宗教色の濃い『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

いや、とにかく凄い感動でした。
この感動を言葉に置き換えるのが面倒で、かなりおおざっぱな感想になると思いますが・・・・・。
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どこに感動したかというと、まず、「私はすべてを見た」というミュージカルシーンです。失明することを受け入れようとするシーン。(ここではセルマはジェフに別れを告げています。)悲しかったなあ。
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その次はやはりビル(警官)を殺した後のミュージカルシーン。彼女のこうあってほしいという状況が歌われています。ここでは息子ジーンは「(殺したことは)仕方がなかったんだ」と歌ってくれています。居たたまれない気持ちになりました。
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その次のミュージカルシーンは「サウンド・オブ・ミュージック」の稽古場ですが、このときは皆セルマのミュージカルに参加していますが、ジェフだけは客席でそれを眺めています。ジェフってばセルマのことを本当に愛していたのに、彼女には一緒に歌ったり踊ったりする人として見てもらえなかったのね。なんか寂しい。
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そして、最後(正確にいうと最後から2番目)の歌。キャシーの励ましによって、セルマは「ジーンの目が見えるようになる!」と思い、処刑前の錯乱状態がおさまり、それまではリズムなしで歌えなかった彼女が、「心の声を聞いて」というキャシーの言葉に自分の鼓動を聞いたのか、息子への思い=喜びの歌を歌うのです。
ここで私は、おそらくセルマに同調していたと思います。「よかったね〜」という感じで滂沱の涙でした。しかし、無残にも例の「ガッターン!」という音に飛び上がって、一気に冷めてしまいました。そして、その後の字幕については蛇足だと思い、更にその後のエンドタイトルは呆然と、かつ、いささかの重苦しさを抱えて見終わりました。


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私たちが暮らす世の中は、「愛は勝つ」とは限らず、また、正直者が馬鹿をみることが厳然としてあります。だからせめて物語の中では、愛は勝つんだ、正直者は報われるんだという夢を見せてほしい。そんな私たちに『奇跡の海』は夢どころか、魂のレベルで希望を与えてくれました。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も基本的には『奇跡の海』と同じモチーフだと思います。
教養はないけれど、自立心と隣人への思いやりと息子への愛情をもつ善人セルマは、周囲の善意の人々や心の中のミュージカルに慰め励まされながら生き、ついには生涯の念願であった息子の視力は保たれると聞かされ歓喜のうちに死んでいきます。これはセルマにとっては、血のにじむ苦労が報われたというべきで、彼女は物語の中で救われたのです。(実際にジーンの目の手術が行われたかどうかは、この際問題ではありません。彼女がジーンの目は治ると思ったことが大切で、そう思ったからこその救いなのです。)
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ところが、主人公が救われても、彼女の無残な死をまざまざと見せつけられた観客(私)は救われませんでした。ブツ切りのショックが大きかったからだと思います。フェイドアウトとかエコーとか、そういう手法ならまだしもブツ切りですからねえ。
つまり、トリアー監督は、主人公の人生最大の願いがかなったことによって「観客」が救われることは望まなかったのです。監督は、セルマの死につづくエンドタイトルで「あの世」を描くことで、「人生最大の願いはかなったが、歓喜の歌は寸断された。彼女は死んだ。しかし、それは終わりを意味しない。新しい世界、あの世があるから。」と言っているのではないでしょうか。あるいは、セルマにはなんの報いもなかった、彼女は結局救われないまま死んでいったと思う観客に対しても、「死」は終わりでないことを示したかったのかもしれません。
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というわけで、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、トリアー監督が観客を「死」からも救おうとした野心作、というのが私の受けとめ方ですが、かなり特異な感想かも(^_^;。
ちなみに、「あの世がある」と言われてもな〜。私はこの世で救ってほしいぞ(笑)。というのが最終的な感想であります。



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