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■鬼の対談>めぐりあう時間たち(2)
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■■ローラとリチャード/母子の物語■■
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(お茶屋)
二人の心理的な距離は、生活を共にしているくらい近かったのではないかと思います。リチャードがクラリッサのために死ねないと思うほど、クラリッサはリチャードに依存しているのかも。


(ぼのぼの)
これについてはよくわかりません。ただ一つわかるのは、「君がいるから僕はここまで生きてきた。でももう行かせてくれ」という言葉は、息子リチャードを残して(さらにはお腹の子を道連れにして)死ぬ事に耐えられず自殺を取り止めたものの、夫の誕生日に味わった絶対的な孤独によって、出産後家を出ることを決意したローラの気持ちと完全に対応しているということです。
そして・・・おそらくリチャードは、自分を見捨てた母の苦しい気持ちを、死の直前になって理解出来たのではないでしょうか? だからこそ彼は「あの日」に思いを馳せ、母の写真を見て涙していたのではないでしょうか? かつては著書の中で殺してしまったほど憎んでいた母親を、その時初めて許す事が出来たのではないでしょうか? それによって彼自身も、クラリッサを残して一人旅立つ事を自分に許したのではないでしょうか?


(お茶屋)
いや〜、泣けますね〜。(TOT)b
そうか〜、そうだったのか〜〜。
そこまで想像しなくてもリチャードには泣けたのですが・・・。
ぼのぼのさん、すごいわ。リチャードが乗り移ってる?マジで感動しました。


(ぼのぼの)
これは前回クラリッサの気持ちを表現するために使った言葉「むしろそれを非難して終わりに出来たなら、何と人生は単純で楽なものだったことか」という言葉にもピッタリ当てはまります。リチャードはおそらく自分を見捨てた母を憎み続けてきた。しかし、自分が母親と極めてよく似た立場に立ち、彼女の思いをようやく理解した時訪れたのは、そんな母親を数十年にわたって憎み続けてきた事への虚しさであり、後悔だったのかもしれません。

しかし、リチャードがそういう思いに至ったとしても、彼はそれを母親に伝えることなく逝ってしまいました。そして母親は、人生の最期の日まで「子供たちを見捨てたくせに、自分だけはいつまでも生き残っている恥知らずな女」という十字架を背負っていくのです。

最後に、ジュリア(クラリッサの娘)がローラに示す優しさは、ストーリー展開から言えばほとんど不必要なシーンに思われます。しかしそれは、最も「愛」から遠ざけられ、最も残酷な運命を背負ってしまったローラに対する、作者のせめてもの愛情だったのではないでしょうか。

何だか本題からずれていろいろ語ってしまいましたが、すでに書いたとおり、僕にとってこの映画はローラとリチャード母子の物語なのです。
彼らについて書き出すと、つい言葉が溢れてくるようです。


(スーダラ)
お茶屋さん、ぼのぼのさん、どうも。スーダラです。
なかなか、言葉にするのが難しい作品ですね。語りたい事はそれこそ山程あるし、まだ何回でも見たいんですけどね。
ですんで、理路整然とお二人のやり取りにコメントすると言うのではなく、やや冷静さを欠いております(^_^;)。
特に うえののぼのぼのさんの書き込みの中盤あたり
「僕が思ったのは・・・まずリチャードとクラリッサ・・・・」
から始まる一連の考察は、映画の読み解きでなく、男と女(あと親と子)の本質を抉っていて、僕は正直読んでいて辛かったです。全部頷けてしまうだけでなく、(キェシロフスキ風に言うなら)胃袋にズシンときました。これは映画を見たときもそうだったのですが・・・。

あと、
「そんな『人生』の壮大かつコンパクトな絵巻物であるが故に、この作品から受ける感動は、人によってかなりポイントが異なると思う。見た人自身の人生を取り込み、その人が抱える孤独や不安や願望を映し出す鏡のような作品だと言ってもいい。」
これもその通りですね。僕は自分の感想には「希望と願い」を込めて書きましたが、それと同じくらい、時によってはそれをはるかに凌駕する「不安や孤独」をこの映画の中に見ます。同じ人間の両極の感情を振り子が一番振れた所でガッチリと捕まえる映画なのだと思います。

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■■めぐりあい、重なり合う三つの時代■■
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(ぼのぼの)
話は逸れますが、書いている内に思いついた事をメモしておくと(笑)、ローラが家庭を捨て、クラリッサがそもそも普通の家庭を作らなかったのに対し、社会生活不適応の度合いが一番大きそうなヴァージニアが、まがりなりにも29年間夫婦生活を続ける事が出来たのは、彼女の姉が言うとおり「二つの人生を持っていた」からだと思います。つまりローラが家を捨てるのと同じように、彼女は日頃から小説という名のもう一つの人生に逃避する事が出来たから、と言う事です。

また他の時代と見比べると・・・やはりあの(ローラとクラリッサの対面)シーンは、1923年の駅のシーンに対応しているように思えます。あそこでヴァージニアの告白を聞いた夫は彼女の気持ちを理解し「ロンドンへ行こう」と言います。その後実際に行く事になったのかどうかはよくわかりませんが、ローラの気持ちを聞く機会さえ持ち得なかった善良で愚鈍なダンに対し、レナードはヴァージニアの気持ちを理解し、その自由への思いを受け入れる事にします。ですからレナードに対応する位置にいるクラリッサも同じだったのでないでしょうか。


(お茶屋)
これは興味深い見解ですね。私は思いもつかなかったので、ちょっと考えてみなければ何とも言えません。
「レナードに対応する位置にいるクラリッサ」というのが、よくわからないのですが。


(ぼのぼの)
3つの時代はそれぞれ同じような人間関係の構図が見られますよね。
例えばヴァージニアとローラ、その二人を愛する夫レナードとダンといった具合に。


(お茶屋)
なるほど!


(ぼのぼの)
もちろんその中身はAとA"という具合に変化しているのですが。面白いのは2001年パートで、ここでは明らかに男女の関係が逆転していて、(肉体や精神の)病気に苦しみ、そこから逃れようとしているのが男であるリチャードで、彼を愛し献身的に支えようとするのが女性のクラリッサになっています。つまりリチャードはヴァージニアに対応し、クラリッサはレナードに対応しているわけです。これはヴァージニアがレナードに、リチャードがクラリッサに言う最期の言葉が「私たちほど幸せな二人はいない」(I don't think two people could have been happier than we've been.)という全く同じ言葉である事からも明らかです。


(お茶屋)
動かぬ証拠(?)を出された後では、ちと、書きづらいですが、レナードに対応するのは、サリー(クラリッサの同居人)ではないでしょうか?
サリーは、クラリッサの心はリチャードにあると知りつつ、クラリッサを精神的に支えています。
ヴァージニアとレナードと比べると、クラリッサとサリーは良好な関係かもしれませんが・・・・。(それでもサリーは朝帰り。クラリッサは原因が自分にあるとわかっているから何も言わない。この二人も微妙な関係ですよね。)
クラリッサはダロウェイ夫人だから、ヴァージニアとローラに対応するのではないでしょうか?


(ぼのぼの)
いや、これはやはり違うでしょう。サリーは1923年で言えばヴァネッサ(ヴァージニアの姉)、1951年で言えばキティ(隣の奥さん)に対応する存在だと思います。
この人たちみんな、3人の女主人公にキスされる存在ですしね。


(お茶屋)
あ、なるほど!うえの1行は、妙に説得力あるわ(笑)。


(ぼのぼの)
この対応関係で混乱が生じやすいのは、やはり2001年パートで男と女の立場が逆転しているからだと思います。僕も初見の時はヴァージニア、ローラ、クラリッサの対応関係をA、A'、A"のように見ていたのでいろいろとつかみ損ねている部分がありました。今にして思えばヴァージニアをAとすればリチャードがA'、ローラがA"というくらいヴァージニアとリチャードは近しい関係のように思われます。試しにリストを作ってみましょう。

 
 ヴァージニアリチャード
性別
セックス結婚しているが、同性愛的傾向あり今は同性愛者だが、女性ともつき合っていた
職業作家作家
病気精神病エイズ
パートナーレナード(出版者)クラリッサ(編集者)
子供いないいない
著作ダロウェイ夫人「ダロウェイ夫人」に似たスタイルの小説
入水自殺(精神病を苦にして)投身自殺(エイズを苦にして)
最期の言葉私たちほど幸せな二人はいない私たちほど幸せな二人はいない
享年59歳56歳(推定)


 
男と女の違いによってつい目眩ましされがちですが、やはりこの二人はAとA'の対応を見せていると考えていいでしょう。となれば、そのパートナー役であるレナードとクラリッサも対応していると見て間違いないと思います。ただややこしいのは、1951年パートでこの二人に対応しているローラ、彼女に対応する性格(主にダロウェイ夫人関連)がクラリッサにも付与されているという点なのですが。

その相方となるレナードとクラリッサは、必然的にAとA"程度の関係で対応しているわけです。これが1951年パートではダンになるわけですが、彼はもうちょっとニュアンスが違ってA(レナード)、A"(クラリッサ)に対しB(ダン)くらいの感じかな・・・


(お茶屋)
ヴァージニアとリチャードの対比もありがとうございました。とてもわかりやすかったです。
そうすると、『めぐりあう時間たち』はダロウェイ夫人だらけだなあ。
3人の女性とリチャードと小説のダロウェイ夫人と小説で自殺した青年と。
ぼのぼのさんにとって、この映画がリチャードとローラの母子がメインならば、私にとってはダロウェイ夫人がメインなんです。
で、私にとっては、自殺したダロウェイ夫人(ヴァージニア)と生き延びたダロウェイ夫人(ローラとクラリッサ)についての映画ということになります。(厳密に言うと生きてこそダロウェイ夫人なのですが。)
ぼのぼのさんのおかげでリチャードもダロウェイ夫人の分身だとわかったよかったです。感謝。

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■■弁護ダン■■
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(お茶屋)
2001年のパートでレナードに対応するのがサリーだとしても、ダンのBは確定的?(笑)ダンだけパートナーへの理解力が、とほほなんだもの。


(スーダラ)
僕は必ずしもそうは思わないのです。
あまりにも愚鈍で、パートナーの気持ちを全く理解する事が出来なかった彼ですが、彼だって「この世の中で僕たちほど幸せな二人はいない。」というその言葉をいつも自分の中に持ち続けていたのでは・・・。パートナーも同じように思ってくれていたかというその1点でAとBに分かれてしまうのかなって、考え込んでしまいます。
「最愛の人の本当の心に近づけない。でも近づきたい。近づけると信じたい。」
そういう無力感や願望みたいなものはレナード、ダン、クラリッサ全てに共通なのではないでしょうか。


(お茶屋)
そういう意味では、みんなAですね。


(ぼのぼの)
僕もスーダラさんと共にダンの弁護に回らせていただきます(笑)。


(お茶屋)
おおっとー(笑)。


(ぼのぼの)
なるほど、ダンはローラの気持ちをまったく理解していませんでした。
しかしそれは単純にダンだけの責任ではないでしょう。ローラを、彼女に対応するヴァージニア、リチャードと比較した場合、一番大きな違いは、あとの二人が「作家」であるのに対し、ローラはあくまでも「読者」でしかなかったということです(家出した後の職場はご丁寧にも「図書館」です!)。つまりあとの二人が、「作家」という、自分の感情や記憶を文学作品の形で周りに伝達する回路を持っていたのに対し、ローラだけはそれを持っていなかった。にも関わらず、あとの二人が感じていたのと同じような、世界に対する違和感だけは強く感じていた・・・これが彼女の悲劇だったのです。
そしてレナードとクラリッサも出版人ですから、そんな彼らの気持ちを理解する事が出来た。しかしそのような回路を持ち得ないダンに、日常的な会話では表現しようのないローラの不安や孤独を理解することは極めて困難だったのです。

さらに言えば、1923年のリッチモンドの邸宅、2001年のニューヨークのアパートメントは、共にどこかしら文学的な匂いがあります。しかし1951年のロサンゼルス、あの明るいだけが取り柄の書き割りの看板のような一戸建てに文学的な匂いは感じられません。キティはローラが読んでいる『ダロウェイ夫人』を見て「本を読んでるの?」と言いますが、ろくに中を見ようともせず、内容の説明をするローラの言葉にもまったく関心を示しません。つまりあの当時あの界隈では、文学などは一部変人の愛玩物(笑)でしかなかったということです。そんな非文学的な環境の中で、文学的な悩みを抱え、事実文学に親しみ、その影響を受けて自殺さえ考えるような人間が、どういう精神状況にあったか・・・その孤独感や疎外感は、未だにこういうフォーラムを覗いている人であれば、多かれ少なかれ心当たりがあるのではないでしょうか?

さて、ダンは確かに愚鈍でした。ただレナードやクラリッサに比べてダンの描写が少ないのは、作者がダンを「愚鈍な人間」と軽蔑していたからではないと思います。むしろダンこそ、この6人の中で一番平凡でよくいる人間、すなわち今更説明する必要もないキャラクターだから説明しなかったのです。我々の中にはヴァージニアもいるし、リチャードもいるし、クラリッサもいるし、レナードも潜んでいます。しかし端から見れば、我々のほとんどは善良で愚鈍な「ダン」に分類されてしまうのです。ヴァージニアやリチャードは言うまでもなく、「文学」という回路を通す事で、相手の非日常的な暗部まで理解出来るレナードやクラリッサも、現実にはむしろ例外的な存在なのです。

何よりも痛いのは、ダンが心底善良な人物であり、ローラを深く愛していることです。端から見ればあんなにいい夫はいません。しかし人はしょせん自分の価値観でしか人を愛する事が出来ないものです。「相手のために良かれと思ってやった事」は、しょせん「相手のために良いだろうと自分が思いこんだ事」に過ぎません。レナードが「ヴァージニアのために」と思って彼女を田舎に連れて行ったことが、結果的に彼女を苦しめたのも、それがしょせんレナードの価値観に由来するものだったからです。
ダンも同様です。ダンは自分の価値観の中で、精一杯ローラを幸せにしようとしていたのです。しかもその価値観は、あの時代、あの土地にあってはごく当たり前のものなのです。つまり本来ならダンは最良の夫であり、相手さえ違っていれば、素晴らしい家庭を築いていたはずです。特殊なのはダンではなくローラであり、しかも彼女は自分の特殊さを他人に伝える術を持っていなかった。あれはそれ故に起こった悲劇です。
だからといってローラを責める事は出来ません。しかしそれ以上にダンを責める事など、誰にも出来ないのです。彼とのディスコミュニケーションに悩み、結果的に彼を捨てたローラ自身にもです。ここでも登場するのは「むしろそれを非難して終わりに出来たなら、何と人生は単純で楽なものだったことか・・・」という思いです。
それ故にローラの絶望は深い。誕生パーティーの席、この世にこれ以上真摯な言葉があるだろうかというほどのダンの言葉、しかしそれが真摯であればあるほど自分の孤独は絶望的なものになっていくという矛盾・・・
だからこそあの誕生パーティーからその後の寝室のシーンにかけてのローラの様々な表情は【壮絶】と言う以外ないものになっていくのです。


(お茶屋)
スーダラさん(ぼのぼのさんにも)、ダンについて、「とほほ」なんて書いてすみませんでした。(でも、そのおかげでスーダラさんが書き込んでくれたから、うれしー。(^_^)v)
スーダラさんの書き込みを読んで反省しました。ダンも可哀相だなあと思って。何だか可哀相な人だらけの映画ですね(笑)。
ダンに寄り添って見るとスーダラさんのおっしゃるとおりで、確かに彼が不安そうにしていたのを思い出しました。

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■■それぞれの『めぐりあう時間たち』■■
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(お茶屋)
それにしても、同じ映画を観て同じように感動しても、細かいところでいろいろ受け止め方が違っていて面白いですね。


(ぼのぼの)
それはこの映画の際だった特徴でしょう。上の方で引用した僕自身の文章の通りです。もちろん多かれ少なかれ他の映画でもそういう部分はありますが、この映画はかなり意図的にそのような作り込みをしてある。
いきなり別発言まで引っ張り込んで恐縮ですが、リッチモンド駅でのレナードの姿に自らの想いを託したスーダラさんの感想には「は〜、そういう見方もあるのか」と感心する一方、「でもやはり僕にとって、そこは感動の中心ではないな」と思います。
ただしそれはどちらの解釈が正しいとかいう問題ではありません。我々一人一人の人生が違っていれば、あの映画に映し出される感動のポイントもそれぞれ違うものになるのです。そのように複雑で、不定形で、ちょっとした気分やその日の感情、視点の違いによっても様々な姿を見せてくれる・・・そんな「人生そのもの」としか言いようのない映画だからこそ、僕たちはこの作品を愛してやまないのだと思います。


(お茶屋)
そうですね。これほど他人の感想がおもしろい作品は、たまにしかないですね。
脇役も含めてどの登場人物も丁寧に描かれていて、それぞれの人物の気持ちがよく伝わってくる、そのような作りの作品だと思います。
小道具で感心したのは、ローラの作ったケーキ。あの食欲が減退しそうな配色のケーキは、ただならぬローラの心をよく映していると思います。
それと、小鳥の亡骸の目のきれいだったこと。よかったな〜。


(スーダラ)
愚鈍な彼(ダン)はそれを食べて「今日は僕にとって最高の一日だ!」って言うんですよね。あの瞬間彼は「この世の中で僕たちほど幸せな二人はいない。」って確信しながら、でも心のどこかには不安があって、心の中で「君もそう思うだろ?」って聞いていたのではないでしょうか。そう言って欲しかったのではないでしょうか。誰かにとって「最高の一日」が、その思い出を均等に分かち合う筈のパートナーにとっては必ずしもそうでないという、どうしようもない現実。果たしてレナードやクラリッサはパートナーと「最高の一日」を共有できた時があったのでしょうか。たとえばリチャードが初めてクラリッサを"ミセス・ダロウェイ"と呼んだ日は本当に二人にとって「最高の一日」だったのでしょうか?

水色のクリームのケーキがローラのただならぬ心を映していたとしても、それが最愛の相手なら決してそれに気がつくことなど出来ないですよね。もう盲目です。出来が悪ければ悪いほど、見た目が異様なら異様なほど、ダンは二人の間に"強い絆"みたいなものを感じてしまった(感じたいと思ってしまった)のではないでしょうか。


(お茶屋)
いわれてみれば、そうですよね〜。
ダンには厳しい見方をしてたかな(またもや反省)。

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●スーダラさんの感想=スーダラさんのサイトシネマの孤独『めぐりあう時間たち』の感想を、ぜひ、お読みください。 もどる↑

2004/7/12UP


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