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■鬼の対談>ベルナルト・ベルトルッチ(前編) |
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『シャンドライの恋』 自分に酔っぱらった?ベルトルッチ お茶屋 (以下「お茶」) いま、 シネマノートを読み返したのですが、嬉々として書いてませんか??? 何か、文章のリズムがいつもより早い。 ヤマちゃん (以下「ヤマ」) そうかねぇ? それはちょっと被害妄想じゃなくって? お茶 筆の滑りがよさそうなので、「ここまで書かれちゃなあ」と可笑しくなりました。 「暗澹たる気分になった」というよりも、ベルトルッチもここまで落ちたかと楽しんでいるみたい〜〜〜。 ホンマに好色爺さんと確信させられて「哀しい」のですかぁ〜?こらぁ〜! ヤマ あら、これ、ちょっと鋭いじゃない(笑)。 「哀しい」のは嘘じゃないけれど、「哀しい」だけじゃなくってどこかちょっと羨ましかったりしている部分もあるんで・・・・。それに、そこに妬みもあるかな?と。 そうはなりたくなくとも、そうあれる状態を羨むというか、要は、あの映画、作り手がとても気持ちよさそうに作っている感じがするんだよね。 お茶 それから、ベルトルッチが「ナルシスティックな姿をさらけだして」いるというのは、違うような気がします。 徹頭徹尾、計算で成り立ったような作品ですもの。 策に溺れたというのなら、まだわかりますが。 |
ヤマ
計算とナルシズムは、別に矛盾するものではありませんよぉ。 自らほど越した計算や設計にもナルシスティックになっているように、僕には見えましたよ。 要は、それらを含めて、観る側の得られる快感を遙かに上回る作り手の快感があからさまに伝わってきて、そりゃあ、そうかもしれないけれど、それをそんなにあからさまにするかぁってな感じがします。 それが「ナルシスティック」だと評した部分です。 そのことが外形的なりカバーを果たしても内面的な弛緩から再生できない最大の理由だという気がしますが、本人は羨むほどに気持ちよさそうなんです(笑)。 お茶 ああ、そういうことですか。そういう意味のナルシスティックね。 ベルトルッチの自己満足と感じたわけですね。ベルトルッチがトッド・ヘインズ化したと(笑)。 でも、私としては心を動かされたシーンがたくさんあるので、そのことをもってすれば「内面的な弛緩から再生できない」というのは、おいそれと同意できるお言葉ではありません。 私はこの映画を観て心を動かされたので、断固擁護しますが、今日お昼にお話をうかがったところでは、頷けるところも多かったですね。 自己満足に終わっているから「内面的な弛緩から再生できない」ということだったのかと、ヤマちゃんの言っていることがわかりました。 監督本人のインタビューを読んでも、大作のプレッシャーから離れて短期間の撮影なので、一日に20カットくらい撮るとリズムに乗れて非常によかったと言ってますから、ヤマちゃんの感じたことは、ズバリ当たっていますね。 ヤマ だから、哀しいような羨ましいようなってなことになるのかなぁ。 でも、僕の日誌を読んで「哀しい」だけの気分じゃないと喝破されたのは、お見事だね(笑)。 それと、自分の心が動いた以上は断固擁護というのは、大切な姿勢です。 異なる意見を排し拒絶するのではなく、それにも十分耳を傾けつつ、じゃあ自分はどうしてこう感じたんだろうということを探るところから発見が生まれますもんね。 それと、僕に言わせれば、ナルシストの代名詞は、王家衛をおいて他にありません。トッド・ヘインズの比じゃないと思いません? お茶 トッド・ヘインズは、『ベルベット・ゴールドマイン』1本しか観てないので、本当は何とも言えないのですが、ウォン・カーウァイよりもっとかわいいですね。 カーウァイは面白いけど、あんまり好きじゃないな〜。かわいくないです。 でもね、俳優がいいから、いいんです!(笑) で、話をヤマちゃんの日誌に戻すと、私は『シャンドライの恋』が「かつての才気をなぞった」とは思いませんでした。 ベルトルッチは、新しいことに挑戦したと思いました。 だいたい、のっけから、映画のリズムがこれまでと違うもの。 『魅せられて』の冒頭でリブ・タイラーの寝姿をなめまわすように盗撮していた・・・・・ ヤマ 舐め舐め爺さんってか?(笑) お茶 (笑)・・・・・あのリズムにも「おや!?」と思わされたけど、この作品でも自転車に乗っているシャンドライと独裁者のポスターや町の様子の切返しには、新しいことやっているなと思いました。 さっき言ったインタビューでは、若手の作家に影響を受けたというようなことも言ってるので、新しいことに挑戦していると感じた私の感想もちょびっと当たってたかなと思います。 それから、ヤマちゃんの日誌で頷けるところは、道具立てと映像の色彩設計が見事だけれど、それはうわべだけというところ。 確かに、見事なんだけど見事ということがわかるくらい、あざとい設計なんです。 これまでのベルトルッチは、そんなあざとさを感じさせず、官能的な映像であったのに・・・・・。 ヤマ そうそう、この官能性が『シャンドライの恋』にありました? |
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好色爺さんの官能性を探して
お茶 『ラスト・エンペラー』まではたっぷりと、『シェルタリング・スカイ』まではかろうじてあった映画に浸れる官能性が、『シャンドライの恋』にはありませんでしたね。 全くないというわけじゃないけど。 ちなみに、私はかつて『ルナ』で、母親が眠っている息子の毛布を剥ぎ取ったとき、真っ青なパンツ(ブリーフ)が目に飛び込んできて、ドキリとしたうら若き頃の思い出がありますが、『シャンドライの恋』では、赤いシャツのボタンを一つ一つはずしていったら、「う、まぶしい!、キンスキーの真っ白い腹が・・・!」 その白さにシャンドライがドキンとするところ、彼女同様にドキンとしてしまいました(笑)。 この映画をワンシーンで説明するならこのシーンよね、とさえ思うお気に入りのシーンです。 ヤマ 僕が日誌で失禁とか嘔吐とか涎にしか言及していないところへ向けて鋭い切り込みですな(笑)。 こういうシーンの指摘がされると、あぁなるほど、貴女はきちんと自らの内に官能性を誘発されたのだなぁと納得です。 お茶 このシーンはやられましたね。 だいたい映画を見慣れると、白いシャツを着ている人が撃たれるとか刺されるとか予測がつくじゃないですか。 赤いシャツに白い腹ですよ。う〜ん、油断していた(笑)。 それに、自分とまったく違う、理解不能な人に愛される(しかも相手は身ぐるみはがれてボロボロになる>自発的にですが)、未知なるものへの官能性ってあるよね。 ヤマ 古今東西「恋」のキーワードとされている「神秘的」ってやつですな。 お茶 それに、溺れる(溺れきる)キンスキーの姿は、官能的なはずなんだけどなぁ。 ヤマ ルイ・マルだっけ? 『ダメージ』も官能的でした? ジェレミーおじさんが。 お茶 あれは痛々しすぎて・・・・。『シェルタリング・スカイ』も痛々しすぎて・・・・。 でも、キットが囲われ女になるところとか、月の砂漠は官能的でしたね。 キンスキーのは「夫を泊めてもいいですか」とか「ぐさっ」とくるところもありますが、甘美なところがあると思うのでもっともっと官能的でもよかったのにと思うのです。 そもそもベルトルッチの作品に何を求めるかといって、一番はやはりそのベルベットのような肌触りというか、包み込まれるような心地よさというか、そういう官能的な映像&リズムであるのに、『シャンドライの恋』は、物語の状況は官能的であっても、観ている方はそれほど浸れるわけでも酔えるわけでもなく、その点では大変残念と言わざるを得ません。 ヤマ はいはい、僕もそう思うんです。 だからこそ、最も期待するものが得られないと文句を言ってしまうのです、はい。 作品としての映画に宿らずに、作り手のベルトルッチのなかにたっぷりと注がれてしまっている作品だという気がしたんですよね、僕には。 お茶 サンディ・ニュートンを舐めまわすように、アップで撮ってますからね〜 ただ、デヴィッド・シューリスのほうも、ちゃんといいところ(というのは、白魚のような指や関節の柔らかさなのですが)を撮ってるんだけどな〜。 まぁ圧倒的にサンディの比重が重いわけですが。 |
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巨匠はつらいよ
ヤマ もっと言えば、観る側のためにある作品ではなく、作る側のためにある作品。 作る動機や過程は勿論そういうことでいい、というか、むしろそうあるべきだと思うのですが、結果としてできあがった作品までもがその次元に留まっているのがちょい不満。 まぁそういうことですね。 そして、それをもたらしているのがナルシズムであり、根深い内面的弛緩というふうに感じたわけですよ。 お茶 もっと自分に厳しく冷静になれってことですか? ヤマ まぁ、そういうことですね。観客というのは身勝手なものですから。 お茶 なかなか厳しいのですね。それとも期待が大きかったせいですか? 私は「まぁ、ぼちぼち、やりなはれ」といった感じですから。 いろいろやってみなさい(←なんか、えらそう)と思うけどなあ。 我々はパトロンなんだから。(←やっぱり、えらそう(笑)) 同じことをいつまでもやっていたらマンネリだと言われるし、変わったことをして気に入られないと、ケチョンケチョン。ほんとに巨匠はつらいよ。 それから、昔の官能性を出せなかったのが、自己満足のせいっていうのは、そう???? まだよくわかりません。(「ナルシズム」は「自己陶酔」というべきところかもしれませんが、どうしても自己陶酔しているようには思えないので、自己満足という言葉に置き換えさせてもらいました。) 私は単純に映像&リズムと思っていますが。 う〜ん、それプラス詩情(ポエジー)ですかね。『シャンドライの恋』には詩がなかった・・・・・。 ヤマ これは、あながちそうだとも思いません。 詩情があっても作り手がその詩情に陶酔していることが透けて見えれば、受け手は詩情に浸れなくなると思うのです。 自己陶酔か自己満足かということについては、僕は陶酔で違和感ないのですが、お酒でもそうだけど、こちらがまだ酔っていないときに先に酔っぱらわれると、妙に白けて酔えなくなるってありますよね。 作り手自身が官能性に酔っていることが透けて見える形になるということは、すなわち作品自体に観客を酔わせるだけの官能性が宿りようがないことになるのではないかと思います。 お茶 私が具体的に言ってあげましょう(笑)。 ヤマ おお、パチパチパチ! パトロン自ら・・・泣いて馬謖を斬っていただきましょう(笑)。 お茶 『シャンドライの恋』で彼女のアップが顔や首筋や脇などやたらとありますが、あれが官能性の表現でありながら、観ているこちらとしては、ドキドキもしなければゾクゾクもしない。 それはベルトルッチがサンディ・ニュートンに先に酔っぱらっているからだ、ということでしょう。 ヤマ リブ・タイラーの次は、サンディでありました(笑)。 |
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お茶
でも、官能性が皆無の作品かというと、そうではないと思います。 私はキンスキーの気味悪さに結構、ゾクゾクしてましたけどね(笑)。 ゾクゾクって官能と紙一重だからな〜。 シャンドライも総毛立ちながらも、何か期待感があったものと思われます。 (プロポーズする前に相手が既婚者かどうか確かめろよ!と笑っちゃったけど。) ヤマ 僕も皆無だとは思いませんよ。 キンスキーに対しては、貴女の表現に則せば、紙一重の反対側のほうでありましたが、シャンドライには、感じるところもありました。 でも、貴女もおっしゃるように「ベルトルッチの作品に何を求めるかといって、一番はやはりこのベルベットのような肌触りというか、包み込まれるような心地よさというか、そういう官能的な映像&リズムであるのに、」という部分、まさしくこの点では、全面的一致! それだけに『シャンドライの恋』では不足だということですよ(笑)。 ところが、映画日誌を書いた後あちこち覗いてみたら、みなさん概ね好意的で、あれえ、と幾分意外な気がしたことでした。 お茶 やはり、みなさん心を動かされたのでしょう。 ヤマ 書いてる方はね。 でも、ベルトルッチ作品なのに、意外と観たのに書いてないという人が多いように思いません? サイレントマジョリティというか思いの外、多くの人を黙らせてしまっているのは何故なんでしょうかね。 観客を選ぶ映画なのかなぁ。 お茶 それは話が単純すぎて書きにくいからじゃないですか? だから、多分書く人はらせん階段とか音楽のことだとか、道具立ての方に走るんじゃないでしょうか? 読んでないのでわかりませんが。 道具立ては書きやすいでしょう? ヤマ お見込みのとおりですね(笑)。 お茶 私は「白い腹」ですが(笑)。 ヤマ それからすると、『シェルタリング・スカイ』では、砂漠や荒野がなんと官能的であったか。 キットとポートの交わりが官能性を帯びていないことを無言の内に際立たせてましたね。 『ルナ』もこの点では、いい線いってた記憶があります。 ただし、もっと直接的なものが多かったように思いますけど。 お茶 『ルナ』では裸電球のあかりとか虫の声とか夜風とか官能的だったな〜。 『ルナ』あたりまでは、映画が詩そのものだったように思います。 ところで、今回、ベルトルッチは話が長くなりそうですね。 巨匠のこれまでの作品については、言いたいことがいっぱいあります。 ちなみに、私も『革命前夜』は見ていません。 『殺し』と『ラスト・タンゴ・イン・パリ』はビデオで、眠ってしまいました(^^;。 ベルトルッチほどビデオにふさわしからぬ作品を撮る人はいないですからね〜。←ほんの言い訳。 で、一番のお気に入りは『暗殺のオペラ』です。 ヤマ ウッ、これを観ていない! こいつは痛いな。 お茶 それはかなり痛いですね。『暗殺の森』より数段いいですよ。 私も『ラスト・タンゴ・イン・パリ』で寝てますから痛いですが。 『暗殺のオペラ』のあとは『1900年』『シェルタリング・スカイ』『ラスト・エンペラー』が同列。 つづいて『ルナ』『暗殺の森』が同列。 |
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『ラスト・エンペラー』
ヤマ 『ラスト・エンペラー』を除いて、似たようなとこですね。 あの英語、つらくなかったぁ? お茶 ちっとも。 翻訳小説で日本語を話していても違和感を感じない人が、映画となると舞台となる国の言葉じゃないと違和感があるようで、映画のリアリティを構築するには小説なんかとは比べ物にならん労力がいるのですね〜。 私は例えば舞台が中国で登場人物(中国人)が英語で話しているところに、中国人から見て外国人であるところのフランス人が出てきて、やっぱり英語で話していたらさすがに違和感がありますが。 ヤマ まさしくこういうことが起こっていたように思いますが・・・・。 お茶 ということは、英国人家庭教師(ピーター・オトゥール)が登場して、英語の勉強をするときに、「なんじゃこりゃ〜」と思ったかもしれませが、昔のことで忘れました。(う〜ん、思えば当然「なんじゃこりゃ〜」と思ったであろう。) 家庭教師にピーター・オトゥールが来たところのほかに? 忘れてるな〜。 ヤマ 少なくとも日本人がいましたね。 中国語と日本語が聞こえてもいいはずのところが、なぜか聞こえるのは英語ばかり。 怪しい記憶だけれど、フランス人も出てきたような気はします。 お茶 でも、『ラスト・エンペラー』は、ベルトルッチの中で最もロマンチックな作品だと思います。 私はロマン派の音楽が好きなのですが、だからでしょうか『ラスト・エンペラー』も大好きです。 ヤマ う〜ん、そもそも僕は、皇帝なぞに共感する準備が心中にあまりないのかも。 たまたま皇帝であっても、皇帝として、という部分が特別な意味合いを帯びてない場合は、また別なのですが。 溥儀より遙かに哀れを誘う庶民は、いくらでもいたのですから。 お茶 私も皇帝なぞに共感する心の準備はないと思うけどな〜。 でも、冒頭での自殺未遂から、閉じ込められての生活、刑務所(というより修練所みたい)でバケツを用いて音の出ない小用のたし方を教えられるところとか哀れでした。 全部、「皇帝としてという部分が特別な意味合いを帯びて」いますが(笑)。 ヤマ ほれ、見ろ。(笑) (後編へつづく) |
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