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■鬼の対談>ベルナルト・ベルトルッチ(後編)
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(前編からのつづき)


思索と瞑想の結晶


ヤマちゃん
(以下「ヤマ」)
実は、この官能性の次に僕がベルトルッチの映画に感心しているのは、例えば『ラスト・タンゴ・イン・パリ』で過剰なほどの言葉があふれ出ていても能書きのようには聞こえずに思索と瞑想の産物としてある種の虚無感とともに響いてきたことでした。
例えば、ゴダールの映画のように、多すぎる過剰な言葉や引用の洪水というものに対しては、僕には多分にスノビズムとして響く部分があるのですが(この辺は、自分も饒舌傾向にあるので、とりわけ過敏になってしまうようです)、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』には、それを感じなかったことが驚きだったという記憶があります。


お茶屋
(以下「お茶」)
でも、『ラスト・エンペラー』は官能的なシーンがたくさんありましたよ。
この映画がヤマちゃんのお気に召さないのは、その官能的なシーンの向こうに思索と瞑想を感じられなかったからでしょうか?


ヤマ
思索と瞑想というのは、主に言葉の饒舌とのなかで意識したものであって、官能性の背後に必要だとは思っていませんが、『シェルタリング・スカイ』では言葉の饒舌さもないなかで、それを窺わせたのは凄いと思います。
そういう意味で、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』と『シェルタリング・スカイ』の二作は、僕にとってベルトルッチ作品の双璧です。


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『シェルタリング・スカイ』


お茶
なるほど。
ところで、その「思索と瞑想の産物」というのを私の観ている『シェルタリング・スカイ』で説明してもらえるとありがたいのですが。
どのシーンにどんな思索と瞑想を感じましたか?


ヤマ
これはもう、そのまんま僕の『シェルタリング・スカイ』のノート に綴りました。
あれがそのままベルトルッチの思索と瞑想だと感じたことなのです。
通常、僕がノートに綴る内容は、映画を観たことに触発されて、僕自身が考え、思ったことだと意識しているのですが、あのノートを綴っているときはベルトルッチの思索と瞑想の中味を代弁しているに過ぎない気がしていました。


お茶
おっと、それはすごい。ベルトルッチに憑依されていたのですね!?


ヤマ
う〜ん、そういう言い方もあるか・・・・。まぁ、いいでしょう。


お茶
ヤマちゃんのシネマノートによると、「愛の不在、性の不毛」による孤独感や虚しさを、「荒寥とした果てしない砂漠を旅する昼夜の繰り返しの映像」により「美しくかつ厳しく描き出して」いることが、思索と瞑想とその結果としての表現ということですね。
書かれているのは、それだけじゃないけど。
このシネマノートには、頷けるところが多く「その寂寥感こそが果てしなさのイメージなのである。」というところにも全くの同感です。
でも、一つだけ、私の考えとちがうな〜と思うところがあるのです。
それはタナーが待っているにもかかわらず、キットが帰らなかった理由です。
私はこの映画は究極の愛の物語だと思ってるからね。
ヤマちゃんが書かれていることを私なりに解釈すると、キットは愛の存在しない場所へ帰るより、愛はなくとも官能のある場所にとどまることを選ぶだろうということですが、・・・・ちょっとかいつまんで言いすぎたかな。


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愛の不在を身をもって知る


ヤマ
僕は、場所の問題ではなく、「愛の不在」という実存(不在の実存というのもちょっとヘンですけど)を身に沁みて知ったから、愛の存在しうる場所というもの自体を想定できなくなっていると見ました。


お茶
ああ、それはわかります。>場所の問題でないということは。
どこにも愛はないということですね。


ヤマ
はい。
そのうえで、ないものを確かめようと試みるばかりに、性からも官能が奪われることを思い知ったということです。
ならば、そのような性とは何物なのか。快楽のためだけなのか。
それなら、愛の観点からは、性は不毛なものでしかないということになる。
まぁ、そういったことでしょうかね。


お茶
愛しあっていたはずのポートとの間に愛がないなら、どこを探したってないでしょう。
まあ、存在そのものとして男女が向かい合ったとき、男性が女性に負けてしまうというのは、進んで認めたくはないですが、よく聞く話です。
でも、それが理由でタナーの待つ場所へ帰らないのではないと思います。
彼女は砂漠から離れられないのです。砂漠を去ることはポートと決別することになるから。


ヤマ
これは、ちょっと強烈な見解ですねぇ。理由は後ほど。
それでどうしてそう思ったの?


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砂漠から離れられない
からっぽの心にピッタリの場所だから



お茶
キットはポートが亡くなって空っぽになりました。
その空洞を隊商の男との官能が埋めてはくれました。
それでもまだ彼女は空っぽのままです。
彼女の心象風景と砂漠の景色は、なんとマッチしていることか。(←これにはヤマちゃんも賛成してくれるでしょう?)


ヤマ
はい、はい。お察しのとおりです。


お茶
喧騒のNYなんかへは、とても帰る気になれたものじゃありません。(映画のオープニングはNYでしたね。)
それにNYへ帰るとポートを忘れてしまうんじゃないかと怖い気持ちもあったかも。
作家だからそれくらいの客観性はあったんじゃないかな。
帰るか留まるか迷うとしたら、ポートを忘れやしないかと恐れる気持ちが原因じゃないでしょうか。


ヤマ
なるほどねぇ。


お茶
『シェルタリングスカイ』のシネマノートを読んだときから、これは言わねばと思っていたのよ。
ヤマちゃんの「愛の不在」と、私の「究極の愛」じゃ、180度ちがうもん(笑)。
願わくば「愛とはなんぞや」という話に展開しませんように。
展開してもいいけど。


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愛で動揺


ヤマ
先ほど、理由は後ほどと言ったのは、実はこういう観方ができる、貴女の愛に対する純粋な信頼感ないしは願望というものが、ちょっと眩しくて思わず動揺したからですよ。


お茶
そう言われると、私も動揺するなぁ(笑)。


ヤマ
おっ、これは気になりますねぇ。どういうふうに動揺したの?
できれば、もう少し詳しく教えてよ。


お茶
「おっと、そうきたか〜!(予想だにしてなかった。)」
「へぇ〜、わたくし、純粋ですかね〜??そういえば、手相の本にそうあったな〜。」
「けど、血液型占いでは、O型はガスバーナーの恋だそうで、強火にするも弱火にするも自由自在だったのに?」
とまあ、そんな風にですかね。


ヤマ
でも、実際、貴女は純粋だと思いますよ。愛に対するピュアな思いに感動しました。
前に『河』のラストに何を観たかの話を聞いたときにも思ったのですが、今回「貴女の愛に対する純粋な信頼感ないしは願望」と綴った箇所の愛を「人間」とか「人間が生きていくこと」といった言葉に置き換えて、そのまま使えるような気がします。
貴女に愛される人は羨ましいような気がしますね。
(こら、ベルトルッチ、ちっと感謝せんやならんぞぉ(笑)。)


お茶
愛されてみる?(笑)


ヤマ
これはこれは、嬉しいお誘いですねぇ。
ちょっぴりおっかない気もするけれど、されてみたくもありますなぁ。
でも、僕はベルトルッチほどにスタイリッシュな好色爺さんになれるかしら(笑)。
しかし、そうしてみると、ガスバーナーの話は、イミ深ですね。
愛されてみると、翻弄されるよってことかい?


お茶
はい、いじめるのは好きです(^^)。


ヤマ
うわぁ〜、ギンガじゃない(笑)。どんな辛い過去があったの?
でも、貴女の『シェルタリング・スカイ』についての観方をうかがうと、究極の愛の物語というのも納得ですね。


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看病するキットの正体


ヤマ
僕はノートにも綴ったように、懸命に看病しているときのキットの姿に愛を感じられませんでしたけど、その点はどうでしたか?
ノートで、わざわざ「重要なのは」とことわっているのも、本当に懸命になって看病していることが切実に伝わってくるのに、それが愛故ではないことが同時に鋭く描き出されているところに感心したからです。
そこにベルトルッチの思索と瞑想の根幹を観たような気がして、この作品が僕のなかで傑作となった理由の一つになっているのです。
貴女は、きっと懸命に看病しているキットの姿に愛をお感じになったのでしょうね。


お茶
ええ、感じましたよ。・・・・・自己愛を(^_^;。


ヤマ
う〜ん、ここで自己愛を出してくるのは、反則じゃない?


お茶
ははは(笑)、反則でしょう。
あのシーンにはヤマちゃんがおっしゃるとおり、「私を置いて行かないで」というキットの焦りは十分感じられます。
彼女は空っぽの心のままで砂漠をさまよう亡霊なんですよ。
生きながら死んでいる人。
だから、私は心中物語だと思うんですよね。
究極の愛の物語です、お互いに求めすぎて、求めるものが得られず苦しむという・・・・。


ヤマ
でも、それならNYへ帰ろうかなんて迷わないんじゃないんですか?(ちょっと、いじわるかしら)


お茶
そう来ると思った(笑)。


ヤマ
お見通しでしたか(笑)。


お茶
迷うからいっそう残酷で好きなんだけどな〜。←答えになってないけど。


ヤマ
確かに、何事によらず、だからといって一直線に行けずに迷うのが人間ですよね。
強い自殺願望にとらわれている人がみんな自殺するものでは決してないように、むしろ内省的に確信めいた思いにとらわれている人のほうが直情径行に勢いで行動を決めてはいけないことのほうが多いように思いますモンね。
でも、物語としては、そういう運びだと構成が壊れてしまいがちですけど。


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巨匠の本領


お茶
お互い求めすぎて満たされないまま、相手はあの世に行ってしまい、これから永遠に満たされることなくさまよう。
それだけならまだしも、忘れるんじゃないかしらんと彼への愛に自信が持てない。


ヤマ
キットにおけるこの自覚への目覚めは非常に重要な部分です。


お茶
もし、二人が普通に愛し合っていたら、ポートが死んでもキットは彼を愛し続けるという自信が持てたと思うんですよね。
究極の愛の物語ってこれまで、心中ならあの世でいっしょになり、また、心中でなければ、片方が片方を殺して生き残った方が相手を取り込む形でいっしょになり、というふうに一心同体を目指しております。
でも、『シェルタリング・スカイ』は、ポートが死んでもキットの一部とはなっていませんね。
あれだけ一心同体を求めたのにね。それが大変虚しく、泣ける甘さを排除していると思います。


ヤマ
それがベルトルッチの思索と瞑想の成果だと思いませんか?


お茶
う〜ん、そうでしょうね。
ベルトルッチは、深く考えているだろうと思います。
でも、その考えたことを理詰めではなく感覚で表現しているので、考えたことの痕跡をあまり残していないように思えます。


ヤマ
まさしく。そこが魅力で、そして才能だと思います。
言葉にせずして表現しているから、頭にではなく心に響くのでしょうね。


お茶
ヤマちゃんには、痕跡が見えるのかもしれませんが、私にはあまり見えないです。
だから、シネマノートを拝読して、言葉にするとこうなんだ、なるほどな〜と思いました。


ヤマ
そう言っていただけると、とても嬉しいです。


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衣食足りて愛を求める現代人


お茶
この映画が泣ける甘さを排除できた原因は、ヤマちゃんのいうところの「愛の不在」で、私のいうところの「求めすぎ」だと思うのですが。


ヤマ
そういうことになりますね。
でも、僕としては「求めすぎ」と見ると、彼らの愛についての個別事例的なニュアンスが強くなるので、かつてないほどの自意識を持つに至った現代人の実存における愛の置かれている状況としての不在という普遍性のほうをとりたいと思うし、それをベルトルッチの思索と瞑想の成果として受け止めたいと思うのです。


お茶
なるほど。そう観た方がいいかもしれません。
(個別的なニュアンスが強くなると、普遍性があまり感じられなくなるというのは確かですが、映画などの物語の中では、現実にはこんな人は少ない又はいないだろうと思われるような人が主人公であっても、人間の本質を突いていたりすると普遍性を帯びてきますよね。ポートとキットは個別事例的なニュアンスは強いですが、現代人の実存における性愛について普遍性を帯びているという言い方もできるとは思いますけど。)


ヤマ
抽象度を高めた観念性に向かう解釈と現実感に足場を置いた具体的側面という視線の違いであって、それによって普遍性とは必ずしも結びつかないですね。
個別事例的であることが直ちに普遍性を欠くものではないということは、おっしゃるとおりだと思います。


お茶
私は「与える」のも愛なら「求める」のも愛だと思うので、求め合う二人を見て「愛の不在」とは思わなかったのですが、この映画から受け取ったものは、ヤマちゃんとあんまり変らんかもしれないと思います。


ヤマ
そうですね。
受け取ったものをどう自分の中に納めるかの納め方の違い、ということになるかな。


お茶
教訓、「愛は与える方が楽ちん」(笑)。


ヤマ
求める、求めないを意志でコントロールできるのであれば、みんな、この楽ちんなほうを選ぶはずなのですが、そうはいかないのが人間でしてね・・・・。ついつい欲しがってしまうんですよね。
「愛の不在」について、もう少し言葉を足すと、もちろん現代人といえど、その精神世界から一切愛という概念が失われるに至るほどの不在状況に直面しているのではありません。
むしろ、求めるものとしての愛は、かつて以上に、肥大化した自意識というものが強迫的に愛に向かわせていると思いますね。
昔は、愛を問題にする以前に生存を問題にせざるを得ない状況のほうが一般的でしたから、愛なんぞにとらわれているゆとりもなかっただろうし、そういう意味での愛に対する飢餓感は、現代ほど切実ではなかったのではないでしょうか。


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すれ違いの証明


お茶
お互いに求めすぎて求めるものが得られず苦しむという点では、砂漠に到着して間もない頃に、ホテルから出て通りを行くポートをキットが階上から見送るシーンがありました。
ポートが振り返らないのであきらめて部屋に引っ込むと、ポートはキットが見送ってくれているかしらんとホテルの窓を見あげました。
窓にキットの顔がないのでポートは諦めます。
このすれ違いが、二人の愛を象徴しているように思えます。


ヤマ
そのとおりです。
この引用により、まざまざとシーンを思い出した気になりました。
白い欄干のついたベランダから、右下のほうを見たんではなかったかしら。


お茶
すごい、よく覚えてるね〜。


ヤマ
いや、全く自信はありません。
貴女の言葉に触発されて浮かび上がってきたイメージがそれだったのです。


お茶
白だったかは忘れたけど、欄干はあったような・・・・?ベランダに出てた?
カーテンの陰から見てなかった?カーテンがあったように思います。
方向は、私も右下を見ていたように記憶しています。
映像にパワーがあるからいろんなシーンを思い出すねえ。
観た当時、おもしろかったと思っても、映像にパワーがないと、どんな映画だったかすぐ忘れるもんね。
(『シャンドライの恋』では、キンスキーがシャンドライを見送っていましたね。 シャンドライは振り返って、二人は目が合ったので、「おっと、"今度" は心が通じてるじゃん」と思いました(笑)。)
あと、ベルトルッチで語りたいことはないですか?
『ラスト・タンゴ・イン・パリ』『暗殺のオペラ』は残念なのですが、『暗殺の森』は?


ヤマ
僕のほうから提起したいものが格別あるわけではありませんが、彼のパトロンたる貴女から投げかけてもらえるものには大いに興味があります。
『暗殺の森』?、けっこうですよ。大いにやりましょう。
日誌を綴っている作品ではないので、『シャンドライの恋』や『シェルタリング・スカイ』のレベルで語るほどの記憶は、備えてないかもしれませんが・・・・。
貴女との映画を巡る対談は、僕の意識と感情レベルにおいて非常に快適で、妙な警戒や遠慮や背伸びの必要がなく、とても心地のいい言葉の交換ができるので、大歓迎です。


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政治と宗教と日本人
『暗殺の森』『暗殺のオペラ』『1900年』



お茶
パトロンって(一応、金を出しても口は出さずに芸術家(作品)を擁護する立場)言っても、現代のパトロンは世界中にいて、それぞれ入場料だけで芸術家を支えているわけでして、そう大した者ではないのですが(笑)。
やはり、ベルトルッチを語るには、「官能」のほかに「政治」がキーワードだろうと思うのです。
私は新聞をめったに読まないので、「政治」については、それとなくしか知らないので何を話していいかわからないのですが・・・・。
ベルトルッチは、政治にはたいへん関心がありますよね。イタリアの映画監督ってみんなあるかも。
ヴィスコンティやパゾリーニ。イタリアン・ネオリアリズモ?ロッセリーニとかデ・シーカとかも。
政治の匂いがあまりしないタヴィアーニ兄弟だって『サン・ロレンツォの夜』で赤シャツ隊と黒シャツ隊に分かれて、身内同士が戦っているのを御伽噺のように描いていたし。
『あんなに愛しあったのに』でもイタリア近代史として政治のことも背景に描かれていましたよね。
ファシズムの傷痕を映画の中で、そこかしこに発見できます。


ヤマ
っていうか、日本以外の大概の国では、一定知的レベルにある者の多くが政治に対する関心を持っているとしたものです。
そういう意味では、日本が極めていびつだという気がします。


お茶
おめでたいですね〜。>日本人。 私もその一人ですが(笑)。
でも、政治って生活に関わってくるから無関心でいると、いいようにされてるって感じですね。


ヤマ
半ばタブー化しているきらいもあっていささか気に入らないところでもあります。


お茶
これが問題だ。
アメリカではウォーターゲート事件とかケネディ大統領暗殺事件だとか映画になってますもんね。
公民権に関する映画もいっぱい。
日本では政治的な映画にお金を出す人が少ないでしょう。
タブー化していることもあるし、映画で儲けられるかどうか怪しいですからね。
アメリカでは、映画で儲けられるから多少のリスクを覚悟で冒険も出来るんじゃないかな〜。
アメリカの正義って鼻につくけど、アメリカ人の正義感は健全だなぁと思うこともあるし。
アメリカには黒澤明がいっぱいだ(笑)。


ヤマ
政治以上に世界の中で日本が特殊な形で無関心ないしは、偏見の眼差しを向けているのが宗教です。
これもまた大概の国では、知性が必ずといっていいほど関心を寄せるテーマ。 社会に生きる人間ならば、政治について思いを巡らせるのは当然で、心ある人間ならば、宗教に思いを馳せるのが当然だというのが普通の感覚だとされているように思います。<健全!
政治や宗教に関心があるのは変わった人だとかアブナイ人だとか見られがちな日本であることが、今の状況すなわち社会が壊れかけ、心が壊れかけているといったことに繋がっているのだという気がしますね。


 
お茶
『暗殺の森』は、ファシストとして恩師を暗殺した男が主人公だったのですが、自分がファシストの道を選んだきっかけともなった男(ピエール・クレマンティ)が生きているとわかって、いったい自分は何だったのか、何をやっていたのかというところで終わります。
個人の実存とファシズムを「いったい何だったんだ(呆然)」という形で、掛け言葉じゃないけれど、並列して描いているところがおもしろいですね。


ヤマ
こういう問いかけがなされようのなかった日本の戦後の歩み、具体的にはファシズムの否定もそれに伴う民主化も、さらにそれを抑圧した逆コースも全て外圧のもとに追従しただけの情けなさの体験が残した痕跡だと思います。


お茶
なんか、ベルトルッチから離れてきましたけどぉ(笑)。おっしゃるとおりですね。
重ねていうと、「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」というのが日本人の体質ですから、追従するのが得意中の得意なんです。
ベルトルッチに話をもどすと、彼を語るときに政治は外せないと思いつつ、さりとてオリバー・ストーンのように政治的な主張がある訳でないので、何を言っていいやらわかりませんが、ファシズムについては『暗殺のオペラ』をみても、「いったい何だったんだ(迷路)」という思いが表現されていると思います。
『ラスト・タンゴ・イン・パリ』は政治とは無縁ですか?
ビデオで観たせいか、ほとんど記憶にないのですが。
最近の作品では『暗殺の森』のように政治と個人をからめて描いてないですね。なぜでしょう?
その辺をヤマちゃんにお伺いしたいです。


ヤマ
『ラスト・タンゴ・イン・パリ』は、僕も20年も前に、3軒の映画館をはしごして観た7本目の映画だったこともあり、自信の程は全くありませんが、あまり政治的な印象は残っていません。
哲学的な印象が強いように思っています。
最近の作品については、さぁ、どうしてでしょうかねぇ・・・・。
"色惚け?"などとおちょくると顰蹙?
「政治と個人をからめて」という言葉で直ちに想起したのは、『1900年』です。 ドパルデューとデ・ニーロでしたっけ。
どちらもが個人である部分以上にその時代の階級が辿った歴史上の運命というものを背負わされていて、個人のドラマとしては少々無理をした運びをしてまで重ねられていたような記憶があります。


お茶
それと「官能性」のところで書くのを忘れていましたが、ビットリオ・ストラーロの撮影は、ベルトルッチの官能性に一役買っていたと思います。
映像にぬめり感があるもの。


ヤマ
ストラーロには、『ストラーロの光と影』とか何とかいうドキュメンタリーがあったんだよね。
ご覧になりました? 僕は観逃したのですが、いかがでしたか?
「ぬめり感」と「ベルベットの肌触り」というのが貴女が反応する官能への入り口みたいですね。
うん、確かに気色わる、よさそうなゾクゾク感へと連想が及んでいきますね。
このゾクゾク感の行き着く果ての恍惚をもたらすのが貴女好みの官能性ということになるのかな? 
あちゃ、政治からまた官能に話が戻ったじゃ、あ〜りませんか(笑)。


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  1. ノート: シネマノート(映画日誌)のこと。お茶屋が思うに、『シェルタリング・スカイ』はヤマちゃんのシネマノートの中でも特におもしろく感動的である。 もどる

  2. 男性が女性に負けてしまう: 直接このような言葉ではないが、『シェルタリング・スカイ』のシネマノートにそういう意味のことが書かれている。
    俗に「女は強い」と言われるが、なぜ、強いかというと、女性にとって不都合が多い社会では、それなりに強く、したたかでなくては生き抜いていけないからであり、生まれながらに強いわけではない。常々、そう思っているお茶屋が、「女は強い」とか「男性が女性に負けてしまう」ということを進んで認めたくないというのは、無理からぬ話である。
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  3. 『河』のラスト: ツァイ・ミンリャン監督の『河』のラストは、主人公の死にも値する絶望的な状況であったため、ヤマちゃんはやり切れない思いで見終わったそうである。一方、お茶屋は、自殺するかに思えた主人公が、穏やかな朝の光や鳥のさえずりに包まれ、心地よい微風を額に受けるのを観て、死なずにいてくれたことに、ほっとしたのであった。
    お茶屋(観客)をほっとさせたのは、監督の意図したことではないかとの指摘に、ヤマちゃんはいたく感心した。(ヤマちゃんは、やり切れなさのあまり、ラストの穏やかな描写を感じ取る余裕がなかったそうである。)
    その時からヤマちゃんは、お茶屋の性質に、ある一定の方向性を見出したようである。 もどる

  4. ギンガ: 手塚眞監督の作品『白痴』の登場人物で、表向きには人気アイドルなのだが、実はわがままな女王様的存在で主人公の伊沢(浅野忠信)をいたぶる。後に彼女にはつらい過去があって、だからこそ強く生きようとしていたのであり、覇気のない伊沢がいまいましかったのだとわかる。 もどる

2001/05/27


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