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■鬼の対談>肉弾(前編)
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今回は長いので前編と後編に分けました。
ヤマちゃんとの数回に渡る、年越しメールをまとめたものです。



 
ヤマちゃんのシネマノート



高知シネマフェスティバル2000
県民文化ホール(グリーン)11月25日〜26日
青春を憎め!怒涛の二日間★ATG映画特集



『肉弾』1968(S.43)監督 岡本喜八
『絞死刑』1968(S.43)監督 大島 渚
『日本の悪霊』1970(S.45)監督 黒木和雄
『書を捨てよ町へ出よう』1971(S.46)監督 寺山修司
『股旅』1973(S.48)監督 市川 崑
『青春の殺人者』1976(S.51)既見/見送り 監督 長谷川和彦
『曾根崎心中』1978(S.53)監督 増村保造
『Keiko』1979(S.54)監督 クロード・ガニオン
『ガキ帝国』1981(S.56)監督 井筒和幸
『怪異談 生きてゐる小平次』1982(S.57)未見/見逃し 監督 中川信夫



 ATGで製作配給された日本映画101作品のなかから実行委員たちが選んだ十本は、思っていた以上に粒ぞろいの作品ばかりだった。なかでも鮮烈だったのは、やはり60年代の二作だ。

 岡本喜八監督の『肉弾』は、前年の大作『日本のいちばん長い日』のドキュメンタルな手法とは対照的に大胆なまでの象徴性を秘めたシリアスな戯画化が強烈で、ドキュメンタルな手法では語り尽くせないインパクトを持っていた。かねてより観たくて、手元にビデオを持ちながらも初見はスクリーンでとの思いから留保していただけに、今回の上映は嬉しく、また予想を遥かに上回る作品の力に、観ていて込み上げてくるものがあった。

 数多ある反戦映画のなかでも、つくづく、本当に馬鹿なことをやっていたんだということを情けなさとともに、これほど思い知らせてくれる作品を他に知らない。真摯に生を見つめようとする青年(寺田 農)は、いかなる有意の言葉も頼りとならない地点にまで至り、無味乾燥とも思える数式のみを、それゆえにからくも己が魂を支え得る最後の念仏ないしは呪文のようにして、繰り返し繰り返し唱えていた。その姿に、絶望とも自覚することすら麻痺させざるを得ない脱感作的な絶望の深さが偲ばれて、胸に迫る。それにもかかわらず、掃き溜めの鶴のようにして出会った少女(大谷直子)や少年と触れ合うだけの魂の清冽さと感受性を保つためには、あのどこかとんでもなく現実感を遊離させたような感覚が、抜き差しならないものだったのだろう。それだけに、そうまでしなければ、命の営みを続けられないくらい追い込まれた袋小路のなかで生きるしかなかった若い魂の哀しさが、何とも明るくのどかな音楽によって際立たされる形で、観る者の心に沁みてくる。

 一見とぼけて間の抜けたような演出と脚本でありながら、むしろ、だからこそ、そのようなものを表現し得るのだという確信をもって臨んでいる作り手の気迫と気骨は、敬服に値する。戦後二十三年、当時の現在へと繋げた波間に漂うドラム缶は、映画のラストシーンの白眉とも言えるものだった。


 大島渚監督の『絞死刑』もまた奇想天外な着想と設定ゆえに、リアルなドラマ以上に真実と核心を突く問題提起が、痛烈な批判とともに鮮やかに果たされた、見事な作品だ。現実と現実認識の差異、記憶や意識の現実に対する優位の側面と劣位の側面などを巧みに掬い取りながら、不確かで揺れる人間の意識を固定し、定着させて割り切ろうとする制度といった社会的枠組みを皮肉っている。しかも、それに対してそれぞれのレベルで何らかの形では馴染まずには生きられない社会的動物としての人間という視点も抜かりなく、官吏、刑吏、医師、牧師といった人々の意識のさまざまな縛られぶりとか困惑、反応が滅法面白く、あまり場面転換もないのに二時間という時間をいささかも長いと感じさせない。

 死刑制度の是非や在日朝鮮人の差別問題や民族問題、さらにはインセスト・タブーなど、若々しく挑発的な問題意識が作り手に率直に窺えて好もしく、痛快だ。場面転換として印象深かったのは、絞死刑執行室のある建物から出ると、それがそのまま貧民窟のバラック小屋から屋外に出る形になった場面の、まるで意識世界のありようを端的に示したかのような鮮やかな展開の仕方だった。若かりし頃の大島監督の才気と知性には大したものがあると改めて思った。過去に観た作品では『少年』が僕の内では最高位だったが、この作品は、それに匹敵するものだ。


 黒木和雄監督の『日本の悪霊』は、これより先に同じATGで撮った『とべない沈黙』の先鋭な問題意識と刺激に満ちた作品ぶりからは、いささか破綻した作品だとの印象を免れない。しかし、ある種の時代的感覚を見事に掬い取り、宿らせているのは流石で、それは単に岡林信康や土方巽を起用しているからというだけのものではない。だが、この作品から三十年を経て今世紀最後の年に公開された新作『スリ』では、原田芳雄や石橋蓮司、伊佐山ひろ子といった個性の強い俳優を起用すると、多くの作品が彼らの個性に寄り掛かった使い方しかできないでいるなかで、監督としてのコントロールがきちんと効いているように感じられて感心はしたのだが、そういった意味での時代を掬い取るアンテナの感度が随分と落ちてしまっていることに気づかされる。演出の力量に溢れた監督は他にいくらでもいる。他に抜きん出て時代的感覚を掬い取ることにたけていたという最大の魅力の部分が失われていることを少し淋しく思った。


 増村保造監督の『曾根崎心中』では、その力業に圧倒された。冒頭からハイテンションで始まり、この先どうなることかと思いきや、そのまま一本調子で真っすぐ二時間、最後まで押し切ってしまったのだ。オープニングが高いテンションで始まる作品は特に珍しくもないが、ほとんどの場合、その後ぐっと地味で、たいがいは過去に遡った、本来の始まりのシーンに帰っていく。そこからまた徐々にオープニングのハイテンションにまで盛り上げて、さらにはそれをも上回るクライマックスへと到るとしたものだ。

 ところが、この作品では、愚直なまでにいささかも緩めることなく、芝居掛かった台詞回しとひたすら思いつめ、自らを追い込んでいく強迫的な思い込みをまるで相互に張り合うかのような掛け合いによって、高まった気合いを維持し続けながら、心中に到るまでの道行きを綴る。

 通常は、ハイテンションを効果的に際立たせる効果をもたらす緩急のリズムといったものが映画の文法として踏まえられるものだが、それを一切無視したうえで、観る側の慣れによる緩みをももたらすことなく、二時間貫徹してしまう力量は、半端なものではない。つとに知られた近松浄瑠璃のシンプルさゆえに効果的に働いた演出法だとは思うが、驚くほかない。

場面としては、お初(梶芽衣子)と徳兵衛(宇崎竜童)がそれぞれの決心のほどを直接語り合わず、上框に腰掛けたお初の、他人に向けていながらその実徳兵衛に向けて語る言葉を聞きながら、床下に潜んだ徳兵衛がお初の足を撫でて掴んで確かめ合う場面がとりわけ魅力的だった。


 クロード・ガニオン監督の『Keiko』は、退色がひどくて赤茶けた映像になっていたのが残念だったが、今観てもというか、今のようにジェンダーに対する社会的関心が強まり、同性愛に対する寛容度が一般化してきたなかで観ることで、二十年前当時、作り手の持っていた視線の自然さというものが、かなり先進的なものだったことが判るような作品だ。京都を舞台にしながら地域色の窺える言葉でないことが、ドキュメンタリー・タッチを標榜しているだけに惜しまれるが、風俗的な側面で時代のモードをうまく捉えつつ、京都の外れの庵でケイコと同棲するレズビアンのパートナーの人物造形やその生活スタイルの趣味やセンスなど今観てもなお先進的なかっこよさを保っているところが、なかなか新鮮だった。



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日本映画をもっと観たい!


お茶屋(以下「お茶」)
では、さっそく(笑)。
話は『肉弾』が中心になると思いますが、シネフェス2000を観て思ったことも言っておきたいです。
一つは、何といっても『肉弾』のような歴史に残る傑作を、一般の人々が目にする機会がないのがたいへん残念なこと。


ヤマちゃん(以下「ヤマ」)
心ある方皆さんが言ってることです。
これに加えて、今や世界的にも注目著しい日本映画の新作が、日本に住みながら、地方ではスクリーンで出会える機会がほとんどないという事態を何とかしてほしい。


お茶
映画ファンでない人は、日本映画が注目されていることを知りませんもんね。 北野武のことは知っているかもしれないけど。
日本映画は面白くないと思われているし。『顔』が上映されず『新・仁義なき戦い』が上映されちゃ、そう思われても無理ないと思います。


ヤマ
そうだ、そうだ!こいつをまずなんとかしてもらわなきゃ!
鶏が先か卵が先か、ふぅ〜ん、やっぱりむずかしいよねぇ。
自主上映に期待したいのは、ホントはこういうとこなんだけど、今や頼りは、これからの「あたご劇場」さん!
応援してあげて下さい。


お茶
あたご劇場へ『漂流街』を観に行ったとき、『あ、春』をリクエストしました。
高知市内で唯一、駐車場のある映画館だし、スピーカーがアルテックのせいか、休み時間の音楽が大変いい音です。
本編でいい音だと思ったことが、あまりないのはなぜでしょう?


ヤマ
映写機側の音声読みとりのほうの問題だと思いますね。


お茶
それにしても、めぼしい日本映画が地方では上映されないことについてですが、ATGの作品は上映館が全国で2館だったというお話でしたから、その頃 から状況があまり変ってないような気がします。


ヤマ
これ、たぶん、必ず上映されることが約束されている上映館という意味で、実際に上映した館が全国で2館ということではありません。
でも、少ないことに間違いはありませんが。


お茶
映画館がもっとたくさんあった時代は、どうだったのでしょう?


ヤマ
聞きかじりで申し訳ないですが、今に至るも、日本は少ないと言いながらもフランスやイタリア(だったと思うんだけど、ちょい不安)と並んで、数少ない自国産映画を上映している比率の高い国だったと思います。
世界的に見れば、ハリウッドの席巻はもっともっと圧倒的なんだそうです。


お茶
どんな方法だったか忘れたけど、韓国も自国の映画を保護しているらしいですね。あと、忘れちゃならない、インド映画!(笑)


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総理大臣のくしゃみが聞える

ヤマ
それと、『肉弾』に関しては、目下のところ、一般の人々以上に真っ先に観て欲しいのは、何と言っても森首相ですよね。
絶対と言ってもいいよね、彼が観ていないということは。


お茶
存在さえ知らないと思うけど。


ヤマ
確かに。


お茶
森首相はまるで戦前の人だから、戦中戦後の民の声を素直に反映した『肉弾』を観ても理解できないんじゃないですか。


ヤマ
理解はできなくても、あぁこういうふうにも「神の国」という言葉は使われているんだと知ってれば、あんなアホなことは言わないんじゃないかしら。
自分の身近な周りにいる歴史を見直す会とか何とかいう連中の話ばかり聞いているから、正常な判断ができなくなるんですよね。


お茶
それと日本国憲法を知っていればね。


ヤマ
これはこれは、彼の職に対する最も痛烈なご指摘ですな!


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日本映画の国宝指定

お茶
シネフェス2000で2番目に言いたいことは、『股旅』『ガキ帝国』『生きてゐる小平次』と退色していたのが残念だったこと。


ヤマ
日本の場合、殆どの映画が作品として扱われず、商品でしかありませんでしたから、商品価値がないとか用済みとかいうふうに観られると、無惨なものですよね。
いい状態で保存されているものが残っているかどうかは運次第。
世の中の仕組みの一環としてきちんと残されていくべきものがあるとは思うんですけどねぇ。誰が金出す?


お茶
国民で出しましょう!(←税金のこと)
たとえば『肉弾』のような映画は文化財として管理してもいいのでは?
平和憲法を維持するつもりがあるなら、国宝に指定してもいいと思う。
まあ、誰かさんのような人が首相をやっている限り無理でしょうけど。


ヤマ
こいつは、さすがに首相が替わっても無理な話でしょう。
今のどの政党が政権を獲っても無理だと思います。
日本の国民的文化レベルがそこまで至ってないと思います。


お茶
3番目に言いたいのは、井筒監督がようしゃべり、受けていたこと(笑)。


ヤマ
もはやタレントさんですから(笑)。


お茶
それと、『肉弾』について忘れないうちに書いておきます。
・・・・・・・・・・・・・田中邦衛、ちゃんとしゃべれるやんかーーー!(笑)


ヤマ
あの映画に、こういう突っ込み入れてくるところが、貴女らしくて好きだなぁ。


お茶
あれ?ヤマちゃんは、そう思わなかったの?


ヤマ
何かヘンに凛々しいじゃないってとこが妙に可笑しかったよね。


お茶
うん。こんな役もできたのね〜。


ヤマ
ナレーションは、佐藤慶の声のような気がしたけど、クレジットを見落としました。覚えてる?


お茶
仲代達矢でした。


ヤマ
ありがとう、そう言われれば、そうだったような気がします。
さすがですね、しっかり掴んでらっしゃる。


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そろそろ『肉弾』について話しましょう

お茶
見終わった後、私が「おもしろかったねえ!」と言うと、ヤマちゃんは嘆息とともに「かなしいねえ」とつぶやいていましたね。
戦争で両手を失って一人では用を足せない笠知衆のエピソードにしても、私は笑ってしまいました。登場人物の大笑いにつられませんでした?
可笑しさと悲しさが表裏一体になっているところがこの映画の魅力だと思います。また、痛烈でいて人間に対する眼差しはあくまで温かいところも。


ヤマ
可笑しさが強ければ強いほど、瞬時に哀しさに転換し、増幅される感じでした。
結局、表に出る反応として大笑いできたところはなかったように思います。
可笑しさが哀しさに転換するような作品に、眼差しの温かさは不可欠です。


お茶
私が考えている『肉弾』メニュー(とりあえず)

1 ラストシーンに触れずにおくことはできないでしょう。

2 アイツ(寺田農)が素っ裸で、爆弾を戦車の下にほうり込む練習というか、発作を起こした後、少女(大谷直子)も同じようにするのですが、このシーンの意味するもの。

3 シネマノートに「大胆なまでの象徴性を秘めたシリアスな戯画化」とありますが、何が何を象徴しているのか二つ三つ教えてください。

こんなメニューでいかがでしょう?ベルトルッチにこりまして(笑)。
順番はどうでもいいです。他に何かありましたら・・・。


ヤマ
ベルトルッチの轍を踏むまいという貴女のお気持ちは、「メニュー(とりあえず)」と「番号」を見た瞬間に察しましたよ。
僕は、念仏ないしは経文のような数式が一番ですが、日誌にも綴ったようにラストに触れずにいられないことに異論はありません。

下手なこと書くモンじゃないと思いつつ、「何が何を象徴しているのか」と来るだろうなと思ってました。
はじめのほうから小出しに行きましょう。


お茶
ということですので、ラストについては最後にして、まず、ヤマちゃんの一番話したい念仏についてから行きましょう。


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聖なる少女とアイツの出会い

お茶
数式を念仏のように唱えはじめたのは、少女との出会いからですよね。ですから、少女との出会いで私が引っかかったところ、「アイツが素っ裸で、爆弾を戦車の下にほうり込む練習をした後、少女も同じようにするシーン」が何を意味するのかお聴きしたいのですが。


ヤマ
売春街を訪ねてくる多くの兵士達とは決定的に違って、絶望的な状況の中で失うまいとして辛くも懸命に守っている内なるものを持っている男だと直感的に把握した少女が、私も貴男とおんなじなのよということを見せ、伝えたいという感情を持ったことを視覚的に表現したものだと僕は思っています。
一般的に、真似をするのは一体化ないしは同一化への願望だと思います。


お茶
なるほど。この件については、これで落着です。大いに納得しました。
私は、アイツが狂ったみたいになったので、狂いでもしなければ弾薬を戦車にほうり込むような命知らずな行為はできないよな〜と思いながら見ていま した。で、少女の方では、発狂にいたるその行為を真似することで、アイツ(の置かれた状況)をもっと理解しようとしたのかと思っていましたが、確かに、「わたしもあなたと同じ」ということを示しているようでもあります。


ヤマ
アイツのほうにも言及するならば、アイツにとって、あの馬鹿な演習というのは、頭の中を空白にする状態を意味しているように思いますね。(そうしなきゃ、やれない)
だから、少女に対して抱いた欲望をふっきろうとした感情の表出でしょう。
それに対して少女のほうが一体化の願望を表出してくれたので、一夜の思い出となる場面へと展開するわけですよ、多分。


お茶
ますます、なるほどぉ。
たいへん、なっとくなのですが、アイツが清潔すぎて、欲望より任務の非情さに正気じゃいられない風に見えました。まったく、その気がなかった訳じゃないと思うけれど、かなり棚ぼたでしたね。


ヤマ
そうです、そうです。清潔だからこそ、ふっきろうとするんですよね。
ましてや、やっぱりするんじゃなかったぁ的な買春体験によって、童貞喪失したばかりの「汚れた」身で、聖なる少女に欲望をいだいたとあっては、尚のことってね。
そんな(棚ぼたのような)ラッキーが誰の人生にもあるものではないと羨む余地のある唯一のエピソードでしたね。
まぁあれだけ過酷な生を強いられたアイツにラッキーなことも一つくらいはなきゃ、あんまりと言えば、あんまりだもの。


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念仏は心の救い?

ヤマ
数式が彼にとっての念仏ないしは経文のようなものとなったことには、この少女との出会いと思い出が大きな部分を占めています。
そういう観点からは、あの念仏は、僕が日誌に綴ったように無味乾燥なものではなく、少女を象徴したもので、非常に人間的な感情が色濃く反映されていたという見方をするのが本来かもしれませんが、僕は敢えて、それはそれとしてドラマの展開上そうしているものの、作り手にまずあったものは、 意味を持つ言葉が何の救いにも支えにもならないことを強烈に示すものとしての、言葉ではない念仏というアイデアであったと睨んでいますし、人間の実存に対するそういう洞察力の深さに感動を覚えます。
だからこそ、それが一夜の出来事に至る以前から、アイツの口に唱えられていることが重要だという気がします。
そのためにも、出会いからそのまま出来事に繋がるのではなく、わずかなタイムラグではありますが、再会して、という形が必要になっていたのだと思うんだけどなぁ。


お茶
「一夜の出来事に至る以前からアイツの口に唱えられていることが重要」というのは、精神的な意味合いが強まるということですか?
最初は少女との思い出の言葉としての意味があったけれど、過酷な状況の中で念仏化していったのではないでしょうか?


ヤマ
数式の念仏化に、言うところの棚ぼたが影響したのではないというところが重要なのは、たまたま出会った少女に問われて反芻した因数分解の呪文が思いがけなく気持ちを救ってくれたという体験でないといけないからです。
アイツが繰り返し口にさせられたであろう軍人勅諭や、子どもたちが繰り返し朗読させられた「ニッポン、ヨイクニ、カミノクニ」といった教科書や教育勅語が、いくら繰り返し口にしていても、ちっとも救ってくれないもの。
そして、それは売春宿でおねえさんという名のおばさんを待っている間にめくった聖書の言葉でも与えられなかったもの。
それが人間的な意味合いを持たない数式という無機質なものによってのみ、わずかに救われる部分があると感じられるくらい、いわゆる意味というものが、いっさい無化された、すなわち「我思う故に我有り」的な意味的動物である人間が、そういう意味での人間性を根こそぎ奪われていることを強烈に示すためには、数式が棚ぼた体験の象徴として人間的な意味を帯びてしまってはいけないのです。
そういう意味で、貴女の言う「最初は少女との思い出の言葉としての意味があったけれど、過酷な状況の中で念仏化していった」という解釈は、一般的にはありかなと思いますが、僕としては乗りたくない解釈です。
僕の感動の最も重要な部分は、無機的な数式の念仏しか、ささやかな救いにならないほどに、意味的動物たる人間から人間性が根こそぎ奪われた過酷な状況の表現にあったからです。


お茶
なるほど。
私は以前、「宗教は浮き袋だ」と言って感心されたことがありました。(浮き輪を投げられると、溺れている人にはありがたいが、気持ちよく泳いでいる人にはうっとしいだけだという意味です。)
アイツに浮き輪を投げる人はいないし、一本の藁も浮いていない。
数式の念仏によって奪われた人間性を取り戻せるわけではなく・・・・・、


ヤマ
「取り戻せるわけではない」ってとこ、重要です。


お茶
現状からの逃避の呪文として数式を唱えることで、ぎりぎりのところで自分を保っているということですね。


ヤマ
そういうことなんです。しかも、最後の呪文の言葉として呪文たりえたのが、言葉としては意味を持たない数式であったところが強烈なんです。


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そして、アイツの人間性は保たれた

お茶
この場合の人間性って「自由」のことですよね。


ヤマ
それも勿論あります。
憲法で保障された良心の自由や信教の自由などがまさしくそうで、自分を自分らしくあれるように保つ自由を基本的人権としていますね。
でも、僕は、そういった「自由」以上に、前にも言った「我思う故に我有り」とか「人間は考える葦」だとかいった意味的動物としての人間という意味での人間性が、この作品で示された人間性の核心だと思います。
「自由」は人間性そのものではなく、ある種の人において人間性を保つ上で必要となるものという感じですね。
まぁ、たぶん貴女と僕は同じような観方をしながら、持ちだした言葉が少し違っているだけなので、取り立てて言うほどのことではないのかもしれませんが、人間性と自由を等号で結ぶと違和感が生じるほどに、自由とは万人が真に求めているものだとは思えないという人間観が僕の中にあるのは事実です。 自由は、ある種の人において人間性を保つうえで必須のものだから、基本的人権として社会的に保障されてなければならないけれど、自由に耐えるだけの自我及び超自我の獲得を果たすことよりも、自由に耐えられず放棄したがる人がたくさんいるのもまた事実ですから。
彼らに自由を押しつけることもまた大きなお世話なのかもしれません。


お茶
う〜ん、人間性という言葉でいいんだろうかと思いはじめています。
アイツは数式の呪文がなければ正気を保てなかったわけで、正気を保てなくなると人間性もなくなるかというと、そうではないわけだから・・・・。
何事によらず人間のすること(たとえ非人間的だと思われることであっても)に人間性がないとはいえないと言う人もいるくらいですし。人間性という言葉は難しい。哲学になっちゃう。


ヤマ
だからこそ、「意味的動物としての人間という意味での人間性」というふうに限定表記して、「人間性」の一言で済まさなかったんですけどね(ウジウジ)。


お茶
あ、それはどうも、失礼しました(^^;。
アイツがギリギリの線(まさに『シン・レッド・ライン』)に追い詰められている、そのことを描いているというのはわかります。「人間性が根こそぎ奪われた過酷な状況の表現」に数式の呪文を用いるすごさもわかります。だから、「持ち出した言葉が少し違っているだけ」と言ってもらってよいと思います。
ただ、私の思っていた自由を説明すると。
アイツを始め連隊の兵士は腹ぺこだったこと←これは不自由
本屋の主人(笠知衆)の用足し←これも不自由
学校の先生に殴られる←殴る方も殴られる方も不自由
ドラム缶の中のアイツ←まさしく不自由
頭の中まで自分で自分をコントロール出来なくなる←不自由
うえのようなものをひっくるめていっておりましたので、厳密にいうと人間性と自由を等号で結んでいたかもσ(^_^;。


ヤマ
こうして列挙してもらうと、改めて明快ですね。僕は等号で結ぶ気はないけど、この部分をこういうふうに捉えることには、異議な〜し!です。


お茶
アイツは人間らしい感情は、最後まで持ってたもんね。それも数式のおかげかな。反戦映画には、「戦争は人間を鬼畜にする→だから戦争反対」というパターンの映画があると思うのですが、『肉弾』はアイツが最後まで清々しく温かくてよかったです。


ヤマ
ほんとにそうでしたね。
カンカン照りの海上に漂うドラム缶のなかでも、ひとたびは飲み込んだ小さな命を再び戻していましたよね。お得意の牛の反芻で。


お茶
愛する人を守ろうとする素直な気持ちが肯定的に描かれていて、すごくよかった。そんな美しい気持ちを戦争に利用したのは、いったい誰だと思いましたね。


(後編へつづく)


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  1. 『顔』が上映されず: 対談当時は上映の予定がなかったが、現在あたご劇場で上映中。 もどる

  2. ベルトルッチにこりまして: この対談の前に行ったベルトルッチについての対談が、話があっちへ飛びこっちへ飛びしているうえ、とてつもなく長編のため、お茶屋はこれを編集しあぐねている。もどる

  3. 牛の反芻: お茶屋が小学生3、4年生の頃、給食の時間の全校放送で、ある先生の戦争中の体験を聴いた。戦争中は食糧もろくになかったので、子供であった先生は、一旦胃におさめたものを口までもどしてまた食べたそうである。こうすると、いっぺんに食べるよりもお腹が張るそうで、空腹感を癒すため友達もみんなそうやって食べていたということだ。もどる
2001/01/21


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