルのような映画。それをつなぎあわせると、魔性の女の虜になり嫉妬に狂い、女を殺害する男の物語が浮かんでくる。 つじつまの合わないのは当たり前。リンチは私たちの心の闇を映像化しているのだ。深層心理は夢に反映されるというけれど、夢はつじつまの合わないものだ。リンチが見せる心の闇は悪夢のようなもの。悪夢に起承転結があったらお笑いになってしまう。 行く先がわからない。ただ闇雲にアクセルを踏み込み、にょろにょろとうごめくセンターラインしか見えないハイウェイを突き進む。何を追っているのか、それとも何かに追われているのかさえもわからず、不安と焦りがつのる。そして、不安と焦りが限界点に達したとき(脳内モヒネのせいか?)身内を貫く快感は、どこからともなく聞こえてくるデヴィッド・ボウイの「I'M DERANGED」で表現される。ボウイの声が闇に溶けて不思議な陶酔感をもたらすのだ。おそるべし、リンチの選曲センス。 また、魔性の女アリスとレネエにパトリシア・アークェットを選んだことも必勝パターンだった。パトリシアは被虐的な役がよく似合い、観ている者の嗜虐性をくすぐるような、か弱い魅力の持ち主だが、その魅力を利用し男を虜にしておいて裏切り、果ては殺されるという被虐のフィナーレに嵌まりすぎて怖い。 極めつけは、嫉妬に狂う男にビル・プルマンを配したところだろうか。人のいい振られ役ばかりで、普通の人をやらせたら好感度No.1と言ってもいいプルマンに、かくもダークな役が似合うとは。いやはや、心の闇は誰しも持つものなのだ。 『ロストハイウェイ』は、いつまでも観ていたい、何度でも観たい麻薬のような映画だった。リンチを放っておくと麻薬映画を作り続け、それに共鳴する観客も増え続け、麻薬映画常映館なるものに入り浸る者も増え、世界的規模で生産性が下がるのではあるまいか。そうなってリンチ作品上映禁止令が出るに至るのが、わたくしの目下の心配事だ。 だがなに、そうなったらそうなったで、おそらくアングラ上映会が秘密裏に催されるだろう。地下上映なんて、それはまたリンチらしいというもんだ。 浮き雲(アキ・カウリスマキ監督) 人生楽ありゃ苦もあるさ。だが、必ずしも苦楽が交互に来てくれるとは限らないところに味わい深いものがある。(しみじみ) 夫は電車の運転士、妻は老舗のレストランの給仕長。夫が買い込む家具のローンに顔をしかめながらも、「うれしいわ」と気遣いを見せる妻。円満な夫婦に嵐が〜。夫がリストラで失業。続いて妻もレストランが乗っ取られ失業。探せど探せど職は無し。 職探しも職安の職員が横柄であったり、ちょっと年食った女性は雇ってもらえなかったり、屈辱的なのであるが、誇りを失うことなく生きていく。安食堂に雇われても「いい店にするわ」と向上心を持って臨む。それなのに、ああそれなのに、またしても職を失う侘しさ辛さ。 慎ましくけなげに、惨めでも支え合って生きていく二人。仕事と誇りと絆の大切さありがたみを、オフビートコメディにして、しみじみとした感動を与えてくれる。 「人間は誰でもよりよい人生を生きたいと願っている。が、励ましがなければ途中でくじけてしまう。演劇はそれを励ましてくれるのです。」とは高知市民劇場の会員証に印刷されている言葉だが、映画だってそうだ。『浮き雲』を観たら、くじけそうな人もきっと少し力を分けてもらえる。 おしまいの献辞はカウリスマキ映画の顔だったマッティ・ペロンパーに捧げられている。聴いたところによると、主人公夫婦の亡くなった子どもの写真は、ペロンパーの3歳のときの写真なのだそうだ。『浮き雲』はペロンパー追悼の映画でもあった。 (1998年2月号) |
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