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■鬼の対談>西日本『カノン』会議(中編)
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前編からのつづき


 
チネチッタ高知掲示板

●『カノン』考察 篠田 2000/12/26 (火) 00:25

お茶屋さん、こんばんわ
気まぐれ日記は、とても興味深く読ませてもらいました。

注意!!
以下は「カノン」についての重要なネタバレがあります
およびお茶屋さんを怒らせてしまうかもしれません。

まずは例の揉み揉みシーンですが、あれは僕は容認してしまいました。
思い返してみて、その直前に抱き合い、愛こそが全てとオヤジが言ってますが、あそこのシーンが僕は父娘の清らかな愛情を確かめるシーンというよりも反モラルでありながらもどうしようもなく溢れ抑制しきれない愛情の爆発というように捕らえて泣けてしまった。
だから反モラルを認めてることになってしまうというよりもオヤジの感情に入ってたんでしょうね。

次にギャスパー・ノエ監督の罠ですが、僕はノエ監督のインタビューというのを読んでしまってたんですが、これ実はヤマさんの説当たりです
実に冷静に見られてますねえ(°o°;)

要約的に言いますとノエ監督は若い頃催眠術をやってた時期があり、それを映画に活かそうとしたということのようです。
催眠をかけるにはひっきりなしに喋りつづけることだそうです。
ですからこの「カノン」においては徐々に主人公のオヤジの思考に溺れてしまってそれが意味することまでわからなくなってくるようなシステムになっているということです。
で、映画が終わって映画館を出る頃になって「ゲゲッ、主人公が自分の娘と寝るのを賛同しそうになってた!」と気付くような仕掛けがしてあるということなのです。
但し、フランス語による効果を想定しており、字幕では上手く効果が出るかどうかわからないと言っておりますが。
もちろん途中で主人公の思考を理解してしまって不愉快な思いをする観客が出てくることも当然であるとも。

と、ここだけピックアップするとまさしく観客への挑戦となり、実際効果が出てまんまとノエ監督の策略に乗っかったことになりますが、監督自身が挑戦したかったのは結果的にはフランスの正義でありモラルであり、通常のフランス映画(ル・コント作品やどっちかといえばブルジョワな映画)に対する挑戦であるように思えました。

監督は自身の映画で連想させるものとしてブニュエルの映画をあげていることからもそれは明白なのかもしれません。
ただ「アンダルシアの犬」や「黄金時代」ほどはショッキングではないはずとも

結局最後の揉み揉みシーンて実は催眠効果を覚ますためのものだったのかなと改めて考えてしまいました。

 

●Re: 『カノン』考察 ヤマ 2000/12/26 (火) 01:38

篠田さん、初めてご挨拶します、ヤマです。
物凄い重要な書き込みを発見して、思わず飛び込みました。

>次にギャスパー・ノエ監督の罠ですが、僕はノエ
>監督のインタビューというのを読んでしまってた
>んですがこれ実はヤマさんの説当たり

な、な、なんと!
監督自ら語っていたとの証言!恐れ入ります。

>要約的に言いますとノエ監督は若い頃催眠術を
>やってた時期があり、それを映画に活かそうとし
>たということのようです。

なるほどねぇ。言われてみれば、であります。

>催眠をかけるにはひっきりなしに喋りつづけること
>だそうです。ですからこの「カノン」においては徐々
>に主人公のオヤジの思考に溺れてしまってそれ
>が意味することまでわからなくなってくるようなシ
>ステムになっているということです。

私がシューテツさんとこの掲示板に書き込んだボディブローのことですね。別名「垂れ流しの呪詛」。

>で、映画が終わって映画館を出る頃になって
>「ゲゲッ、主人公が自分の娘と寝るのを賛同し
>そうになってた!」と気付くような仕掛けがして
>あるということなのです。

ここまでドンピシャだなんて、お茶屋さんじゃないけど、 月面宙返り百回ものです(笑)。

>監督自身が挑戦したかったのは結果的にはフラ
>ンスの正義でありモラルであり、通常のフランス
>映画に対する挑戦

私もそう思ったので、シューテツさんとこの掲示板に「技巧的に感じると、メッセージは薄れる作品というふうには受け取って」ないと綴ったのでした。

>結局最後の揉み揉みシーンて実は催眠効果を
>覚ますためのもの

お茶屋さんとの会話でも、そういう話になったのでした。
それにしても、お茶屋さん(半信半疑)、私(果たして・・・)と言ってたものにかくも明証を与えて下さり、ありがとうございました。

 

●Re: 『カノン』考察 シューテツ 2000/12/26 (火) 14:47

篠田さん。こちらでもお話出来るのは嬉しいですねぇ。
なんだか西日本『カノン』会議って感じになってきましたね。f^_^;;

私はパンフレットを買っているのですが、まだ自分の思考を楽しみたいのでじっくりとは読んでいないのですが、そろそろ監督のインタビューも確認した方がいいですね。(笑)(しかし、ヤマさんの洞察力は凄い。!)

今回の篠田さんの文章で一番興味深かったのが

>監督自身が挑戦したかったのは結果的にはフラ
>ンスの正義でありモラルであり、通常のフランス
>映画(ル・コント作品やどっちかといえばブルジョ
>ワな映画)に対する挑戦であるように思えました。

偶然なんですが、最近ルコント監督の『サン・ピエールの命』という映画を観たのですが、この作品はまさに『カノン』とは正反対の人間または行為を描きながら、不思議な事にこの両作品のラストシーンでの私の受けた感慨が非常に似ているように思えてならないのです。

私の掲示板でヤマさんに対してのこの作品のレスで、映画の技法とメッセージの関連についてほんの少し触れたのですが、なんだか上記の話と凄くリンクしてくるようで面白いです。私の『サン・ピエールの命』の感想の中で映画(物語)は実験(シミュレーション)だって話をしたのですが、この全く正反対のテイストの両作品にまさにそれを感じたのは何かの縁でしょうか。表現スタイル・技法などは全く逆でありながら、底に流れる何か共通のものを感じてしまいます。
今はただ直感的にそう思えるだけで何の分析もしていませんが、皆さんまだこの作品をご覧になっていなければ、そして観る機会がありましたら、「反モラル的」救いと正反対の人間の崇高さを描いた救いの作品を見比べてご覧になってはいかがでしょうか。

どちらの作品にも「正義」について「モラル」について語られています。そして「愛」や「救い」についても・・・・。切り口に対しての挑戦というのは見比べればよく解ります。でも、この両作品共ひょっとしたら、みわさんが(はじめまして。m(_ _)m)解らないと仰っている「愛」について考える映画なのかも知れませんねぇ。

 

●Re^2: 『カノン』考察 お茶屋 2000/12/27 (水) 18:17

>なんだか西日本『カノン』会議

これいいですね!このネーミング、いただきっ!


>(しかし、ヤマさんの洞察力は凄い。!)

そうですね。すごいな〜!
もっと、すごいと言ってやってください。
場外ホームランのあとは次の打席が怖くて、発言がしにくくなりますから(笑)。

>『サン・ピエールの命』

観てないので、シューテツさんの感想も読んでいません。
ルコントだったら、自主上映してくれそうな気もするけど。
観てみたいですね。

それにしても、シューテツさんも一向に悔しそうにないですね。
どうしてですかぁ〜。
余裕だなあ。

 

●Re^2: 『カノン』考察 篠田 2000/12/26 (火) 21:37

まずは、お茶屋さん、ヤマさん、シューテツさん、みわさん
ネタバレ以上のネタバレを予告無く僕の判断だけで書いてしまい考える楽しみの一部を確実に奪ってしまったことをお詫びします。

前日にシューテツさん宅の掲示板とこちらのお茶屋さんの日記を読み、皆さんの感想が出揃ったのとそしてヤマさんが実に鋭い指摘をされてて、それが果たして本当のところどうなのであろう?ということから、こちらの皆さんであれば監督の意図を書いたとしてもそこから更に、話が発展できそうな気がしたため敢えて書かせていただきました。
僕も普段からインタビュー等は後から見るようにしてます。
あくまでも主観的で個人的な見方優先なので。
ですからこの映画ではすっかり催眠にかかってました(笑)
(今度のことでヤマさんは「観る」と同時に「鑑る」ことも出来る人なんだろうなと感じました)

後からこの監督のインタビューを読んでなるほどと思い漠然としていたところが明らかになるところもあったのですが、不思議とやられた!という気にはならず、よくぞやってくれたなあ、という気持ちになりました。確かに技巧的な映画なんでしょうけどメッセージは限りなく真正面向きですよね。そこに単に挑発的で面白い映画撮ってみようではすまされないこの映画に対しての熱意が充分に窺い知れたから諸刃の剣のような技まで駆使する監督が逆に頼もしく思えたのかもしれません。

自身が似ているであろうというブニュエル監督の精神を引き継ごうというようなところも感じましたがどうでしょう?
僕もせいぜいビデオで10本程度しか見てない程度での判断なのですが

シューテツさんがおっしゃってる『サン・ピエールの命』はまだこちらではかかる予定が無さそうなのと、実は僕はル・コント映画は結構苦手とするところなのですが(^_^;)、機会があれば観てみたいと思います。最近文芸映画系は本当に頭が受け付けなくなってしまってるので正確に判断できるかちと不安もありますが(笑)

そういえば先日観た『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も偶然ながら『カノン』とまた好対照に思えるとこがあるのですよ。
まだ頭の中で整理しきれてはいないんですが。

では『カノン』会議室おかげ様でとても楽しくなってきました。

 

●Re^3: 『カノン』考察 お茶屋 2000/12/27 (水) 18:08

>考える楽しみの一部を確実に奪ってしまったこと
>をお詫びします。

いえいえ、絶妙のタイミングですよ。
スクープ!といった感じで受け止めました。
事件でしたね〜(笑)。

それにしても、篠田さん、不思議としてやられたという感じがないとは!懐が深い!!!
私はもう、めっちゃ、くやしいですぅ〜〜。←シドニーでの某水泳選手とまったく同じ。
ノエのやつめ!って感じですね。
でも、私もシューテツさんと同じところに興味を覚えました。

>監督自身が挑戦したかったのは結果的にはフラ
>ンスの正義でありモラルであり、通常のフランス
>映画(ル・コント作品やどっちかといえばブルジョ
>ワな映画)に対する挑戦であるように思えました。

ここです。
そーいえば、フランスの国土の影絵に「F」印。最初と最後に出てきましたね。
あれを見たときに、これはフランスを誇りに思っているか、フランスに対して言いたい事があるのかなと思ったんですよ。
そう思ったことを忘れていたことが、またしてもめっちゃ、ぐやじ〜。
しかし、このような意図があるとわかると、ノエ監督のことを骨のあるやつと思わずに入られません。観客をだまし目的のために利用する悪魔のような監督ですが、骨のあるところはあっぱれです。

ところで、ブニュエルに似ていますか?
仮に似ているとしても、私はブニュエルはユーモア(&愛嬌)があるので好きなのですが、『カノン』はユーモアがない(と思う)ので、あまり好きになれないのですが。

というわけで、ひとまずこのへんで。

 

●Re^3: 『カノン』考察 シューテツ 2000/12/29 (金) 00:35

篠田さん。

>考える楽しみの一部を確実に奪ってしまったこと
>をお詫びします。

いえいえ、皆さんこれはもう全然大丈夫でしょう。

>自身が似ているであろうというブニュエル監督の
>精神を引き継ごうというようなところも感じました
>がどうでしょう?

私はブニュエルはそれほど観ていないし、観たのも遥か昔なのであまりちゃんとしたお話は出来ないのですが、私もお茶屋さんが仰っていた様に彼の作品からはユーモアを感じた記憶はあります。ただし、両監督ともに一見ドライな感覚の様に見えて、基本的にはウエットな感じはしますね。

もっともっと人間をドライに見つめる監督はたくさんいますものね。例えばキューブリックなんて全然ドライだし、上記とは逆にハリウッド映画作品の多くも、一見ウエットに見えてドライな作品って多いように見受けられます。

>実は僕はル・コント映画は結構苦手とするところ
>なのですが(^_^;)

へぇ〜〜、それは以外でした。f^_^;;

>『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も偶然ながら
>『カノン』とまた好対照に思えるとこがあるのですよ。

これは元日に観る予定なのですが、楽しみが一つ増えました。

 

●Re^4: 『カノン』考察 篠田 2000/12/28 (木) 01:26

お茶屋さん

>いえいえ、絶妙のタイミングですよ。

いやあ、怒るよ!と書かれていたのでどうかと思ったんですけど
でもお茶屋さんの日記を読んで面白かったですし、これはお茶屋さんが全く望まないような意図だなあと思いつつも、です。

>しかし、このような意図があるとわかると、ノエ
>監督のことを骨のあるやつと思わずに入られません。

そういっていただけると、です。
僕はともかくとしてお茶屋さんやシューテツさんほど映画鑑賞経験を持つ方にも強烈な映像とセリフを叩きつけて少なからず催眠効果をかけれるなんて大したもんだと思いましたよ。
意図的にやろうとすればするほどそういうギミックって逆に底が浅く見えてしまうことにも繋がりそうですし。
内容があまりにも観念的で難解過ぎて途中で考えるのを諦めてしまう映画は何度も経験上あるんですけど、決して難解というよりもむしろストレートなのにそこに映し出されているものをそのまま受け止めらられないようになってるなんて何て意地悪で頭のいい奴なんだろうって気がしましたですねえ。こういうのは僕はあまり経験上記憶が無いので出会えたことに何か逆に嬉しくなったのかもしれないです。

>ところで、ブニュエルに似ていますか?
>仮に似ているとしても、私はブニュエルはユーモ
>ア(&愛嬌)があるので好きなのですが、『カノン』
>はユーモアがない(と思う)ので、あまり好きにな
>れないのですが。

勿論何となくではあるんですけどね。
『忘れられた人々』を漠然と思い出したんですが、何がモラルで何が正義かっていうのとか現地の人達にとってあまり触れられたくないような部分を真正面から映し出してるとことかをごく身近なとこから描ききってるように思えたというか。上映禁止の心配もしつつも結局自分の撮りたいものだけ撮ってしまおうとする姿勢とか(笑)
確かにユーモアは『カノン』からは排除されてる気がしました。
それと劇中女性には徹底的に酷い扱いですよね(笑)
性的対象として以外は殆ど意味を無さない存在のように描かれてるように思えたので、これは女の人で好きって言う人は基本的には居ないだろうなあと感じましたよ。男でも全面的に共感するには躊躇われるくらいの悪意が渦巻いてましたし。
女性側からの悪意を描くと全然別のアプローチにしないと描けそうにないですよね。
しかしそれは男性側から見るのはまたしんどいだろうなあ(^_^;)



 
ギャスパー・ノエの罠にハマッても一向に悔しがらない人たちには、それなりの理由があった。


  [うえ↑]



 
チネチッタ高知掲示板

●Re^3: 『カノン』考察 シューテツ 2000/12/29 (金) 00:36

お茶屋さん。こちらでも今**は。

>それにしても、シューテツさんも一向に悔しそう
>にないですね。
>どうしてですかぁ〜。

それは、篠田さんが仰っている事とかなり重なると思います。
それと、この「罠」が騙す為のものというより、作り手の心の扉にまで導く為の「罠」だからだと思いますよ。


●Re^4: 『カノン』考察 お茶屋 2000/12/30 (土) 23:16

シューテツさんへ

>この「罠」が騙す為のものというより、作り手の
>心の扉にまで導く為の「罠」だからだと思いますよ。

なるほど。よくわからなかったのが、シューテツさんのこの一言で納得がいきました。


●Re^5: 『カノン』考察 ヤマ 2000/12/31 (日) 01:57

>>この「罠」が騙す為のものというより、作り手の
>>心の扉にまで導く為の「罠」だからだと思いますよ。
>
>シューテツさんのこの一言で納得がいきました。

僕もこのシューテツさんの一言は、うまい表現だと思いますね。
今回の西日本『カノン』会議も、この罠があればこそ、ここまで進展してきたのですから。



 
罠には素直に嵌まった方がいいのか。それとも嵌まらない方がいいのか。
ギャスパー・ノエの罠の場合・・・・。


 
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●Re^5: 『カノン』考察  ヤマ 2000/12/28 (木) 10:20

スクープとは、うまい!>お茶屋さん
確かにあの書き込みは(半信半疑)と(果たして・・・)で止まっていた対話に一石を投じた「事件」でした。
絶妙のタイミングたるゆえんです。

>僕はともかくとしてお茶屋さんやシューテツさんほど
>映画鑑賞経験を持つ方にも強烈な映像とセリフ
>を叩きつけて少なからず催眠効果をかけれるな
>んて大したもんだ

お茶屋さんにも話したんですが、これについては、むしろ広く深い鑑賞体験を持つ方ほど、お仕着せの常識や価値観に縛られることから自由でありたいと願っているし、またそれに足るだけの柔軟な感受性を持っているわけでだからこそ、ノエの罠に嵌まるわけですよ。

この映画を仮に全ての人に見せたとして、幅広くさまざまな映画を見慣れていない人の多くは、ノエ監督がデンジャー・サインを出す前に退席していると思います。
篠田さんがお連れさんに「濃いね」と言われたのも、つまりはそういうことで、罠に嵌まるほどに柔軟な感受性を持った人はやはり選ばれた少数者だと思います。
まして、例の垂れ流しの呪詛が字幕という形にならざるを得ない外国人についてはノエ監督自身が懸念していた、と篠田さんが教えて下さったように、よけいに罠に嵌めにくいと見るのが妥当だという気がします。

「騙されなかったことにもっと得意になってもいいと思うよ」とお茶屋さんは言ってくださったりしたのですが、そういう意味では、騙されかけて見破った私が得意になるべきは、騙されなかったことのほうではなく、騙されかけたことのほうではないかという気がします。

ただ、ここにノエの更なる痛烈なメッセージがあって、硬直した絶対性に拘束されない、自由で柔軟な感受性を持つ人の自覚すべき弱さなり隙というものへの覚醒を促しているのだと思います。
それこそが「ATTENTION!」すべきことなのでしょう。

たまたま私が見破ることができたのは、多分に自分が十代の娘を持つ身であることが大きく作用しているように思います。
生身の娘を持っていると、やっぱ耐え難いですよ、ありゃあ。
洞察力うんぬんよりも「身から出た感想」の力でしょうね。

長くなったので、ブニュエルの件は、また改めて。

 

●Re^6: 『カノン』考察  篠田 2000/12/29 (金) 12:21

ヤマさん、こんにちわ
今日から年末年始の休みで昼からのんびりと、です。

>これについては、むしろ広く深い鑑賞体験を持つ
>方ほど、お仕着せの常識や価値観に縛られるこ
>とから自由でありたいと願っているし、またそれ
>に足るだけの柔軟な感受性を持っているわけ
>でだからこそ、ノエの罠に嵌まるわけですよ。

広く深い鑑賞体験には至ってないと思いますが映画に限らず常識とされてることや固定の価値観に縛られたくないと願ってるというのは間違い無くそうでしょうねえ。相対的に見る習慣が出来てしまってて異なる価値観を否定でなく認めようとしてしまう。

これは年齢とかでなくその人の資質によるものなのかと思いますし、中学生くらいから傾向が現れるのかなと思うのでR-15指定となってますが当時もし見てたら今よりも大変なショックを受けて考え込んでいたかもです。しかし犯罪防止にはこの映画ショック療法として逆に効きそうかもしれないです(笑)多分にリスキーかもしれませんが

>そういう意味では、騙されかけて見破った私が
>得意になるべきは、騙されなかったことのほう
>ではなく、騙されかけたことのほうではないかと
>いう気がします。

ええ、でもやはりあれを見破ったということはより深く見ているという意味で鋭い!と思わざるを得ないのが正直な気持ちです。
あそこに至るまでに酷い嫌悪感を持って接していたらそんな罠があることなんて絶対に見抜けないでしょうし。

>ただ、ここにノエの更なる痛烈なメッセージがあって、
>硬直した絶対性に拘束されない、自由で柔軟な
>感受性を持つ人の自覚すべき弱さなり隙という
>ものへの覚醒を促しているのだと思います。
>それこそが「ATTENTION!」すべきことなのでしょう。

流石な読みで頷くしかないです(^_^;)
確かに絶対性を持たない柔軟な感受性を持つ人というのは往々として現実において相容れない場面も多々ある事かと思います。
そこに潜在的に潜む望まない現実に対する悪意を散々撒き散らした挙句、そういう絶対性を持たない人でも何処かで心の拠り所として持っているであろう愛というものを提示しておきながらそれこそが大きな落とし穴であるというのは、正にやられた!です。
相対的な人ゆえの弱さは間違い無く存在しており自覚していても普段は見ないようにしているところかもしれません。

>たまたま私が見破ることができたのは、
>多分に自分が十代の娘を持つ身であることが
>大きく作用しているように思います。
>生身の娘を持っていると、やっぱ耐え難いです
>よ、ありゃあ。

あはは、自分に置き換えて想像したくない場面ですね。
父親が娘に対して抱く感情というのは未経験ゆえに想像上の出来事になってしまうんですが娘が若き頃の母親に徐々に似てくるのを見ていて劣情を抱くまでというのははともかく、一瞬でも複雑な気持ちになることは無いのかな?と思うのですが、ただ実際に娘を持ったらやはりそれだけは考えたくない図になりそうです(^_^;)

 

●Re^7: 『カノン』考察  ヤマ 2000/12/31 (日) 01:47

>娘が若き頃の母親に徐々に似てくるのを見ていて
>劣情を抱くまでというのはともかく、一瞬でも複雑
>な気持ちになることは無いのかな?と思う

この件については、長じるに及んで女を意識させる部分が出来てくるのは、当然のこととしてありますよ、篠田さん。
しかし、それには、若い頃の母親に似てくるということはあまり重要ではないようです(笑)。
そして、そうではあっても、それが欲望へと繋がるには、かなり大きな隔たりというかギャップがあって、女を感じたからといって欲情するわけじゃないんですよ。
幸か不幸か、女であることに対して条件反射のように欲情できた若い時期を既に脱しているからでしょうかね(笑)。
こう言えば、少しご理解いただけるんじゃないですか。
そういう意味では、御同輩と呼べる年頃ではないかとお見受けしておるのですが、実年齢はともかく、血気盛んな青年だったら、ごめんなさいね。



 
というわけで、ギャスパー・ノエの罠に嵌まらなかった人にもやはり、それなりの理由があったのだ。


そして、話はついにブニュエルにまで発展した。


 
チネチッタ高知掲示板

●Re^5: 『カノン』考察 お茶屋 2000/12/30 (土) 23:14

篠田さんへ

>上映禁止の心配もしつつも結局自分の撮りたい
>ものだけ撮ってしまおうとする姿勢とか(笑)

なるほど、確かに(笑)。
『忘れられた人々』を観たのはかなり前なのですが、おなかを空かした子供が見た夢のシーンはハッキリ覚えています。ベッドの下でグツグツいう肉と、ベッドの上を肉をのせた皿を手にした母(?)がふわりふわりとこちらにやって来るシーン。鳥肌もんでした。
それと篠田さんがおっしゃるように、ブニュエルは既成の観念にとらわれることがなかったかも。
『銀河』なんかキリスト教をからかっていましたね。

>男でも全面的に共感するには躊躇われるくら
>いの悪意が渦巻いてましたし。

やり玉にあがっていたのは女性だけじゃなくて、人種のちがう人とか、同性愛者とか・・・・。
登場人物の悪意は感じましたが、作った人は女性や異人種や同性愛者に対して、登場人物と同じような悪意を持っているとは思いませんでしたよね。だから、それほど深くは傷つかないです。
ただ、作り手がそのような差別をするような人じゃないとしても、登場人物にわざと悪意をしゃべらせているのは、ものすごく嫌な感じがしました。(この嫌な感じをして感受性が傷ついたというのであろうか?)
ブルジョワ的映画へ対抗するにしても、ヤマちゃんがおっしゃるように、割と柔軟な感受性をもっている者が陥りやすい罠を指摘するにしても、一部の人の感受性を傷つけると知りながら、ノエ監督がこういう手段をとったのは、やはり悪魔(芸術家)の所業といえるでしょう。

 

●Re^6: 『カノン』考察 ヤマ 2000/12/31 (日) 01:40

ブニュエルとノエの一番大きな違いとして僕が感じるのは、ユーモア以上に、スケール感です。
それも、映画のスケール感と言う以上に、知性の大きさについて感じます。 ブニュエルもいろいろ技巧的な仕掛けをしますが、小賢しさに繋がりかねない印象を残したりはしません。
そして、ブニュエル自身こそが硬直した絶対性に拘束されない、自由で柔軟な感受性を持つ人だとの印象を残してくれます。

ノエには、それへの志向もあるし、問題意識もあるからこそ、『カノン』のような作品で、そのような感受性の弱さ(と言うよりも隙ないしは脆さ、危うさと言った方がいいようなこと)に対して、痛烈な仕掛けを施すのだろうと思います。
でも、ある意味で「観客を嗤う」ような作品ともなってしまうわけで、そのようなことをして喜んでいる卑小さが、問題意識や志向においてブニュエルを目指していても、知性の大きさよりは小賢しさが窺えることに繋がったりして、ブニュエルのようにはノエ自身が「硬直した絶対性に拘束されない、自由で柔軟な感受性を持つ人だとの印象」を与えずに終わるのだと思います。

>ブニュエルは既成の観念にとらわれることがなかった
>『銀河』なんかキリスト教をからかっていました

『自由の幻想』なんかも既成概念からの逸脱という点が、顕著に、そしてゲーム感覚で綴られた僕のお気に入りの作品です。

>(この嫌な感じをして感受性が傷ついたというの
>であろうか?)

そうじゃないでしょうかね、お茶屋さん。
そして、それこそがノエ監督自身が言う催眠術のテクニックのひとつで、僕がシューテツさんの掲示板に綴ったボディブローの効果ですよね。

>監督がこういう手段をとったのは、やはり悪魔
>(芸術家)の所業

この部分の受け止め方が、寛容と不寛容の分かれ目になりますよね。
力と技術は認める、しかし、賛同できない。となるか、お見事!となるか。



 
後編へつづく


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