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暗闇愛好家 ムービーレポート
アイス・ストーム(アン・リー監督) 『アイス・ストーム』は70年代のアメリカ北東部が舞台だ。そこには悩める中産階級の夫婦と思春期の子どもがいた。 彼らは悩みを表に出さない。彼らの淡々とした表情は、寂莫とした風景とともに画面に緊張感をもたらす。いわゆるサスペンス映画ではないのにドキドキさせられる。 たとえば情緒不安定になっている子どもは、フットボールをしている最中にふと立ち止まり、何かに見られているという風にして空を見回す。このシーンなどは、見ているこちらまで重心を失いそうな不安を感じた。また、夫の浮気をかんぐっていながら、疑いを否定しようとして神経過敏になっている妻の、何かにすがらずにはいられない、せっぱ詰まった気持ちが露になるシーンにもドキドキさせられた。他の登場人物についても、それぞれサスペンスフルな心理描写があり、クリスティーナ・リッチ絡みのシーンなど名シーンになっている。 この映画で描かれる二組の家族は、どちらの家庭も通り一辺倒の会話しかなく寒々としている。そんな家庭に一人一人の悩みをすくい取れるはずもなく、波風のない静けさがかえって不穏である。こういう家族のつながりの希薄さは一種の文明病かもしれない。『大草原の小さな家』の家族像など、とおの昔に見る影もない。 さて、登場人物の表情や行動がサスペンスを生みながらも、これといった物語の進展もなく、そのまま日常の描写に終始するかに思えた頃、接近するアイス・ストームの情報がテレビやラジオを通じて流される。嵐の接近とともに、何かが起りそうな気配がして胸騒ぎがする。この辺が脚本の構成が大変うまいところだ。心理描写の緊張感から、嵐の接近にともなう事件の予感へと緊張が持続する。そして、嵐(アイス・ストーム)が来て、表面上は波風が立たなかった二組の家族を巻き込んでいく。絶妙の脚本である。(俳優もいい。演出もうまい。音楽も美しい。主題歌はデイヴィッド・ボウイで、いい仕事をしている。) 『アイス・ストーム』は、愛が無いわけではないのにコミュニケーションがうまく出来ない家族が描かれている。家族よりももっと気がかりなものが家の外にあって、それぞれ好き勝手をしているように見える。また、親の権威が薄れ、家族を一つにまとめる力がなくなったようにも見える。いろいろに見えるのだが、そのどれもが70年代という時代を強く感じさせる。 アメリカン・ニューシネマなる言葉を生んだ70年代、革新的なエネルギーに満ちた数々の映画が誕生した。ヒッピーやアウトロー&アンチヒーローが主人公の映画の中に、家族を主題としたものがあっただろうか。私が知らないだけかもしれないが、即座に思い浮かばない。『アイス・ストーム』はその穴を埋めてくれたような気がする。90年代後半に作られながら(しかも、退廃的なのに)、たまらなく70年代のにおいのする映画だ。 河(ツァイ・ミンリャン監督) 傑作。筋立てに曖昧なところがなく、どの画面も明確で繊細で美しい。完璧といえる作品だ。 『アイス・ストーム』と同じく意志疎通の希薄な家族を描いている。しかし、こちらの方が人間と自然の結びつきを強く描いている点で、いかにもアジア的だ。 都会を流れる河は澱んでいる。この澱みは行き詰まった文明の象徴だ。河が澱んでいる所は、文明病を患っていると言ってよい。シャオカンは冒頭でこの河に浸かってから、首が回らなくなる奇病に侵される。澱んだ河(つまり河を汚すもろもろの原因)が、人間を侵しているのだ。 シャオカンの家族は『アイス・ストーム』以上に会話がない。食事は銘々が勝手にとり、父はゲイ・サウナへ通い、母は愛人のもとへ通う。殺伐とした家族の風景は何が原因なのか。父の部屋は天井からの水漏れで「河」になっている。 この家族は3人とも自分の中の空虚を埋めるためセックスを求めるが、いずれも満たされることはない。コミュニケーション不在の自慰的セックスは、『デカメロン』のような生命力の源ともいえるセックスと比較すると、退廃を通りこして虚しさを感じる。これも文明病の一症状かもしれない。 シャオカンの首を治そうと家族は一つになりかけるが、これも結局は「治らない」という絶望のもとに一つになる。更に、父と子は衝撃的な出来事により、情けなく遣り切れなく、いったいこれからどう生きていけばよいのか、涙が滲んで仕方がない、死にたいほどの心境に陥るのである。これは観ている方も暗澹たる心持ちだ。 しかし、まだラストシーンが残されている。御安心ください。ここで奇跡の大逆転が待ち受けているのだ。 いや、「奇跡の大逆転」のような嘘っぽさはない。シャオカンの首が治るかどうかはわからないし、家族の絆が強くなりそうな気配もない。現状に何ら変わったところはない。ところが、一言のセリフもないラストシーンに耳を澄ませば、鳥のさえずりやセミの声が聞こえる。こざっぱりとした朝の陽射しは優しくシャオカンをつつみ、柔らかな風が吹いている。 やはりアジアでは神よりも自然だ。私はシャオカンが絶望のあまり自殺するのではないかと気が気ではなかったのだが、このラストで確証を得た。 澱んだ河に流されるか、セミのように生きるか。どちらかを選べるほど人生はたやすくない。シャオカンは濁水に侵されながらも生きるだろう。完全な絶望ではなく、かといって希望があるわけでもないが、彼が生きていくことだけは確かだ。 う〜ん、余白が出来てしまった。 それでは、最近観た映画でお気に入り『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』について、ひとこと。古き良き時代のハリウッド冒険活劇が、CG満載で装いも新たに笑わせてくれる。この映画を観て私は単純に楽しんだ。強引だけど頼れる男、才媛だけど可愛い女、どちらも適度におバカ(笑)。こういうキャラって、私の中の男性性も女性性も満足させてくれる。「頼れる男性ってステキだわ。」「ふっふっふ、可愛くて色っぺぇ。」と。これって、まさか自分もこういう女性になって、頼れる男性と恋に落ちたいということじゃないよね???悩んでいます(笑)。 (1999年7月号) |
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