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■鬼の対談>めぐりあう時間たち(1)
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とある映画フォーラムで、『めぐりあう時間たち』について、ぼのぼのさん、スーダラさん、お茶屋でコメントの遣り取りをしたものをまとめました。
なお、この映画の主な登場人物は、次のとおりです。
  • 20世紀初めの頃
    ヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)
    レナード・ウルフ(スティーヴン・ディレイン)
    ヴァージニアの姉:ヴァネッサ(ミランダ・リチャードソン)

  • 20世紀中頃
    ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)
    ダン・ブラウン(ジョン・C・ライリー)
    二人の幼い息子:リッチー(ジャック・ロヴェロ)
    ローラの友人:キティ(トニ・コレット)

  • 21世紀
    クラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)
    リチャード(エド・ハリス)
    リチャードのかつての恋人:ルイス(ジェフ・ダニエルズ)
    クラリッサの現在の恋人:サリー(アリスン・ジャニー)
    クラリッサの娘:ジュリア(クレア・デインズ)


 
■■恋の始まり■■
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(ぼのぼの)
弱った・・・
僕はこの映画に恋をしてしまったようだ。

この映画に対する周りの評判は必ずしも芳しいものばかりではない。
「難しくてよくわからん」という声はしばしば聞くし、普通のメロドラマだと思って見に来た周りの女性客が退屈しているのは、肌で感じ取る事が出来る。

それは当然だろう。前にも書いたように、これほど見る者に集中力を強いる映画は希で、集中力が途切れると、たちまち置いてきぼりを食うからだ。事実2回見ても、仕事帰りの疲れで、どうしても集中力が途切れる中盤辺りには、よくわからない部分がまだ少なからずある。

だが今回の再見によって、1回目は同性愛に関する要素をほとんど見落としていたことがわかった。特に2001年のパートで「人間関係がどうもよくわからない」と思った部分がかなりあったのだが、それは彼らの多くが同性愛者、しかも異性愛者から同性愛者に転向した人々であるという、ある意味特殊な事情を理解していなかったからだとわかった。

だが、そのような要素を理解していなかったにも関わらず、初見から強い感動を受けたし、逆にそういう部分で認識を新たにしても、感動のポイントや本質は、初見との時とほとんど変わらない。

たとえば・・・

幸福の絶頂にある(と、人からは見える)中、あえて自殺をするため、息子を置き去りにするローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)。
息子を置き去りにした後の、あの泣き顔。振り返った時の作り笑顔。
その母を追いかける息子の「ママ〜ッ!」という叫び・・・

その息子が2001年パートのリチャード(エド・ハリス)その人であったとわかる、あの瞬間。人生の最後を迎え、母に見捨てられそうになったあの日の思い出に涙を流すリチャード・・・

リッチモンドの駅で、誰よりも自分を愛する夫に対し、その愛情と思いやりが、実際には牢獄でしかないことを訴えるヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)。「リッチモンドか死のどちらかを選べと言われたら、私は死を選ぶわ」そんな台詞を、絶妙の抑揚で語るキッドマンの見事さ、そして頬を伝う一筋の涙・・・

ローラの夫の誕生パーティー、自分がいかに妻を愛しているか、彼女の幸福を願っているかを切々と誠実に語る夫。それを聞くローラのあの表情。同じ夜にローラが流す涙。その涙を乾かした後の、あのローラの表情・・・

自らの手で人生に終止符を打とうと決心したリチャード。そんな彼がクラリッサ(メリル・ストリープ)に言う「僕は君のために死なずにきた。
でももう行かせてくれ」という台詞の絶望的な悲しさと皮肉・・・。二人の人生が最も輝いていた瞬間の思い出を語るリチャード。そしてもう二度とお互いが【人生を共にせずに済むからこそ言える】「I Love You」というシンプルな言葉。その幾重にも重なった悲しみ・・・

そして最大のクライマックス。初めてめぐりあう二つの時間たち。

リチャードの死後に現れたローラ。その告白。それを聞く、一見受け身の演技に徹したメリル・ストリープの何と言う絶妙な演技。だがそれにもまして、ジュリアン・ムーアの何と言う素晴らしさ。
息子の死の悲しみ、息子が小説中で自分を殺してしまったことへの痛み、だがそれらの代償を払ってなお、自分が夫と子供を捨てた事で初めて「生きる」ことが出来たと語るローラ・・・
あまりにも厳しく、残酷であるが故に泣く事も出来ない。だがこのクライマックスで、僕の心の中には嵐が吹き荒れていた。血と涙が入り交じって、心の壁をトゲのように刺し貫いていた。

そんな感動のポイントは変わらない。だが再見によって、その感動の本質が何だったのか、少しずつ言葉になり始めてはいる。

やはりこの映画は、僕にとってローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)とリチャード(エド・ハリス)の物語なのだ。

だがその物語が単独で語られるだけであれば、ここまで心に響く事はなかっただろう。「誰かに誠実に愛されるが故の【不幸】」「愛する者に見捨てられた孤独」・・・そういったテーマが、三つの物語でそれぞれ変奏曲として奏でられ、最後に一つになることで、ここまで立体的でリアルで爆発的な力を持つのだ。

ああ、それにしてもこの映画に出てくる人々の何と言う素晴らしい顔、顔、顔・・・ 三人の女優はもちろんのこと、エド・ハリス、スティーブン・ディレイン、ジョン・C・ライリーたちも、これほど素晴らしく魅力的で味わい深い顔を見せてくれる。この作品の原題は「The Hours」だが「The Faces」と変えてもいいほどだ。そのクライマックスとなるのは、言うまでもなく、あの徹底した切り返しで描かれるジュリアン・ムーアとメリル・ストリープの邂逅だ。

1週間の内に2回見てしまった。

だがまだ何度でも繰り返し見ずにはいられない。

やはり僕はこの映画に恋をしてしまったようだ。

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■■対話の始まり■■
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(お茶屋)
恋するぼのぼの さん、こんばんは。

ぼのぼのさんに感謝です。
なぜかと言いますに、私は『めぐりあう時間たち』のあとに他の映画を3本観たため、あやうくこの映画を忘れる(爆)ところでしたが、ぼのぼのさんの熱い感想を読んで感動がよみがえってきたからです。

そのうえ、私は3人の女性のうち最もダロウェイ夫人的な(息苦しい人生を生きている)人は、クラリッサだと思っていたのですが、ぼのぼのさんの感想を読んでちょっと考えてみた結果、最もダロウェイ夫人的なのは、言いたいことも言えず、子どもを捨てたという罪悪感を背負って生きているローラかもしれないなと思うようになりました。


(ぼのぼの)
どうも、お茶屋さん。恋するぼのぼのです(笑)。しかしお茶屋さんがこちらで発言するのってずいぶん久し振りじゃないですか?(笑)


(お茶屋)
そうなんですよ。血圧上がったわ(笑)。
ところで、おうかがいしたいことが二つほどあるのですが・・・。



 
■■3人の女性のセクシュアリティ■■
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(お茶屋)
主人公3人の女性のセクシュアリティが彼女たちの息苦しさの原因の一つになっているかどうかなのですが。どう思われますか?
私は、原因の一つになっているかもしれないけれど、大した比重じゃないと思ったり、三者三様で比重も違うかもと思ったりで定まった考えはありません。


(ぼのぼの)
僕は「原因の一つになっているかもしれないけれど、大した比重じゃない」ですかね。


(お茶屋)
あ、やっぱり?(笑)


(ぼのぼの)
もちろん三者三様に違うし、何よりも時代が違うので一概に比較出来ませんが。
まずヴァージニアの同性愛的な傾向がはっきり描かれるのは、姉に対する熱烈なキスのシーンです。しかしここでは、同性愛と言う問題よりも、相手が姉だという問題があります。つまりあのキスは、彼女の同性愛的なセクシュアリティを示す以上に、彼女の精神が壊れかかっている事を示すものだという気がします。彼女が自殺したのは59歳の時で、それまでずっと夫婦生活を送っていたのだから、少なくともあの映画を見る限りでは、彼女にとって同性愛が大きな問題だったようには思えません。

一番微妙なのがローラですね。1950年代。まだ同性愛など公認されていない時代に、絵に描いたようなアメリカ中流階級の主婦像を押しつけられた彼女は、自分の中に潜む同性愛的傾向にかなり苦しめられたように思います。 ただ逆に言えば、その生活が不自由だったからこそ、禁断のセクシュアリティに惹かれたようにも思えます。なぜなら家を出た後、誰か他の女性と暮らしているという説明がどこにもなかったからです。つまり彼女にあるのはあくまでも同性愛的傾向であって、同性愛者であったから家族を捨てたのではないように思えます。

そしてクラリッサは、現代の人物、しかもニューヨーク在住ですから同性愛者であるプレッシャーは少ないのではないでしょうか。そうでなければ人工授精によって子供を産むという、自分のセクシュアリティを肯定した上で人生に前向きに臨むような態度は取れないと思います。ただ、あれだけ信頼しあっていたリチャードと男女の関係をやめにしたのは、お互いのセクシュアリティに気づいた(実は自分たちは同性愛者だったと遅まきながら気づいた)からではなかったかという気もします。そういう意味では、クラリッサこそ、自らのセクシュアリティによって本来あるべき幸福から遠ざけられた人物ではないか・・・という気もするのですが。


(お茶屋)
大した比重じゃなかったら、あんまり話し合う意味もないかと思いつつ、おもしろいから続けさせていただきますね。

(ヴァージニア)
私は3人の中ではヴァージニアが最もうえの比重が大きいかもしれないと思っていました。というのは、彼女が同性愛者だとしたら、かなり抑圧されているでしょうから。
で、同性愛者かどうかという話になると、その傾向が強いのではないかと思います。それは、私には夫婦生活を送っているようには思えなかったからなんです。身体的な触れ合いがほとんどないので。
よくは覚えていないのですが、触合ったのは、駅の場面でヴァージニアから腕を組んで帰って行ったときだけだったような気がしているのですが。レナードの方からは触ることが出来ないような印象があるのですよ。それはヴァージニアが触れられるのを嫌がることをレナードは感じているから触れないのだと思うのですが。←なんか変な日本語
(駅のシーンでレナードがロンドン行きを認めたとき、キスしてもよさそうな場面ですが、していましたか?じーっと見つめていただけのような気がするのですが。う〜ん、もう一度観るべきか。気になってきました(笑)。)
クラリッサとローラについては、寝室のシーンがあってパートナーとの関係がわかりやすかったですよね。ヴァージニアの寝室のシーンはありませんでしたっけ?←このへん抜かりのないよう作っているのではないかと思うのですが。

(ローラ)
私は同性愛的傾向があるというよりも、「自分は同性愛者かしら?」という動揺が大きいだけのように思いました。自分が同性愛者とは思ってもみなかったことで、それなのに同性の唇にキスをしたことが相当ショックだったように見えました。
キティ(でしたっけ?トニ・コレットが演じたの)へのキスは、セクシュアルなものをあまり感じなかったんですよ。キティもセクシュアルなものを感じなかったんじゃないかな?「やさしいのね」と言っただけで、それ以上気にしている様子はなかったし。
う〜ん、キティと私が鈍いだけかもしれませんが(爆)。

クラリッサについては、また後ほど。
蛇足ながら、「同性愛者、しかも異性愛者から同性愛者に転向した人々であるという、」の「転向」について私がこの映画を観て思ったことを述べさせていただきます。
私は、この映画は同性愛者、異性愛者、両性愛者の境界線をあいまいに描いていると思ったので、「転向」かもしれないし、「転向」でないかもしれないという反応でした。

たとえば、クラリッサについて言うならば、サリーにはとても慰められるのでいっしょにいるという感じで、クラリッサが異性愛者のまま同性愛しているか(いや、よくわかりませんが)、クラリッサは両性愛者なのか(いや、よくわかりませんが)、はたまた実は同性愛者だけどリチャードは特別だったのか(いや、ますますもってよくわかりませんが)と、いろいろ思いました。(ヴァージニアとローラについても色々思いました。)

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■■謎の三角関係■■
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(お茶屋)
リチャードとクラリッサが別れた理由ですが・・・。
リチャードとクラリッサとルイス(ジェフ・ダニエルズ)の三角関係で、リチャードはルイスを選んでクラリッサは振られたのではなかったですか?
ルイスは選ばれたにもかかわらず、リチャードとの生活に耐えられなくて飛び出して行ったのでは?
以上は、クラリッサとルイスの会話からわかった(と思った)ことです。私の勘違いだったらすみません。


(ぼのぼの)
初めに言っておきますが、先日「DHC完全字幕シリーズ めぐりあう時間たち」という本を買いました。映画館にこのシリーズが置いてあるのを見た事ありませんか? 僕は以前から存在は知っていたのですが、今回初めて手にとって、その中身の濃さに驚嘆×驚嘆。この内容で、1200円は安すぎる!と即購入しました。
まずページ数は300ページ弱もある。そして巻頭には約25ページにわたって、パンフレットとは違う独自の映画解説とスチルが満載。その後はシナリオになるのですが、これが見開きで左ページに「英文」、右ページに「直訳」「映画字幕」を平行して並べてあるという念の入りよう。もちろんシナリオは一部分ではなく、全編完全収録ですよ。台詞だけじゃなくてト書きまで全て収録されています。
ついでに言えば完成台本とは若干違っているようで、映画にはない描写も含まれています。
しかもその字幕のところどころに「なぜ字幕ではこのように訳したか」の解説が付記されている。
それこそ映画を見ただけでは意味がわからないシーンや動作や小道具も、ト書きを見ればすぐにわかったりしますしね。これは本当に凄い本ですわ。詳しくは以下のURLをどうぞ。
http://www.dhc.co.jp/d_pub/jimaku/jimaku.html

・・・と前置きが長くなりましたが、要するに「この本を手に入れたので、細かい部分でわからない事があったら聞いてくだされ」ということです(笑)。
で、リチャードとクラリッサとルイスの三角関係なんですが、該当の箇所を読んでみてもかなり曖昧で、「同時並行の三角関係でクラリッサが捨てられた」ようにも「クラリッサと別れた後ルイスと付き合った」ようにも受け取ることが出来ます。


(お茶屋)
へぇ〜、そうなんですか。
脚本でハッキリしないなら、演出や演技が重要になってきますね。


(ぼのぼの)
このルイスとクラリッサの関係に関する会話は、他の台詞も非常に暗示的なので、3人の微妙な関係については僕もまだよくわかっていません。だから彼らが元々バイセクシュアルだったのか、最初は異性愛者だったのが、やがて自分が同性愛者であることに気づいてそちらに転向したのかも、厳密に言うとよくわからないですね。


(お茶屋)
そうですよね。よくわからないですよね。
クラリッサは、自分が同性と同居しているのをルイスが知って彼が何と思ったか勝手に想像して、決まり悪そうにしていましたよね。(仮に、リチャードをルイスと取り合った仲であれば、ルイスに何と思われるかという意味合いが濃くなっておもしろいところ。)だから、クラリッサは若いときは自他ともに認める異性愛者だったんだろうな〜とも思いましたが、結局、それは私にとってどうでもいいことなんです(爆)。

実はわたくし、3人の女性が同性愛者だったか、異性愛者だったか、はたまたバイセクシュアルだったかは、重要な関心事ではなかったんです(更爆)。
ぼのぼのさん、熱出た?(^_^;体調がよろしくないのに、爆弾発言してごめんなさい。
(もし、彼女たちの息苦しさの大きな原因になっているようだったら重要だとは思いましたが。←フォロー、フォロー(^_^A;)
それよりも、この映画の作り手が、彼女たちのセクシュアリティについて同性愛者とも異性愛者とも言い切ってないと思われたことが重要だったんです。
作り手のちょっとした主張があるんじゃないかなと思って。
こんな主張。
   ↓
「人は誰々について(自分自身についても)同性愛者とか異性愛者とか分類したがるけど、セクシュアリティってそんな境界線を引けるものではないでしょう」

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■■白熱の対面シーン/何を思うクラリッサ■■
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(お茶屋)
ローラとクラリッサの対面シーンでは、クラリッサが一言も発しないので、観客は彼女が何を思っていたか想像するしかないわけですが、ぼのぼのさんは彼女は何を思っていたと思われますか?
私は、クラリッサはローラの思いは理解は出来るけれど、リチャードの苦しみを見てきた人なので、リチャード側に立った思いが強いような気がしたのですが。


(ぼのぼの)
う〜ん、僕は逆ですね。むしろ「リチャードの苦しみはよく知っているつもりだが、やはりこの人の言葉に納得せざるをえない」という感じですか。


(お茶屋)
そうですね、クラリッサの表情は、そういう風にも見えますね。
最初、すごい顔で睨んでいるように見えたので、リチャードの代わりに言いたいことが山ほどあるのを抑えているようでしたが(もちろん言うつもりはないだろうし、言える立場でもないと思いますが)、やがてローラの言葉に納得せざるを得ないという風に変わっていったようにも思います。
納得せざるを得ないから、単にローラを恨むより、やり場のない思いがつのったようにも思えて、私はローラよりクラリッサに同情したのかもしれません。
ぼのぼのさんが、クラリッサはローラに同情的だと思われたのは、なぜですか?


(ぼのぼの)
それはまず第一に、クラリッサ自身がリチャードと人生を共に出来なかったという事実があるからです。どうして二人は別れたのか、詳しくは描かれていません。ただそれはセクシュアルな面も含め、お互いが距離を置く事でのみ、幸福な関係を保てるから・・・というような理由だったのではないでしょうか。逆に言えば、もしクラリッサとリチャードが普通に結婚していれば、その生活はローラとダン(リチャードの両親)と同じようなものになっていただろうということです。クラリッサは、そうなる前に家庭から逃げてしまったということです(これは時代の違いもあるでしょう)。だからこそ、クラリッサはローラの言葉を理解こそすれ、自分にはとてもそれを非難出来る資格など無いと思っている・・・そんな感じではないでしょうか。


(お茶屋)
私がクラリッサの側から見てみると、クラリッサは、ルイスに「(リチャードのもとを逸早く去って行って)あなたは幸せよね」みたいな恨みがましいことを言うので、そのセリフから彼女は長年、リチャードの近辺に着かず離れずいたことと、彼女自身、相当しんどい思いをしてきたことが推測されます。
それはまあ、あのリチャードとの付き合いですから、距離を置いたにしても、時には傷つけ合うこともあっただろうし、エイズに感染してからは介護が大変だったろうしと、クラリッサの心労は相当であったろうと私は勝手に想像したんですよね。
さらに、海辺での幸福のひとときが、またいつ訪れるかもしれないという淡い期待を彼女が捨て切れなかったのも痛いです。振りかえるとそういう期待を抱いていた日々が虚しく思えることもあるでしょう。
リチャードとの「夢よもう一度」という思いを抱えたままサリーと暮らしているのも痛いなあ。サリーに対してすまない思いもあるでしょうから。
そんなこんなで、私は、リチャードとクラリッサの二人は特別な友人として人生を共にしてきたと思ったんです。
だから、ぼのぼのさんのように「だからこそ、クラリッサはローラの言葉を理解こそすれ、自分にはとてもそれを非難出来資格など無いと思っている・・・そんな感じではないでしょうか。」という思いには至らなかったのです。


(ぼのぼの)
う〜〜〜〜〜〜〜〜ん、この辺は微妙。少なくともあの映画だけ見ればどうとでも解釈出来ます。それこそが最初の感想で書いた

>>そんな「人生」の壮大かつコンパクトな絵巻物であるが故に、この作品から
>>受ける感動は、人によってかなりポイントが異なると思う。見た人自身の
>>人生を取り込み、その人が抱える孤独や不安や願望を映し出す鏡のような
>>作品だと言ってもいい。

という点なのです。つまり僕とお茶屋さんとでは、あの鏡(映画)に映し出された自分自身の姿が違うという事なのでしょう。

僕が思ったのは・・・まずリチャードとクラリッサの二人が特別な友人として付き合ってきた事は疑いないと思います。ただその二人があのような信頼関係を保つ事が出来たのは、まさしく生活を共にしない「友人」という関係だったからではないでしょうか? つまり人間関係に逃げ道があるからこそ、お互いを束縛することなく、愛情の良い部分だけを享受出来たのかもしれないということです。
これについては他の二人と比べればわかると思います。ヴァージニアの夫、レナードは精神の病に苦しむヴァージニアを助けるため郊外のリッチモンドに引っ越してくる。しかしそれがどんなに真摯な思いから出たものにせよ、結果的には田舎の生活が合わないヴァージニアを苦しめる事になったわけです。これはローラとダンの関係でも同様で、相手を愛しているが故に良かれと思ってやった事(これが結果的にはある種の強制になっている)が、彼女たちにとっては「檻」になっているわけです。リチャードとクラリッサがそのような関係に陥らなかったのは、「夫婦」ではなくある意味無責任な「友人」という関係にあったからだとも言えます。
人工授精で子供を産むというクラリッサの選択も、それに似ています。つまりごく普通の社会通念から言えば、子供というものは「夫婦」あるいは「男女関係」というある種の檻と引き替えに得られるものですが、彼女はそれを抜きにして子供だけを得る道を選んだわけです。しかもヴァージニア夫婦にはどうやら子供がおらず、ローラは子供を捨てたのに対し、「夫婦」というものから一番遠いところにいるクラリッサだけが子供を持ち、良好な関係にある。これはかなり皮肉な話です。そしてどうやらクラリッサと娘のジュリアは一緒に暮らしてはいない。ここでも「互いに距離を置いているからこそ良好な関係が保てる」姿が描かれています。
では人間関係はとにかく距離を置けばいいのか? もちろんそう単純な問題でもないでしょう。密接な関係という檻から解放されれば、そこに待っているのは「孤独」という名のもう一つの檻です。それは母親に見捨てられたリチャードの悲しみによって表現されています。リチャードがクラリッサとあのような関係を続けていたのも、母親に見捨てられた悲しみを埋め合わせるためだったのかもしれません。つまりあまりに近づきすぎない事で、仮に見捨てられても痛みが少なく、そもそも近づきすぎていないが故に見捨てたり見捨てられたりする可能性の少ない関係を続ける事によってです。しかしそれでリチャードは満足していたのか? もしそうだとしたら、なぜリチャードは死ぬ前に、二人が最も近しい関係にあった日の事を、人生最良の思い出として語ったのか・・・。
そしてローラもまた、自らを家族という檻から解放する事で「生」を得る。
だがその「生」と引き替えに背負い込んだ罪の意識や、実の息子によって小説内で殺されるという心の痛みは、どれほど辛いものであったことか・・・。 

そのようなことを考えていけば、僕にはローラの話を聞くクラリッサの無言の表情には、「非難」という意味合いはほとんど含まれていなかったように思われます。むしろそれを非難して終わりに出来たなら、何と人生は単純で楽なものだったことか・・・と思うのです。


(お茶屋)
この(おしまいの3、4行)あたりは、私もぼのぼのさんと同じ感想です。
クラリッサとローラの対面シーンは、本当に見応えがあって、クラリッサの表情が始めと終りでは違う(表情が変化していく)ので、彼女の心の中もあの短い時間の間にずいぶんと変化があったように思うのです。クラリッサはローラの事情は全く知らなかったわけだし、ローラの話を聴いているうちに彼女を理解できてきたので非難して終りに出来なくなって、よけいにつらくなったように見えました。

「檻」の例え、おもしろかったです。
ローラの檻もヴァージニアの檻も理解できます。
クラリッサについては、ぼのぼのさんと私とでは受け止め方が異なるようですね。
私は、クラリッサとリチャードは確かに「生活を共にしない「友人」という関係だった」とは思いますが、「お互いを束縛することなく、愛情の良い部分だけを享受出来たのかもしれない」とは思わなかったのです。
クラリッサ担当(笑)として、前回の私の発言を補足してクラリッサの「檻」についていいますと、あ、でもまだよく考えてはないので、勘ですが(笑)。彼女はリチャードに執着している(←これは確かだと思います。)ので、この執着心こそ彼女の「檻」ではないかと思います。(←これが勘。)


(ぼのぼの)
クラリッサの檻が何であったかはわかっています。彼女自身が「あの日"おはよう、ダロウェイ夫人"と言われて以来、その名前につきまとわれている」と言っています。つまり彼女にとっての檻は「ダロウェイ夫人」というリチャードがつけたニックネームであり、その言葉を言われた「幸せの瞬間」なのです。
ただしこの「ダロウェイ夫人というニックネームにつきまとわれている」という言葉の意味は、僕にはよくわかりません。これは『ダロウェイ夫人』そのものを直接読んでいない限界かもしれません。あるいは原典を読んでいなくても、もう少しじっくり考えればわかるのかもしれません。これは次回見直す時の大きな課題です。
ただひとつ思うのは、彼女が執着していたのはリチャードそのものというよりも、「これから幸せが始まるんだと思ったあの瞬間」こそ、実は「幸せそのものだったのだ」と後になって気づいたこと・・・その喪失感のようなもの、あるいは幸福の瞬間をそうとは理解せずに見過ごしてしまった事に対する後悔のようなもの・・・そんな風に思います。もう二度と返らぬ、失われた時に対する執着とでもいうのでしょうか。


(お茶屋)
あ、それではクラリッサの檻についてのとらえ方は、ぼのぼのさんとほとんど同じだわ、とうえの部分を読んで思いました。 私が前に書いた

>>さらに、海辺での幸福のひとときが、またいつ訪れるかもしれないという淡
>>い期待を彼女が捨て切れなかったのも痛いです。振りかえるとそういう期待
>>を抱いていた日々が虚しく思えることもあるでしょう。

というのと私的には同じです。
厳密なぼのぼのさんには、ちょっと違うと言われるかもしれんけど(笑)。
                   ↑
                先手を打っておこう(笑)。

あと、やっぱりクラリッサはリチャードのことが好きなんだわ。どんなに距離を置こうと彼の影響力は彼女にとって絶対なんだという気もします。
ぼのぼのさん、『ダロウェイ夫人』はご覧になりましたか?
映画『ダロウェイ夫人』は、タイトルロールをヴァネッサ・レッドグレープが演じていまして、既に老境の人なのですが、もっと別の人生があったのじゃないかと満たされない気持ちで生きていて、こんなんじゃ生きていてもしょうがないんじゃないかしらという絶望感もあったように思います。その絶望感がドラマチックには描かれてないので訴えかける力はないけれど、滋味があるといいましょうか、見て損はない映画だと思います。
でも、その映画を見ていても「ダロウェイ夫人というニックネームにつきまとわれている」という言葉の意味は(私には)よくわかりません(爆)。
いまのところ、私はクラリッサもダロウェイ夫人のように満たされず、あいまいな絶望の淵に佇んでいるのかな〜という風にとらえています。面倒見の良いクラリッサ、采配のうまいクラリッサで通っているけど、本人はその姿に(というか生きるのに)相当疲れているのだろうなと。
ぼのぼのさん、3度目の逢瀬でその言葉の意味がわかったら、またお教えくださいm(_'_)m。


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