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■鬼の対談>川の流れのように



 
今回は予想外の感動作についてヤマちゃんと数回に渡りやり取りしたEメールを対談風にまとめてみました。



 
ヤマちゃんのシネマノート『川の流れのように』

最初のほうこそ、田舎に生まれ育った老人たちの言葉に土地の訛りというものが全くないことに違和感を覚えていたが、軽やかにテンポよく場面やエピソードを盛り込んでいく脚本の運びの巧みさにうまく乗せられていった。冒頭からして、葬列に遭遇してバスを一時停止させた運転手が制帽をとって黙礼する姿と主人公が座席で色の入っためがねを外すことがタイミングよく呼応しており、このバスのシーンで印象づけた林檎がその後もきちんと意味をもった形で扱われて登場するなど、実に丁寧に書き込まれた脚本だ。作詞家として世に出た監督が脚本に加わっているからか、言葉への感性が窺えるようなフレーズや台詞に溢れていて、あざとさに陥る一歩手前で見事に踏みとどまって、決して刺激的ではない穏やかさではありながら、最大限に情緒を揺さぶってくる。思わず、流れる涙が止まらなくなったりした。
 それにしても、年輩の日本人の顔やちょっとしたときの表情を主人公だけでなく皆が皆という形で、こんなにも美しく魅力的だと感じさせてくれた映画は、あまり記憶にない。なかでも田中邦衛は、ときに鼻につくことも多い、癖のある演技が今回は絶妙のバランスで、彼のキャリアのなかでも出色のものとなったのではなかろうか。
 生きる喜びを率直に描くことで「生きるということは、ただ生き長らえることではなくて、命の輝きを絶やさないことなのだ」と優しく力強く訴えてくる映画であった。人間が年輪を重ねることで老い以上に美しさやかっこよさを実現できる可能性というものを希望として感じさせるだけの力を持っていたように思う。

 そのような、今という時間の掛け替えのなさに対する不断の認識こそが呼び起こす命の輝きというものを描いていたり、迫り来る死期を前にして主人公が無伴奏で唄を歌ったり、という点で、黒澤明監督の『生きる』を思い出させる映画でもあった。『生きる』で強烈に描かれていた老人の絶望と孤独や己が生への悔悟といったものは、この作品でも主人公以外の老人たちのなかの諦観として始めのほうで触れられていたし、命の輝きのもたらすものが生きる喜びであることも共通している。しかし、ちょうどネガ・ポジのように正反対の関係になっていて、必然的に映画を観た後に残るものは違ってきた。
 その違いをもたらした最大の理由は、『生きる』の渡辺課長(志村喬)には自分の命を燃やして残した公園はあっても、周囲の生きながらにして死んでいる多くの人の命自体も輝かせたわけではなかったのに比べ、この作品の百合子(森光子)は、病院の待合で溜まっているしかなかった、幼なじみの老人たちのしょぼくれた命に輝きを与え、果てには岬の町までもが変わっていく予感を残していったという違いである。ペシミズムに色濃く支配された『生きる』とメルヘンさえ感じさせるオプティミズムに根底が支えられていたこの作品がネガ・ポジの関係にあるというのはそういう意味だ。
 それにしても、最後に残したフィルムのなかで、森光子が歌っていた「川の流れのように」は圧巻だった。志村喬の歌った「ゴンドラの唄」に優るとも劣らない強い印象を残している。万感込み上げ、涙声に崩れそうになるほどの感情を湧出する演技力もさることながら、崩れまいと呼吸を整え区切りながら歌い続ける百合子を演じてなお、込み上がってくる感情自体は完璧に持続させていたのは、見事というほかない。その歌いっぷりには、女流作家広沢百合子となったサキちゃんの気丈さが、再会した幼なじみへの感謝と彼らに今生の別れを告げなければならない辛さや淋しさとをやさしく美しい情感に整えて歌にしていることがありありと窺えて、ぐっと身に沁みた。そして、それを見守る一平(田中邦衛)、哲司(いかりや長介)、時夫(谷啓)、ユキ(久我美子)、しんこ(菅井きん)、よね(三崎千恵子)もみんな素敵だった。
 '00. 6. 3.   あたご劇場


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というシネマノートを読んで・・・・


お茶屋
(以下、お茶)
ヤマちゃん、シネマノートありがとうございました。
『川の流れのように』はどうしようかと思いつつ、パスが濃厚になってきた ところへ、このシネマノート。
う〜む、ヤマちゃんを泣かせた映画を観てみねば!
でも、今週でおしまいなんですよね。残念ですが、観られそうにありません。

ヤマちゃん
(以下、ヤマ)
それは残念。もう一足早く行っといて、土日に間に合う報告をすべきだった ね。
僕の周囲でも、作詞家ごときの秋元康の・・・とか、美空ひばりをだし に・・・とか、むかし量産されたB級歌謡映画のイメージで観られて、食指 をのばさない向きが多いようでしたが、僕は予告編を観たときに、いい顔してるじゃないと気になっていたのでした。


と見逃しそうなお茶屋であったが・・・


お茶
ヤマちゃん、時間休を取って観てきました!

ヤマ
エライぞぉ。

お茶
でしょう(^^)。
よかったので友達にもすすめましたよ。
感動作でしたね。「生きているうちは生き生きと生きよう」というメッセー ジはお年寄りだけでなく、若い人にも送りたいものだったんでしょうね。だ から、タッキーの登場となるわけでしょうけど、彼を活かしきれていないの が残念なところでした。

ヤマ
人寄せパンダと割り切っていたのではないでしょうかね。功を奏しなかった けど。
うちの奥さんも「あの役タッキーじゃのうても誰でもよかったがやない?」 とこぼしていました。
チラシでは上下二段で上が森光子、下が滝沢君と大きくクローズアップされていて、宣伝では彼を前面に出して世代間交流のようなものがメインになっているような印象を与えながら、本編は全く違っていました。上下二段で役者をクローズアップするなら、どう考えても滝沢君のところは田中邦衛ですよね。


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嵐の海に乗り出す勇気


お茶
舞台が伊豆らしいのですが、日本海側の雰囲気がしたな〜。
嵐の海に出ていくことを本物の漁師さんが観たらどう思うかしらとも思いま した。

ヤマ
そういう(嵐の海に出ていく)ことが全くできなくなったのが僕も含めて彼 らの次の世代から後の今の日本人なのだと思います。
善し悪しは別にして、アメリカ映画に脈々と流れている誇らしく男らしい気 風の教宣は、徴兵制とかの問題もあるけれど、現実に『エニイ・ギブン・サ ンデー』のような映画が誕生する土壌をいまだに現実のものとしているよう に思います。まして、生きながら死んでいたような老人たちにとって、さし て惜しくもない余生(嵐の海に出ていく決意をした瞬間に限って、きっとそ のように思っていたのだろうと推察できるのですが)を賭けても意味のある 危険を冒すことに躊躇はなかったのではないでしょうか。

お茶
なるほどね。
この映画の趣旨としては、「惜しくもない余生」と思ってもらっちゃ困ると ころですが、「嵐の海に出ていく決意をした瞬間に限ってそう思っていた」 というのはわからないではありません。
私は哲っちゃんが「惜しくもない余生」と思っていたとは、その時あんまり 感じなかったのですが・・・・。

ヤマ
「哲っちゃんなら、大丈夫だ!」と言われて海の男の誇りと自負を刺激され、自分の孫のために船を出すことに、観ていてドラマチックなものは感じても、さして違和感はありませんでした。

お茶
そうそう、「海の男の誇りと自負を刺激され」たんだと思いました。
それと残された選択肢は船だけだということと、人の命に匹敵するのはやっぱり人の命だから、嫁と孫を救うため嵐の海に出るという危険を冒すことには展開として異存はないところです。
(これは余談ですが、人命救助には反射的なところがあると思います。例えば溺れている人を見つけて、即水に飛び込むようでないとなかなか助けられないと思います。迷いがあると迷い続けると思う。人を呼ぶくらいのことはすると思いますが。私自身は多分、迷うというか躊躇すると思うな〜。だから、私の前で溺れないでね(笑)。)

ヤマ
(「人命救助には反射的なところがある」というのは同感です。人命でなく てもね。)
嵐の海に出て行く場面は、サキちゃん(=百合子)の父親が網元として村人を漁に出し、大事故を招いたときに残された子ども達である彼らが、当時海に出て行った親たちの心情を追体験するわけですよね。それは、百合子との間にあるわだかまりの解消に説得力を持たせるためにも、必要な場面でした。
そういう意味で船を出した哲司(いかりや長介)とそれに同乗した時夫(谷啓)が、夜の桜の木の下で記念写真を撮りながらも、百合子があのサキちゃんで網元の娘だったと判ってその場を立ち去った顔ぶれであったこと、彼らの船出を見送りながら、「あのときもきっとこうだったのよねぇ」という台詞を発するのが同じくその場を去ったしんこ(菅井きん)であったことは、大事なところです。

お茶
でも、「あのときもきっとこうだったのよねぇ」というセリフのためのシー ンだったのだとわかってしまうのが私は残念でした。
平たく言うと、わざとらしい・・・・(^^;。ごめん。

ヤマ
このセリフは、ある意味で娯楽映画のお約束ごとというようなものではあり ます。
それをしないわけにはいかないのですが、大事なのは「わざとらしい台詞」とか「脚本の展開上のご都合主義」に見えるのか、ということです。

お茶
まあ、「いかないでぇ!」と言うしかないんだろうなとは思います。
「あの時もこんなんだったんだね。」というのは、言わなくてもわかる部分 なのでわざとらしい気がしたのかな〜?>じぶん
いずれにせよ御都合主義ではないですね。

ヤマ
僕には、こういったお約束ごとをきちんとふまえたうえで納得のいく展開だ と思える形にしてくれていて、わざとらしさやあざとさに陥る一歩手前で踏 みとどまっていると思えたので、脚本と演出をほめたのでした。


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お産シーンの必要性はありや、なしや


お茶
お産がらみのシーンはいらん様な気もするけど。

ヤマ
特殊技能を持った人でなくても、昔の人たちは自分たちが生きていくために自分自身で事態に対処する能力を持っていたことを示すネタとして、パターンではあるけれども、もっとも端的なものとして採用されたのでしょうね。
専門化と分業化は高度成熟社会の宿命で、マクロ的には、あらゆることが高水準での処理が可能となったかわりに、ミクロで見れば、個々の人間達から汎用的な能力を著しく奪ってしまいました。自分でできないぶん、人や機械に頼らざるを得ないわけで、そのためにはお金を必要とします。逆に言えば、経済が社会や人間を動かす最も中心的な機軸となってくるなかで、このような意味での高度成熟社会が誕生したのだとも言えます。

お茶
お産のエピソードを入れたのには、そういうことが言いたかったのだろうと 私も思いました。だから、赤ん坊を取上げてめでたし、めでたしかと思って観ていたのですが・・・・。

ヤマ
破水を招いて、正常分娩ではないとなれば対処のしようもなくなり、昔なら 運が悪かったと諦めるしかない事態になったわけです。そこで海の男の出番が来るわけだ!

お茶
私はその展開にあららびっくり。
「昔の人たちは自分たちが生きていくために自分自身で事態に対処する能力を持っていたこと」を言いたかったのはわかるけど、赤ん坊を取上げてめでたしにしないのなら、このシーンは思い切って切った方がよかったと思います。別の理由で哲っちゃんが嵐の海に出ることにしてもいいわけだし。
それほどにあのシーンは取ってつけたような不自然さがあると思いました。
サキちゃんがどうして、桜の木の下で去って行った哲っちゃんの家を訪ねることができたのかわからないし、赤ん坊が生まれるどさくさに、サキちゃんが彼女を拒絶した三人にまぎれて右往左往しているのは、映画としてフェアじゃないような気がします。
それに、お産がらみのシーンを入れるなら、まず、妊婦姿を1、2回観客の 目に触れさせておいてもらいたかったし(見落としていたらゴメン)、さき ちゃんが哲っちゃんの家を訪ねたわけがわかるように描いてほしかったです。これもちゃんと描いていたらゴメン(^^;。
どうして、哲っちゃんの家を訪ねたのですか?

ヤマ
僕は、一平やユキ、よねに声を掛けられて来たのだと思いました。 もはや彼ら四人は、すっかりお仲間でしたモン。

お茶
だったら、3人に声を掛けられたサキが行くのをためらう場面がほしかった ですね。ためらったうえ行く決心をしたことがわかる場面。それがないと、 桜の木の下で哲っちゃん達に拒絶されて「みんなに哀しいことを思い出させてごめんなさい。帰ってくるんじゃなかった。」とそこまで言った人が、い つ気を変えて哲っちゃんの家に来る気になれたのかと思いますよ。

ヤマ
確かに。決心とまではいかなくても3人に後押しされるべきでしたね。

お茶
それに、私には一平とサキが哲っちゃんの家に来てみると、他の仲間も来ていて大騒ぎになっていたという風に見えたのですが、みんなは何のために哲っちゃんの家に集まってたの?お嫁さんが産気付いたから招集が掛かったわけではないでしょう?

ヤマ
僕はそう思っていました。医者にも来てもらえず、どうしようということに なって相談された人から連絡という形で伝わり、一大事だとみんなが集まったのだと・・。


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孫の名前!?船の名前!?


ヤマ
それと、妊婦姿としては出てきてなかったように思いますが、はじめのほう で哲司が海に出すことを息子に禁じられ、処分されようとしている愛船の 手入れをしながら、孫の名前を「小哲」と船の錆止め塗料で船体に書き込んで、見られそうになると慌てて消すという場面がありました。

お茶
えええ!?あれは孫の名前だったのか!(^^;(^^;
船の名前かと思っていました(ぶはははは)。
人手に渡る船にせめても名前をつけちゃるかと・・・・・・(更に笑)。

ヤマ
これはウケました。姓名判断の本まで参照して人手に渡る船に名前を つけなおすかね、普通。
「名前はもう決めちゃってるからね」と息子に素っ気なく言われてたよ。

お茶
船は人手に渡るので、名前は先様が決めちゃってるよという意味かと思ってた。
こんな勘違いする人は、あんまりいないと思うけど、やっぱり妊婦姿を出し てくれていれば一発でわかったのにな〜(^^;。
あのセリフは言わなくてもわかると言ったり、小哲が孫の名前と気づかず妊婦姿を出せと言ったり、困った観客ですね(自覚)。

ヤマ
哲司の初孫はおじいの活躍のおかげで無事生まれて、産科のベッドの壁には「小哲」の名が貼りだしてありました。

お茶
うん。
この期におよんでも、私は船の名前をつけてる〜と思っていました(爆)。 父親に感謝して父の思い入れのある「船の」名前をつけたんだなと。←もはや救いようがない(^^;。

ヤマ
初孫が無事生まれたこのシーンでは、念入りに「結局、力になって助けてくれたのは、親父の友達たちだけだったな」という息子の台詞までありましたよね。

お茶
そうですね。命名の張り紙だけで息子の気持ちは、じゅうぶん観客に伝わるので念入りすぎるセリフだと思います。

ヤマ
でも、こういうのが必要な観客もいるのです。
しかし、大概の場合、そういう観客に必要なことをすれば、必要としない観 客から反発というか蔑みを買うのです。
必要としないものがふんだんに盛り込まれていて、なおかつ必要としない人たちから許容されるというのは、かなり珍しいことなのです。
このきわどいバランスに踏みとどまる技というのは意図して叶うものではな いという気がします。幸運でしたね。


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"臭み"も味のうち


ヤマ
それにしても、こういうのを見るとそれだけで、ある種のパターン的反応と して「くさい」とか言ったりする輩がいますが、くさいかどうかは形式だけ で外形的に決まるものではないことに想像が及ばない感受性の貧困さを感じます。

お茶
「形式だけで外形的に決まるものではないことに想像が及ばない感受性の貧困さ」って?
意味がちょっとわかりにくいので解説をお願いしますm(_'_)m。

ヤマ
くさいという印象を与えるのは、見飽きたような陳腐な表現であったり、過 剰な思い入れが空疎な大仰さでしかない表現に対して感じるように思うのですが、陳腐さとか大仰さとかいうのは外形的に見ただけで判別できますよね。
でも、本当は内容に見合っているかのほうが重要です。
場合によっては、これだけ陳腐で見飽きた表現がこんなに新鮮に見えるのかという驚きを与えることさえありますよね。大仰さがちっとも白々しくない迫力になっているとか。
でも、時々見受けられる批判において内容とのマッチング抜きに形として登場しただけでもって直ちに「くさい」ものとしてラベリングしてしまう向き があるように思うのです。
こういうシーンや台詞は、出てきただけでもう駄目とかね。
まぁ、それも好みなのだから仕方のない話なんだけれど、なんていうかなぁ、匂いをかぐ前に見ただけで臭いと感じているのじゃないかという気もして妙に違和感があるのです。
そんなふうに思うのは、一見臭そうでも嗅いでみると敢えて臭いと非難するにはあたらないと思うものに、そのように言う人がけっこういるからです。 せっかく観るのなら、もう少し柔軟に丁寧に観てあげたらどうかなぁという 感じ。
他人がくさいと言ってるのを聞いて、そんなふうに思ったことありません?

お茶
う〜ん、確しかにそういうことはありますね。自分のことは棚に上げて言っ てるんですけど(笑)。
ただ、この映画が臭くないかというと十分くさいですよ。
どんなところにくささを感じたかと言うと、冒頭でバスに乗った百合子と姉 の遺影を持つタッキーの目が合うところ。普通ならタッキーの視線は下を向いたままでしょう。
それから、タッキーが百合子さんのところへ「洗濯物が飛ばされていた」と 言ってわざわざ拾って持ってきてくれるのですが、それが山ほどの洗濯物で「こんなにいっぱい飛ばされてたの?」と思いました。タコの足に残っているのが靴下だけなんて、それならついでに取り込んでくれたらいいのにと、よけいなことまで思ってしまった(笑)。
まだまだ、あるよぉ。突然現れた近藤雅彦の一言とか。
こういう風にところどころ、説明のし過ぎのところが見受けられるのですが、娯楽映画なのですべからくわかりやすく明快にという趣旨だろうと思い、また、映画作りのつたなさがあるかもしれないとも思い、それをいちいちあげつらうのはせっかくのよい作品にひどく酷だと思いました。だから、うえの二つのセリフ(「あのときもきっとこうだったのよねぇ」「結局、力になって助けてくれたのは、親父の友達たちだけだったな」)にしても「なくてもいい」、「あるとわざとらしい」と言うのは本当に重箱の隅をつつくような ものですね。
それで何が言いたいかというと、この映画は全体としてはくさくなく、たい へん後味がよい感動作に仕上がっていますが、くさいところが無いかというとあるでしょうということです。ただし、このくささが傷になっていないの で、よいのだと思います。

ヤマ
そもそも「くさい」というのが直ちに悪いでしょうかね。食べ物も同じでく さみ」がたまらないものやくさくてもうまいということで、貴女もお書きに なっているようにくささが傷にならない食べ物ってありますよね。
それを臭いからと言って食べようとしない人は、それはそれでどうぞとは思 うけど味を知っている者からすれば、ちょっと気の毒な気もしたりしてね。
まして、くさいがくさいにとどまらず、くさいゆえにまずいと言われると、 ちょっと憤慨してしまいますよね。ちゃんと食ってから言ってるのか!って。


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歌謡曲パワー、ここにあり


お茶
一番好きなシーンは、お墓にりんごをお供えしてあるところ。私は早くもそ こでうるうるきましたが、多分、なんかしら百合子さんの思いが伝わってき たのだろうし、絵的にもかなりいい線いってたからだと思います。
大滝秀治の使い方とか、うまいですね。年寄り俳優もそれぞれ個性的でいいし。演出も手堅い。
「川の流れのように」を歌っているのを一人一人アップでとらえていったの もよかったですね。あれがなかったら、歌を長く感じて途中で涙が止ってい たかもしれません。

ヤマ
あれは、さすがに長かったですよね。切るに切れなかったのでしょうね。
でも、森光子の歌は、心を鬼にしてもう少し短く切るべきだったと思います。
フィルムに残された彼女の歌う姿を見守る一人一人のアップが辛うじて許容させてはいても、ほぼ観た人の総てに長い!と感じさせるはずで、それでは演じた森光子の本意ではなくなるように思います。でも、フルコーラスで勝負するぞという作り手の挑戦を破綻に終わらせない工夫として、フィルムに残された歌う姿を見守る幼なじみというアイデアは、それでパーフェクトというわけではなかったけれど、功を奏していました。

お茶
この映画がなかなかよかったので、何か手ごろな歌をピックアップして、そ の歌詞を生かしたストーリーでもって映画を作ってほしいな。名づけて「歌 謡曲シリーズ」(笑)。
この映画があんまりヒットしてないみたいだからシリーズ化は無理だろうけ ど。
むかし、薬師丸ひろ子が「夢で叫んだように唇は動くけれど、言葉は風になる、すきよ、でもね、たぶん、きっと・・・・」と歌っていて、「すきよ、でもね、たぶん、きっと」のところが「なんじゃこりゃ〜」な歌だと思っていたのです。その歌を主題歌にした、薬師丸ひろ子が松田優作に恋をする『探偵物語』を観て、歌詞の意味がわかって感動したことがあったのを思い出しました。
ショーン・ペンもブルース・スプリングスティーンの歌に触発されて『インディアン・ランナー』を書き、監督もしたことだし、「歌謡曲シリーズ」、いいと思いませんか?

ヤマ
むかしは、歌謡曲で大ヒット曲が出れば、必ずと言ってもいいほど同名の映画が製作されていたようです。まさしく歌謡曲シリーズですな。そのなかでは随分粗製濫造も起こったようです。なにせ歌がヒットしてから、企画に着手し、そのヒットがまだ話題性として残っているうちに公開しなければならないのですから、製作側にとってははなはだ過酷な企画でした。今のように流行歌のサイクルが早くなってしまうととても叶わないですよね、むかしでも粗製濫造でしたから。そういう伝統があるために、この映画が映画ファンに見向きもされなかったような気がします。
ヒット曲という視点ではなく、貴女が例示されていたような、作り手の曲へ のこだわりといったものが動機となった製作が企画として認められるといいのですが、流行ものの歌をモチーフとする場合、その鮮度というものは必ず問題にされるのでしょうね。その点、この映画は、むかしの歌謡曲シリーズとは異なるスタンスで制作された企画だったから、とてもいいものができたのだろうと思います。

お茶
歌謡曲に意味合いを持たせた既存の映画をさがすのもまた、面白いかもしれませんね。


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ラブシーン


ヤマ
ところで、一平と百合子が彼女の家で二人だけで語り合うシーンはどうでしたか?

お茶
恥かしかったっす(^^;。

ヤマ
直球ですね。

お茶
もっと、何か言わなきゃだめかな?
ヤマちゃんがいうとおり、田中邦衛は臭くなかったし、二人だけのシーンで も二人とも初々しくて、その初々しさが恥かしいラブシーンでした。
ヤマちゃんはどうでしたか?>このシーン

ヤマ
実は僕も「うへぇ」と恥ずかしくなったのですが、観ているうちに恥ずかし さを掻き消されて、その気にさせられてきて、その演出と演技力に感心を させられたのでした。僕が最初に感じた恥ずかしさは、貴女が言うような 初々しさが恥ずかしいといった好意的なものではなかっただけに「お見事!」と脱帽した次第です。
結果として残ったものは、まさしく貴女がおっしゃるような清やかな初々し さで、生臭さを微塵も漂わせないところにさえ素直な共感を誘うという点で も、この歳ならではの部分を活かした印象深いシーンでした。

お茶
同感です。この年代ならではでした。

ヤマ
この場面に対しては、ホントにこういう歳の取り方をしたいものだと思いま すモン。

お茶
私は消火器を担いで港開発の説明集会へ乗り込むのがうらやましかったです。

ヤマ
同感です。何とも楽しそうでした。
生きることを楽しみ始めたことが伝わってきましたよね。

お茶
でも、あんなことしたらいかんよね〜(笑)。
それにしても齢を重ねた俳優がたくさん出演した映画って、『コクーン』く らいしか思い浮かばないのですが・・・・。「たくさん」と言わなければ 『八月の鯨』や『黄昏』とか探せばあるかな。
『ストレイト・ストーリー』が公開されることだし、HPで老齢俳優特集で もやろうかな(笑)。

ヤマ
出来で言えば、先日、あなたが絶賛していた『トイ・ストーリー2』のほうが多分上だろうと思いながら共感がこちらのほうに傾いてしまうことで、確実に自分が老いの側に身を寄せてきていることを思い知らされてうろたえ気味の私でした。

お茶
ある年齢になって初めてわかる映画もあるもんね。
『ベニスに死す』は高校生の私にはさっぱりでしたが、20歳を過ぎたらわ かった(涙)。
高校生のときはルノー・ベルレーの気持ちで観ていたのに、いつしかナタリー・ドロンの側になっていた。>『個人教授』
よく若い頃に帰りたいと言う人がいますが、私は若い頃を二度生きるより、 0歳から100歳を一度の方がいいなぁ。99歳まででもいいけど(笑)。

ヤマ
悔いの少ない生き方をしてきている証拠で何よりです。
あるいは、よっぽど情けなく恥ずかしい青春を過ごしているのだったりして。
僕は、どちらかというと後者かなぁ。いや、そうでもないか。
いずれにしても、もう一度というのは、できないからこそ思うのであって 実際に試みるとなると、やっぱ、おっかないですよね。
一回目よりうまくいかなかったら、馬鹿みたいだしねぇ。


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2000/07/10


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