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■鬼の対談>肉弾(後編)
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(前編からのつづき)


股間のモノは精神の大きさを表わす

お茶
では、次に何が何を象徴し戯画化されているかということですが。


ヤマ
最初の方からいくと、先ずは、動物ですね。
アイツは動物扱いされて、素っ裸にされ、牛になり、豚になり、映像としても牛や豚が映し出されますが、人間よりはよっぽど動物のほうが上等な生き物だと思わずにはいられませんでした。
その上等な動物に、なれと言われれば、なれてしまう彼の立派さが、動物になっている姿にいささかも屈辱感を漂わせない演出で効果を挙げていたように思います。
アイツの精神は、股間のモノと同様、「デッカイナァ!」なんですよ。
 


お茶
これは、ナレーションでも説明されていましたね。
「自分のためだけじゃなしに食べ物を盗んだこと」「裸でも普段と全く変わらないこと」そんなことが、みんなの尊敬を集め、「デッカイナァ!」という言葉につながったと。
アイツはまったく威張ったところがなくて好きだなあ。素直な人って強いよね。


ヤマ
構えたところが全くなくて、実にいいですよね。
そして、素直な人って強いだけじゃなくて健気ですよね。
だから、何とも哀しくて、こみあげてくるものがありました。
ってな具合で、この作品の中で何が何を象徴しているか、貴女は何か思い起こしませんか?


お茶
う〜ん、そんな難問を・・・・。
動物のあとは、休暇前の解散式と定年退職をした上官の現物支給のエピソードですが、全くわかりません。
本屋さんのエピソードは、本屋さんが地下にありましたね。聖書なんて鬼畜米英の国民的宗教本を置いてある本屋さんは地下組織の象徴ですか(爆)。


ヤマ
苦肉の回答ですねぇ。無理やりはしないように、無理やりは(笑)。


お茶
無理をさせたのは誰だっつーの(笑)。


ヤマ
ごめん、ごめん。
つい、僕の味わった 「そんなの聞いてないよぉ」体験を追体験してもらいたくなっちゃってね。
でも、無理をしてでも、問い掛けに素直に応えようとしてくれるなんて、かわいいとこ、あるじゃん(笑)。


お茶
で、さらに無理をすれば、北林谷栄の眉間のほくろは、まさに観音様。笠知衆の心の支えは、観音様のような妻。暗に観音様(宗教)が心の支えになっていると言っているのでしょうか(爆)×(爆)。
美輪明宏は男性か女性か尋ねられて、「私は観音様だから性別はないの。」と言っていたけれど。←余談


ヤマ
眉間のほくろは気づきませんでしたね。
でも、そういうメイクがしてあったんなら、僕もそうだろうと思います。
ほくろのあるなしに関わらず、観音様のイメージでしたよね。
でも、宗教というのは、どうかなぁ。僕にはちょっと違和感ありですね。
それよりは作り手の「聖なる女性」への憧れだと思います。


お茶
それは私もそう思いましたよ。
でも、それじゃ、あたり前すぎて「何が何を象徴しているのか」というお題の答えとしては面白くないと思ったもので。


ヤマ
人間、素直が一番です。(こんなこと言える資格、貴女より遙かに僕のほうがないような気もするけど)
あの少女だけにすると、女性性に対して一般化する形で期待し憧れている女性の聖性というものが、少女に特定された特別なものとなってしまいます。
それを避け、女性一般に対して内在されたものとして強調したかったのではないでしょうか。(かなり、僕自身の思い入れが反映されてますが。)
そして、ついでに加えるならば、アイツに対して偉そうな物言いをする小沢昭一憲兵ですらも奥さんが頼りなんですよ。


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聖母マリアか観音様か

お茶
女性に対するそういう見方って確かにあるけれど、それは男性の見方ですよねぇ。


ヤマ
来た来た、やっぱり。
僕がいつも貴女に指摘されては、ごもっともと反省させられている部分ですよね。
すぐ男だの女だのと言い出すんだからぁとね。
でもって、僕は先手を打って、こう言って予防線張ってるんだよねぇ(笑)。
「(かなり、僕自身の思い入れが反映されてますが。)」ってね。
この際、思い入れの前に「かなり偏った」って言葉足してもいいけど、作り手には、そういう僕から観て、通じるとこあるんだよね。


お茶
先手を打って予防線を張っているのは重々承知ですが、「作り手には、そういう僕から観て、通じるとこあるんだよね。」とおっしゃっているとおり、ヤマちゃんだけの思い入れじゃないんだよねぇ(笑)。


ヤマ
ご不満かもしれませんが、女性への憧れ及び偶像化は、男性にはかなり普遍的な感覚だと思います。


お茶
そうでしょうね〜。『バトル・ロワイアル』でもキタノ先生は観音様のような女生徒に救いを求めていたし(笑)。
でも、そういう普遍的な感覚が幻想に基づいている限り、憧れも蔑みも同じに思えるなあ。幻想ではない特定の女性に憧れていればいいと思うのですが。


ヤマ
そうです、憧れも蔑みも同じと言えば同じなんです。でも、そういう観点から言えば、人間の抱く認識や感覚は総て幻想に基づいているものだという観方もできるように思います。


お茶
うん、そうそう。


ヤマ
共感や理解は、そういう意味では共同幻想なのだと思います。
そのうえで、憧れの視線と蔑みの視線はやはり違うのだと弁明したい(笑)。
「幻想ではない特定の女性に憧れていればいい」というのは、僕に言わせれば、むしろ特定の女性への憧れを可能にするものこそが前提として持っている女性なるものへの幻想だという気がします。
その幻想を託せる人となって初めて特定女性への憧れが生じるのでしょうし、それが託せなくなった時点で幻滅ないしは失望へと変わるのだろうと思います。


お茶
う〜ん、ま、差別につながらなければいいんですけど。
「女はやっぱり偉いな〜」とか言いながら、しっかり差別している人がいるもので、素直にそうですかとは言えなかったのねん。ヤマちゃんが差別しているわけでもないのに申し訳ないm(_'_)m。
だけど、「それが託せなくなった時点で、幻滅ないしは失望へと変わるのだろう」ということは、女性への憧れと言っても、行きつくところ全女性を対象とした憧れとはなり得ませんね。幻滅とか失望は、ない方がおかしいし。
でも、多分、幻滅とか失望を経てもこりずに憧れてるんでしょうなあ(やれやれ)。


ヤマ
(やれやれ)などと仰らずに、可愛いモンだと見守って下さいな。(笑)


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ボロ傘は残された人間性を表わす

ヤマ
話は『肉弾』にもどるけど、本題の戯画化ということについて言えば、まさしくこの(小沢昭一の)憲兵が戯画化されていますよね。
雨を厭って傘などさすな、軍人たるもの、と空威張りしても本音のところでは、奥さんが大事で子どもが大事ででも、そんなところは見せるわけにはいかないって馬鹿な状況を作ったのはだぁ〜れ?


お茶
その後、女郎屋→小沢昭一の登場と続きますが、このへんはずーっと雨ですね。魂を潤す雨かな。
小沢昭一扮する軍曹(?)が兵隊は傘なんかさすなと言いますが、この傘は人間性の象徴でしょう(多分)。少女がくれたお守りです。


ヤマ
これは、僕もそう思います。
ぼろぼろになりながらも手放すことの出来ない、アイツが持ち続けていたかったものです。
あの傘のおかげで多少でしかなくとも雨露をしのいで生き延びていくのです。


お茶
あと、かんかん照りの日よけにもなっていますしね。


ヤマ
はいはい。


お茶
やっぱり、少女とのシーン(一日だけの休暇シーン)を雨にしたのには、「水=生きるためになくてはならないもの」という意味があるのではないですか?冒頭の訓練シーンは砂地で、少女と別れてからも砂浜だし、ドラム缶では水か欲しくてたまらない状況だし。
あれ?この傘はいつ無くなったっけ?漂流中に無くなったんですよね。あ、いかん。ちょっと先へ行き過ぎました。


ヤマ
雨とか水に対してこういう意味を読みとることは、ある種の定式として有効な場合も多いのですが、この作品について僕は、そういうふうには受け取ってません。
あの雨は慈雨として登場しているようには思えませんでした。
数式と違って明確に聖なる少女の象徴である傘によってしのぐべきものでしたし、どしゃぶり系でしたもの。
雨は、常に慈雨を意味するものでもなく、両義的です。
むしろ、一般的には「晴:○、雨:×」的なイメージのほうが我が国のように雨期乾期があるわけでなく、年中、比較的穏やかな気候で高温多湿、水にはあまり困ったことがないところが多いという国では、雨のイメージは、どちらかというと負のイメージだと思います。(もちろん個別には、設定された状況によって違ってきますが)
その点、外国映画とは若干異なってくる面があるような気がします。

僕はどちらかというと、むしろ雨にしろ、カンカン照りにしろ、軍隊にしろ、売春窟にしろ、砂地や砂浜にしろ、アイツのいるところが常に穏やかさの得られないところでしかないというふうに受け取っています。
そういう意味で普通の天気じゃいけないということです。
そのうえでずっと雨ばっかりとか、カンカン照りばっかりとかにしても、いびつですから両者が出てくることになったのではないでしょうか。


お茶
「あの雨は慈雨として登場しているようには思えませんでした。」とおっしゃるとおり、よっく思い出すと慈雨には見えませんでした。
女郎屋でもじめじめじとじとだったし。
無理に何かを象徴しているものを探しだそうとして、落とし穴に落ちました(笑)。やはり無理はいけませんね。


ヤマ
基本的にはね。
でも、あぁは言ったものの、無理をしてくださるお姿は何処かしら健気でかわいいもんで、ときどきはしてください(笑)。
僕も健気にかわいくも、無理しといたうえで、そんな意味づけしたくないなどと弁明してるじゃありませんか。


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不良ナイチンゲール登場!

お茶
観音様のような北林谷栄や聖なる少女が出てきて、さらに偉そうな憲兵も実はおかみさんが頼りというので、やっぱり、この映画も男性の視点しかないのね、と言おうかと思ったけど、観音様と同じくらい女性の象徴として用いられるナイチンゲール(3人組)に「強チンしちゃおうか」という台詞をハモらせた(輪唱だったかしら(笑))ところが、ただ者ではないです。


ヤマ
僕ほどお粗末に露呈させてないと、ね(笑)。
女性がすべからく観音様ではないということでしょう。


お茶
強チン待ってましたの男性だったら嫌な感じですが、清らかなアイツを強チンするなら文句はありません(笑)。


ヤマ
降って湧いたように起こることは、棚ぼたばかりじゃない!
男たちの前に現れるのは、観音様ばかりじゃないぞってか。
そんなの期待されても、女としては困るぅってことの代弁?
それとも、憧れをなくしきれない男たちへの戒め?
いずれにせよ、ひたすら女性を美化する視線を表出してはいませんね。


お茶
だけど、その後ナイチンゲール3人組が「強チンしちゃおうか」と言ったのに対して罰を与えるかのように、強姦されるシーンがありましたが、あれはいったい何?なんか、コミカルで5%くらい笑ってしまいましたが。戦時下でこれから出陣というときの(女性が犠牲になっている)状況を描いたのだと解釈していますが、いかがでしょう?


ヤマ
そうだと思いますよ、僕も。
また、罰の件については、清らかな魂には棚ぼた的救済もあるが、そればかりではすまずに厄災も降りかかり、邪なる魂には、かならず報いがあるというわけですかねぇ、しいて言えば。


お茶
う〜ん、かなり「強いて」言ってるんじゃないですか?(^^;。


ヤマ
うん、僕もかわいいとこがあるほうだから、「罰」を持ち出してきたことに僕なりに強いて応じたというところですね。


お茶
私が「強いて」言えば、あのシーンがお祭りみたいだったことに言及したいですね。ナイチンゲールを御輿のように担いで波打ち際へ。強姦するに及んでも、女性は御輿なんですよ。
岡本監督は、よっぽどの愛妻家か恐妻家かなんでしょか(笑)。


ヤマ
いわゆる愛国婦女子的ないでたちをしていた女たちが、そうそう国家的イメージとして押しつけられた役割どおりの存在ではなく、献身どころか、アイツに対しては逆にまさしく献身(笑)を求める欲望を表出するという痛烈な戯画化がここでも為されているわけですが、彼女たちもまた強姦の犠牲者になるところには、平時ならぬ非常時における女性の被った厄災の典型として描かれている以上の意味を僕は受け取っていませんでした。
でも、言われてみれば、確かに祝祭的イメージはありましたね。
そう言われて連想したのは、性が個人的な営みではなく、共同体存続のために必要な神事に近かったとされる原始共同体のことです。
そのころは一夫一婦制でもなく、おおらかと言えばおおらか、ルーズと言えばルーズ、しかして当人たちはおおらかともルーズとも思っていない、という形で営まれていたことだろうと思います。
そういう大きな集団の営みとしてあった性が、やがて家という小さな集団の営みとなり、さらには恋愛至上主義とも言える近代精神の進展により、今や完璧に個人的な営みにまで卑小化するなかで、性から多くのものが奪われ、また新たに与えられたような気がします。
「強姦するに及んでも、女性は御輿なんですよ。」というところには、岡本監督が愛妻家か恐妻家ということよりも、今言ったようなことが多分に影響しているような気がしますね。


お茶
うん、私も岡本監督が愛妻家又は恐妻家というのは、本気で言ったわけじゃないです。
かと言って、ヤマちゃんのおっしゃるようなことを考えていたわけではありませんが。


ヤマ
でも、僕としては、この部分について、あまりそういう意味づけをしたくはないのが実感です。


お茶
はあ、わたくしも同感です。
もともと意味付けするのは私の見方ではないような気がしてきたし(笑)。


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愛国教育にロケットパンチ

お茶
というわけで、ラストシーンまでの間に象徴性に関して言っておきたい場面がありましたらどうぞ。
海辺のシーンで小学生の男の子との出会いや、一升瓶の酒をラッパ飲みしている兵隊との会話がありましたね。


ヤマ
> 海辺のシーンで小学生の男の子との出会い

ここは何と言っても「ニッポン、ヨイクニ、カミノクニ」に尽きますよね。
国家が押しつける愛国教育というものが、権力的なものである故に既にして十全たる愛国心を備えている子どもの心を痛めつけます。
教師は教育という名の下に、国を愛する心を育てるのではなく、権力に従う心を育てていたのですものね。
幼いながらに国を思い、兄を思う少年の心の清冽さに比べ、あまりに愚劣な教師の言動にアイツの鉄拳が黙ってはいなかったのは痛快でした。あの少年の声の調子、質、言い回し、よかったなぁ。

> 一升瓶の酒をラッパ飲みしている兵隊との会話がありましたね。

高橋のオッさんですね。
貴女が言われたように「愛する人を守ろうとする素直な気持ちが肯定的に描かれていて、すごくよかった。そんな美しい気持ち」を「身から出た」ものとして持っているアイツには、敗色が決定的で国が負けるからといって、守るべきもの、身を挺するべきものが失われたわけではないからこそ、あんなふうに投げやりにニヒルに構えることができないんですよね。
アイツのそういう姿を愚かだとか意味がないと否定する感覚は、自分にそれが出来ないからする言い訳であって、僕にもアイツの真似は出来そうにはないけれど、少なくとも素直に「あんたは、エライ!」と言えるぐらいにはありたいと思います。
自分の内なる人間性にしろ、愛する人や土地(クニはクニでも、国ではなく郷里)にしろ、本当に守るべきものを自分自身のものとしてきちんと掴んでいる人は、やっぱりとてつもなくカッコいいですよね。
しかし、それがいささかも報われないどころか、その真摯な姿さえ天の声以外からは認められない状況というのがなんとも哀しいですよねぇ。


お茶
「アイツには、敗色が決定的で国が負けるからといって、守るべきもの、身を挺するべきものが失われたわけではないからこそ、あんなふうに投げやりにニヒルに構えることができないんですよね。」
というところを読んで感動しました〜。
そうか、そのための高橋のおやっさんだったのか〜!
どうして、忽然と現れたのかと思っていたら、そのような対比があったのですね。


ヤマ
ありがとう。
貴女に褒められるとすっかり有頂天になってしまいます(笑)。


お茶
いや、有頂天になっていいですよ、あれは(^^)。
本当に忽然と現れてねえ。>高橋のおっさん
忽然といえば、学校の先生もよくあんな浜辺まで追いかけて来ましたよね(笑)。


ヤマ
アイツに殴られるために浜辺まで来なきゃならなかった(笑)。
あの、攻撃性をおよそ持たないアイツが鉄拳をふるう唯一の対象として登場したわけです。
国家が押しつける愛国教育というものが、権力的なものである故に既にして十全たる愛国心を備えている子どもの心を痛めつけますよね。
教育という名の下に、国を愛する心を育てるのではなく、権力に従う心を育てていることに対する作り手の怒りの程が窺えます。
上官に豚になれと言われても平然と従ったアイツが唯一攻撃したものとして際立たせるためにあの教師は必要でした。


お茶
やっぱり、殴られるために出てきたんだ(笑)。
高橋のおっさんにしても教師にしても、その他本屋のおじさんや小沢昭一の軍曹や漁船のおじさんなど、みんな忽然と現れて、普通の映画ならリアリティのない不自然な登場の仕方といっていいと思いますが、『肉弾』の場合はそれがマンガチックな雰囲気にぴったりで可笑しいんですよね。


ヤマ
そうです、そうです。このマンガチックな雰囲気というのがたまらないんですよね。
力瘤入れて力説されると、哀しさに次第に包まれるという、あの何とも言えない感覚に浸ることができません。
でもって、その哀しさが情緒的なものでないところが凄いのですよ。


お茶
そうですね、お涙頂戴とはほど遠い作品でした。
それと思うのは、愛する人を守りたいという素直な気持ちが戦争に利用されてきたため、そういう気持ちを持ってはいけないものだと思う人がいるんじゃないかと思うのですが、『肉弾』はそういう素直な気持ちを思いっきり肯定して、なおかつ反戦映画になっているところがすばらしいです。


ヤマ
ここ、とても大事ですよね。
貴女が言うように、こういう素直な気持ちを前面に押し出した作品は、決まって戦意高揚映画か愛国教化映画の匂いがして、うさんくさくてしょうがないですよねぇ。
文句なしの反戦映画でありながら、この部分をまっとうに押し出している作品を僕は他に知りません。
反戦映画の最高峰と言ってもいいんじゃないでしょうか。


お茶
最高峰と言いましょう!


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アイツの叫びを聴いてくれ

お茶
で、ついにラストシーンにたどり着いたかな?


ヤマ
当初のお題の戯画化という点では、ラストシーンでの戯画化には感嘆しました。 特別攻撃隊には、周知の神風特攻隊の飛行機以外にも「回天」という人間魚雷や潜水艇の「海竜」、人間機雷の「伏竜」、ほかにもモーターボートやグライダー、小型ジェット機など多種多様なものがあったらしいのですが、いくらアホ気なやけくそ戦法が横行したとしても、ドラム缶に乗って広大な海でひとりぼっちで待ち伏せとは何ですか、一体?
まさか本当の迎撃手段として実施されたものではあるまいと思いました。
ですが、こんな馬鹿げた作戦すら、もしや本当に行われたのでは? と思わせるところがあの戦争における日本の実態で、そういう意味で、この戦法が創作上のものとして考案されたものならば、岡本喜八は本当に凄いと思いますよ。
演習訓練として映画でも登場した挺身切り込み戦法としての対戦車に爆薬を抱えての突撃というのは実際にあったように思いますが、あれにしたって、何にしたって、総て攻撃の体をなしているでしょう?
波間に浮かんで、いつ来るとも知れぬものをただ待って、そのまま忘れられ、見捨てられるなんて攻撃じゃありませんよね。
単なる野垂れ死に。見事なまでに強烈じゃありませんか。
魂の崇高な若者たちに、その野垂れ死にをさせたのがあの戦争だったんですよね。
波間を漂っているアイツの姿に涙が滲みました。


お茶
まったくです。(と大きく頷く)
その野垂れ死にを野垂れ死にとして把握することと、野垂れ死にした人を忘れないということが、戦争を絶対しないという気持ちにつながります。そし て、戦争で死ぬ人が無くなってこそ、戦没者の死を無駄にしなかったと言えるのだと思います。


ヤマ
そのとおりです。


お茶
誰か作家だったと思うのですが、広島の原爆の碑に「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから。」と書いてあることに対して、「安らかに 眠れるわけが無いではないか」と言っていました。(書いていたのかも。もしくは又聞きかも(^^;。)
その作家の言うとおり、アイツも安らかに眠れやしないですね。ドラム缶の中で叫び続けている。しかも、数式の呪文とともに、出遭ったいろんな人の 名前を繰り返し呼び続けている。これは「忘れるなよ」「忘れてくれるな」というメッセージですよね。でも、この悲痛な叫びも、浜辺で戯れる人には届かない(涙)。
浜辺で戯れる人たちは、アイツの叫びに聴く耳を持たない、現在の私たちの姿ですね。浜辺の人を描いたことが、この映画を完璧なものにしたと思いま す。


ヤマ
全く以て「参りました!」のラストでしたね。
この悲痛な叫びが、それとは全く相反するトーンの音楽によって、全編に渡って効果的に悲痛さを際立たせているのが見事です。


お茶
『火垂の墓』(こんな漢字だっけ?)といい『肉弾』といい、昔の話に終わらずに現在につなげているところがポイント高いですよね。


ヤマ
これだけの作品を撮り上げて、こんなところで抜かりをするはずもないと納得の、しかし、強烈な駄目押しでしたね。
僕がA上などという評価を伊達に賦与したりしませんよ(笑)。←偉そう!


お茶
ヤマちゃんは、定点観測というか、評価基準にぶれがないですから、最高評価にもかなりの価値があると思います。
仮にヤマちゃんが最高点をあげなかったとしても、私が120点をあげていました。えっへん!(笑)
ところで、アイツは終戦まで生き延びていましたね。
これについて、作り手の意図は何かありますか?


ヤマ
アイツが終戦まで生き延びていたことの意味は、国にとって意味があるのは、戦争中の兵士であって、戦争が終わってしまえば何の存在価値もなく、捨てられ、忘れられる存在であるということを際立たせる意図があったと思いますね。国にとっての戦争は終わっても、個々人にとっての戦争は終わりなく死ぬまで続くものなんだ、戦争は終わってやしない、そんな戦争というものを二度と新たに始めちゃいけない、そんなメッセージがひたひたと押し寄せてきました。


お茶
なるほどぉ。
従軍慰安婦や被爆した人、『ゆきゆきて神軍』に登場した人とか、個人にとっては終わっていませんね。


ヤマ
それにしても、やはり大した作品です。
もう何か月も経ているのに、昨日今日と映画の終盤については、綴っているだけでこみあげてくるものがありました。


お茶
お、正直に告白ですね(^ー^)。
実は私も、ラストシーンを書くに及んでは涙が滲んできました。
二人とも涙をこらえて書いたわけだ(笑)。


ヤマ
いろいろ問い掛けてもらったおかげで、自分だけではきちんと顕在化できずにいた作品の細部に対する思いを言葉にする機会が得られて、個人的にも非常に有意義でした。


お茶
こちらこそ、引っかかっていたところを読み解いて聴かせていただき、『肉弾』を骨までしゃぶった気がします(笑)。


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  1. 「そんなの聞いてないよぉ」体験: この対談に先立って、ヤマちゃんは映画の伝道師(?)としてラジオに生出演した。この時、リスナーからファックスで届いた質問に突然答えさせられるハメになり、冷汗タラタラ内心オタオタ、相当心臓に悪い体験をしたらしい。 もどる

  2. 「身から出た」: お茶屋の造語。お茶屋は、ヤマちゃんの映画評の中で、めずらしく本人の体験に基づいて述べられたと思しき感想を発見し、「これは身から出た感想であろう」と図星を突いたつもりが、ヤマちゃんに、それほど「身から出た」ものではないと、いなされたのだった。
    それでも、この言葉は「本心から出た」という場合よりも、一層生々しい真実味を表現するのに勝手がよいようである。 もどる



ヤマちゃんのシネマノートをもっと読みたい人は

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2001/01/27


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