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暗闇愛好家 ムービー・リポート


太陽に灼かれて(ニキータ・ミハルコフ監督)

三角関係の恋愛映画として、スターリン時代の粛正を描いた映画として、これはとても怖い映画だ。ところがコミカルな登場人物が多くあり、特権階級の人々の余裕ある暮らしぶりは喜劇といってよい。明るい陽射しと豊かな川の水、白樺の林など美しいロシアの自然と、お祭りに浮かれぎみの人々や毒ガス訓練をする人たちの生き生きした表情が怖さを和らげ郷愁を呼びさえする。革命(?)の英雄であるコトフと妻と、彼女の昔の恋人ミーチャの関係が、台詞でなく三人の目線や妻の手首の傷など小さなことで表現されており、非常に映画的でサスペンスフルだった。監督自らコトフを演じており、娘のナージャ役は実の子だという。親子のシーンは官能的で子供のぬくもりや柔らかさが伝わってきた。繊細で雄大。ミハルコフの最高傑作。『愛の奴隷』『機会じかけのピアノのための未完の戯曲』『黒い瞳』と、今となっては昔のロシア(ソ連)を背景に、人間の心のひだを描き続けてきたミハルコフ。現在のロシアを舞台にするつもりはないのだろうか。


リスボン物語(ヴィム・ヴェンダース監督)

行きたい街がまた増えた。坂道、石畳、路面電車。サンフランシスコと違い、小さくて入り組んでいて古くて素朴だ。ユーモアを湛え軽やかに広がる青い空、チラシを何ヶ月も壁に貼ったままでいる。これに映画で使われたマドレデウスの音楽があればリスボンは遠い町でなくなる。リスボン市から映画作りを依頼されたプロデューサーが、ヴェンダースに話を持ち掛けてできたのだそうな。やるねえ、リスボン。ヴェンダースものっけから快調だ。雑誌にまぎれて舞い込んだSOSのはがき。それを読んだ録音技師は、リスボンで映画を撮っているはずの監督を救うべく車を飛ばす。流れるヨーロッパの町の風景、ラジオからの音楽。ロードムービー作家の面目躍如だ。リスボンでは監督は行方不明。映画作りに、ある限界を感じ世捨て人になっていたのだった。そこで親友でもある録音技師が、人々の心を百年もの間とらえて放さない映画の魅力を説いて励ます。『リスボン物語』は映画作りについてのヴェンダースの考察が描かれている。理屈っぽくなるのが玉に疵だが、それも彼らしい。悩める映画監督と新鮮な音を拾い続ける録音技師。考察の中から生まれたキャラクターである彼らはヴェンダースの分身か?ともあれ、映画について真摯に考え悩んだあげく、喜々として撮影を再開した監督がリスボンにいた。嬉しくて、ボンボン、リスボン、リス、ボンボン(なのら〜)。


カジノ(マーティン・スコセッシ監督)

真面目人間スコセッシの映画は虚しさ漂う幕切れであることが多い。『ミーン・ストリート』『タクシー・ドライバー』『レイジング・ブル』『グッドフェローズ』、そして『カジノ』。ちょっと意図的すぎたかな。でも、だいたいヤクザや暴力がらみの映画は彼の場合、ほんと、虚しい終わり方をする。反暴力の立場で作っているからだろうか。それもあるかもしれないが、むしろ主人公たちの放物線人生に魅かれ映画を作った結果、虚しいものになるのだと思う。『カジノ』もしょうもないヤクザな男の栄枯盛衰物語だった。いつもながら役者の魅力は感じても、主人公としてはどうにも好きになれない人物だし、心ときめく話でもないのだが、すきのないカットワークで3時間があっという間。カメラを筆のごとく自由自在にあやつり、題材にふさわしい色でぬりあげる。『グッドフェローズ』は拳銃色。『グッドフェローズ』とは一見姉妹編のような『カジノ』は蛍光色ネオン色。ぬり分けお見事。この華麗なる筆さばきのお陰で、好ましくない題材の映画ものめりこんで見てしまうのだ。新作が公開されたら必ず見に行く大好きな監督の一人である。


東京フィスト(塚本晋也監督)

パンチ、パンチ、拳、拳、噴血。危険だ。観た後、やたらと人を殴りたくなる。そういう訳にもいかんのでアクセル踏み込み、急ハンドル、急ブレーキ、帰りの運転が荒っぽくなってしまった。フラストレーションを拳に込めて殴る、破壊する、それだけの映画なんだけどおもしろい。映像にリズムがある。女性を粗末に扱っていない。東京が美しい。音楽もはまっている。監督自らが主人公、実弟がライバルを演じる。教祖様の演技を見て塚本教の深みにはまった。なむなむ。殴って殴って破壊しつくしたら壮快感があるだろうか。それよりも、殴って自分の拳を傷めて殴り疲れてぼろぼろになって一遍死んでみたら(←比喩です。)フラストレーションもどこへやら。頭の中は真っ白な灰、空気は清々しく透明。やっぱり心の中でロケットパンチを飛ばすより、サンドバッグでも叩いて肉体疲労の極限まで行ってぐっすり眠る方がより良いあしたが来るってことですか、監督。


ひとりで生きる(ヴィタリー・カネフスキー監督)

ラストシーンの後、エンドクレジットが流れ始めても水を掻く音がつづく。ゆっくり、みぎひだり等間隔に休むことなく。どこへ向えばいいのか分からない。いつまで泳げばいいのか。水を掻くのを止めたら、たちまち手はかじかんで、氷の河に沈んでしまう。少年は泳ぎつづける。水を掻きつづける。この音がつづくかぎり彼は生きている。だから、音はつづく。映画が終わっても耳の中でつづく。確かに子供が一人で生きるのは過酷だ。子供の味方カネフスキーは前作『動くな、死ね、甦れ!』で、少年ワレルカのことが大好きなしっかり者の少女を彼の守護天使にした。だが、『ひとりで生きる』では守護天使もいなくなり、本当にひとりになった。自分の身は自分で守らなければならない。生きるのがやっとだ。それでもひとりで生きるのは自由のためだ。どんなに貧しく悲惨な環境でも子供はその中で生きるしかない。家でも学校でも家出して悪事を働く場でもそうでない場でも大人がいる。大人はわかってくれる存在ではなく、子供を封じ込める(あるいは利用する)存在だ。嫌ならひとりで生きるしかない。多くの子供とは違う生き方を選んだワレルカは冷たい河をひとりで泳がなければならない。厳しいけれど優しい、わかっている大人カネフスキーは水の音を消せない。


スクリーンにウディ・アレンが登場してイジイジウジウジしゃべりだしたりすると、私の中の野蛮人の血が沸騰しそうになる。(『カメレオンマン』は例外だけど。)彼の出演しない映画でも、しゃべりっぱなしの登場人物の背後に自虐的神経症のしかめっつらが浮遊しており、どうにも好きになれない。いくらおもしろい映画を作ってくれても相性のよろしくない監督だ。ところが『ブロードウェイと銃弾』は珍しく単純明快で伸び伸びしていて、芸術至上主義も芸術家になりたくてもなれない凡人も肯定的に描かれており、全編笑いどおしでおしまいには感動した。これだからあまり好きでない監督の映画もよ〜く評判を聞いてぬかりなくチェックしなければならない。(明日は『ユリシーズの瞳』をチェックに行きます。)これに対して好きな監督の映画は製作発表から注目。企画が流れないように祈り、撮影が無事終わるのをひたすら待つ。完成したら当地での公開を、またしてもひたすら待つ。いや〜、映画って本当に待つものですねー!『フルメタル・ジャケット』から幾年ぞ、この秋から撮入予定の"Eyes Wide Shut" 完成が待ち遠しい。

(1996年7月号)


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