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■かるかん>ミスト |
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ミスト 一番怖いのは人間 |
この映画を観た後、トイレに行ったのです。便器の中で「ガガゴゴッー」と引き込まれていく水を見てさえ震えが来ましたよ。霧の中に凄まじい勢いで引き込まれていく人を思い出しちゃったんですねぇ。う〜ん、くわばらくわばら。 霧の中に何かいる。その正体がわからないので、まず怖いです。 全体的に人間の負の部分を描いています。幼い子供を留守番においてきたので帰らなければならない、誰か送ってという母親の訴えにみんな目をそらします(そりゃそうだ)。デイヴィッド(トーマス・ジェーン)の制止を無視してシャッターを開けたはいいが、その後はなすすべなしの機械工も、デイヴィッドらにからかわれていると思い込んでいる弁護士のノートン(アンドレ・ブラウアー)もマイナスパワーを発揮しています。「人間って信用ならない。だから政治と宗教があるのだ。」というのは、全否定はできませんね〜;;;。でも、その宗教も状況によっては人間を善ならしめるどころが、悪に向かわせます。カーモディ夫人(マーシャ・ゲイ・ハーデン)には困ったもんだ。
極限状態で通常の思考をするのは難しいと思います。もし、あの冷静で勇敢な射撃の名手オリー(トビー・ジョーンズ)が生きていたら、「ギリギリまで待ってみよう」「もしかしたら霧が晴れるかもしれない」「助けが来るかもしれない」と考えたかもしれません。しかし、誰もそんなことを考える余裕はありませんでした。結末は絶望の果ての行為です。絶望というのは、希望がないわけじゃなくて「希望を持つことができない状態に追い込まれること」だとよくわかるラストでした。 <<追記>>私は、『ミスト』の作り手は、様々な事象と人間の言動の間に因果関係はないことを描いており、そうすることによって、「神はいない」と言っているような気がしていました。ところが、ネット上で色んな人の感想を読んでみると、私とは反対の受け止め方をしている人が少なからずいらっしゃり、誠に意外で驚きました。それで、いま、うえの感想には書かなかったキリスト教や銃についても書きたくなって、うずうずしています(笑)。 ●ネタバレ感想
カーモディ夫人は狂信的な人物に描かれております。顔の見えない人々のために祈ることはできても、「トイレ、使わせてもらっていいかしら」と入ってきた女性を罵るような、人格者とは言い難い人物です。そんな彼女の予言(「今夜、襲われる」「死人が出る」)が当たったところで、私は単なる偶然だと思っていました。
そこへ持ってきて、カーモディ夫人に比べて遙かに良識派に見えたデイヴィッドたち一行は、ほぼ全滅。一方、冒頭で無理なお願いを聞き入られず「地獄へ堕ちろ」と捨て台詞を残して霧の中へ家路を急いだ母親は生き残っています。これは、もう私にとっては不条理のダメ押しで、益々もって人間の言動と事象の間に因果関係はない(=善人が救われて悪人が地獄に堕ちるわけではない)、作り手は「神などいない」と言っているみたいだと思いました。 で、ここからが書きたくなったことですが、午前0時を過ぎたので、お風呂入って寝ます。ひとまず書き終わった分だけアップしておきますので〜。 <<追記の追記>>人間は結果に対する原因を探るとき科学的な思考によらず因縁をつける習性がありまして、ことに何か悪いことが起こると「天罰かしらん」と恐れたりするものです。だけど、『ミスト』ではそういう因縁をつけるカーモディ夫人が否定的に描かれており、観客も彼女を否定的に見ていたと思います。ところが、最後に「地獄に堕ちろ」の母親が再登場するに及んで、観客は主人公が「彼女を助けてあげなかったこと」と「地獄の体験をしたこと」を因縁づけます。これは、さっきまで否定的に見ていたカーモディ夫人と同じ轍を踏んでいることになると思います。(ここまで、うえの追記のまとめ。) ことほど左様に「善人は天国へ、悪人は地獄へ」という宗教的な考え方が人間に染みついているのだなぁと感慨深いです。かく言う私も「生き方は選べても死に方は選べない」と書いたように宗教的な考え方が好きで、宗教ってよく生きるための知恵だと常々思っているわけですが・・・・。
キリスト教に関して言えば、私にとってヒジョーに都合がよろしくない宗教なんです。たとえば「隣人を愛せよ」というのは無理(笑)。デイヴィッドはお隣のノートン弁護士と仲が悪かったでしょ(ほらほらぁ)。遠くの誰かの幸せを祈れる人でも、目の前の人に殺意を覚えることがあるでしょう。殺意とまではいかなくても「このやろー」と(笑)。
これに対して母親は「地獄に堕ちろ」と言うわけですが、ちょっと待ってプレイバック。キリスト教って「姦淫するなかれ」「頭で思ってもいかん」のではなかったですか?「自分に罪がないと思うものだけ、この女に石を投げよ」「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」とも言っていますよね。それからすると、この母親は「地獄に堕ちろ」なんてキリスト教的には言っていけないことだったのでは?
私がこれまで得た情報から考えるに、キリスト教の大きな特徴は、艱難辛苦を神から与えられた試練だと捉えることにあります。試練を乗り越えるためには戦い(葛藤)があるわけで、キリスト教徒は物事に立ち向かっていく傾向があるのではないでしょうか(*)。
で、物事に立ち向かうキリスト教徒であり、アメリカ人である主人公たちは、銃が手放せないのですね。 (*)・・・・仏教はものぐさな私には都合のいい宗教で、艱難辛苦は「まあ、そういうことも多々ある。だけど、それはいつまでも続かない。諸行無常の響き有り。」で、何もせずじっとしていればいいです。(すべてお茶屋解釈。) TOHOシネマズ高知3 2008/5/24 |
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