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■かるかん>あずみ|めぐりあう時間たち |
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あずみ 刺客はつらいよ |
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監督:北村龍平|原作:小山ゆう あずみ:上戸彩|なち:小栗旬|ひゅうが:小橋賢児|うきは:成宮寛貴|あまぎ:金子貴俊|ながら:石垣佑磨|美女丸:オダギリジョー|やえ:岡本綾|井上勘兵衛:北村一輝|爺:原田芳雄|加藤清正:竹中直人|佐敷長兄:遠藤憲一 |
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しとしとピッチャン、しとピッチャン、涙隠して人を斬るというのは、「子連れ狼」の歌ですが、斬りたくなくても斬らなければならない刺客の「定め」「宿命」というのは、実に泣けますなぁ。この点がちゃんと描かれているので、胸に迫る娯楽映画となっていると思います。←ここが一番のポイント それから、キャラクターが皆立っていますわ。遠藤憲一、傑作(笑)。オダギリジョーは演じていて楽しかったでしょうね。その他の人も皆いいので、日本の俳優もいけるじゃんと頼もしく思いました。 最新技術を駆使した(?)映像もよかったです。むにょむにょぉ〜とか、ぐるーんぐるーんとか、この視覚体験は面白かった! 呼び物の200人を相手にしたシーンは、残念ながら期待していたものとは違っていたし、その他のアクションは雑然とした感じがしたけど、スピード感とスローモーションでの決め決めポーズがいいね〜、いいね〜と思いながら見ていました。気に入りましたぞ! 高知東宝2 2003/05/14 |
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めぐりあう時間たち 日々是生きるということなり |
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THE HOURS 監督:スティーヴン・ダルドリー|脚本:デイヴィッド・ヘア|原作:マイケル・カニンガム|音楽:フィリップ・グラス ヴァージニア・ウルフ:ニコール・キッドマン|ローラ・ブラウン:ジュリアン・ムーア|クラリッサ・ヴォーン:メリル・ストリープ|リチャード:エド・ハリス|キティ:トニ・コレット|ジュリア・ヴォーン:クレア・デインズ|ルイス・ウォーターズ:ジェフ・ダニエルズ|レナード・ウルフ:スティーヴン・ディレイン|サリー:アリスン・ジャニー|ダン・ブラウン:ジョン・C・ライリー|ヴァネッサ:ミランダ・リチャードソン|リッチ−・ブラウン:ジャック・ロヴェロ |
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おもしろい。実におもしろい映画ですね〜。多分、あらゆるものに意味のある映画でしょう。何が何を意味するのか、何と何がどうつながっているのか、そんなことを全部書き切れたら気持ちいいだろうなあ。でも、私にはそんなことは出来ないので、ざっくりと(笑)、かつ、ネタバレで行きます。 まず、書きやすいところでは俳優です。俳優は、本当に全員素晴らしい。素晴らしい俳優のおかげで、登場人物が言外に言いたかったこと、言えないことなど、様々な思いが伝わってきます。たとえば、リッチー。子どもだから自分の気持ちを言葉で表すことはできませんが、彼の表情を見ているだけで、情緒不安定な母親の影響をどれだけ受けているかわかって胸が締めつけられる思いがしました。 それから、ニコール・キッドマンには謝罪をm(_'_)m。きれいなだけかと思っていたら、演技力あるじゃん。私は彼女の美貌に目がくらんでいたようです。申し訳ありませんでした。 演技のハイライト場面ではないかと思ったのは、ローラとクラリッサの対面シーン。ここではメリル・ストリープが、凄みのある受けの演技で、一言では言い表せない複雑な思いを見事に表現しています。このストリープの表情があるため、私はダロウェイ夫人的な3人の女性の中でも、クラリッサがもっとも重荷を背負ったダロウェイ夫人だと感じました。 「ダロウェイ夫人的」とは、どういうことかというと、不安、焦燥感、絶望感などを感じながらも1日をどうにかこうにか生き延びることです。生きるというのは、結局、そういう1日(時間)の積み重ねだというのが、ダロウェイ夫人自身の結論だったと思います。(「ダロウェイ夫人」はヴァージニア・ウルフの小説で、私は読んでいませんが映画で観ました。映画の最後では、ダロウェイ夫人がモノローグで「明日の次には、また明日」というようなことを言っていたような気がします。映画は内容としては濃かったのでしょうが、作りとしては軽くて物足りない感じでした。でも、それなりに味わいがあったかもしれません。) 『めぐりあう時間たち』は構成も面白かったですね。異なる時代に生きる3人の女性の、それぞれのエピソードが絡みあっているのです。たとえば、ヴァージニアが、執筆中の小説(「ダロウェイ夫人」)の主人公を死なせるのはやめて、詩人を死なせることにしたと言うと、30年後の世界ではローラが自殺を思いとどまり、80年後の世界ではクラリッサの友人で詩人のリチャードが死にます。 また、ヴァージニアは夫に「なぜ、登場人物を死なせるのか」と訊ねられて、「生きること(の重さ)と対比させるため」と答えます。この生と死の対比は映画にそのまま生かされていて、『めぐりあう時間たち』の作り手は、ヴァージニアの自死を描くことによって、クラリッサの友人の死と合わせて二重に生と死を対比している構成となっています。 おかげで私は、クラリッサの友人の重い死と、愛する友を亡くしても明日がまた来るという重い生に胸が詰まりました。そのうえ、ヴァージニアの小説の主人公は、姿を変えて今も生きているのに、彼女自身は死を選んだということに何とも哀しい気持ちになりました。 おしまいに、セクシュアリティについて。 同性愛者、異性愛者、両性愛者は、その間に境界線を引けるものではないかもしれませんね。主人公の3人の女性のセクシュアリティは、この映画の隠し味(別に隠してないけど)になっていると思います。結構重要なところじゃないかなあ。 また、ローラは、子どもは欲しくなかったみたいですね。子どもが欲しいけど産めない女性、子どもが欲しくて人工授精で産んだ女性が登場したところに現代性を感じました。 鬼の対談のめぐりあう時間たち(1)とめぐりあう時間たち(2)も是非、お読みください。 高知松竹1 2003/05/17 |
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