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パッション
肉と血
THE PASSION OF THE CHRIST
監督:メル・ギブソン(2004年/アメリカ、イタリア/127分)
イエス:ジム・カヴィーゼル|マリア:マヤ・モルゲンステルン|マグダラのマリア:モニカ・ベルッチ|ヨハネ:フリスト・ジフコフ

残酷描写が凄まじいという噂に恐れをなして見に行かなかった作品ですが、初代@大河浪漫を愛する会の大倉さまが絶賛されていたので見ることにいたしました。

吐き気と美
うう、噂にたがわぬ残酷描写に吐き気が〜〜〜。しかーし、人物が美しいのです〜〜〜。茨の冠が額に食い込み顔面血だらけのイエス。殴られた右目はお岩さんのように腫れています。宗教画を美しいと思ったことはありませんが、この痛々しい顔のどアップは絵のように美しいと思いました。ギブソン監督、カヴィーゼルの左目だけでも残してくれてありがとう!
また、ゴルゴダへの道行きを、陰に日向に付き従って見届けようとする三人の美しいこと。マグダラのマリアのモニカ・ベルッチ、やっぱりこの顔好きです〜。ヨハネ役の人、誰、誰、誰?美しー!(ハート)とまあ、俗人丸出しで見ておりましたが、聖母マリアの美しさに関しては、もう何と言っていいのやら。わが子が鞭打たれ、瀕死の状態で重い十字架を背負わされる姿を、その場にいる誰よりも見たくないはずですが、誰よりもしっかりと見ずにはいられない。そして、ときどき自分が何をしているのかわからない放心状態に陥ってしまう。その表情には、さすがの俗人もミーハーする余裕はなく、見入っておりました。

母子物語
このように母の愛情には胸を打たれますが、息子の母への愛情までも描かれているのは、この作品ならではの特徴だと思います。
テーブルを作る回想シーンで、母子の睦まじい様子が描かれているのはもちろん、鞭打たれ「もうだめだ」と言うときに母と目が合い、そのため力を振り絞って責め苦を再び受けるというのも愛情描写だと思います。母から愛されている(見守られている)のだと感じて力を得るのは、イエスに母への愛情がある証拠だと思うのです。
また、福音書で「私はあなたの息子ではない」というイエスの言葉を読んだとき、天命があるため親を顧みる余裕がないにしてもあまりな言葉、冷たい親不孝者、傲慢な預言者と思ったことがありましたが、それは私の読み込みの浅いところだと、この映画でわかりました。
「自分はもう死ぬから、あなたの息子ではいられない。ヨハネを息子と思って頼ってください。」という、たいへん母思いの言葉であったのです。

磔になるしかない
福音書の中ではユダヤ人がイエスを殺したことになっていますが、この映画を見ているとユダヤ人に限らず衆愚こそが無実の者を磔にしたと思えます。ユダヤ教の大司祭カヤパにとっては、イエスは邪魔者(今で言う思想犯(?)。今ならアムネスティの支援の対象(?)。)。でも、その他大勢にとっては、「よく知らないけど悪いやつらしい」くらいの認識なのではないでしょうか。「よく知らないけど、おもしろそうやから、やってまえ!」くらいの乗りで、「磔、磔」と叫んでいたのではないかと思います。
これはもう、洋の東西、時代を問わず、多少の考えのある人なら、自分も衆愚の一人であると胸をはって、あいや(汗)、もとい、恥を忍んで(これもオーバーか(笑))、認めるのではないでしょうか。こういう人間のアホさ加減は、罪深いです。だって、無実の人を死なせてしまうわけですから。
それで神は、人間がどれだけアホか知らしめるため、イエスを犠牲にしたわけです。神の計画では、イエスの殺され方が、むごければむごいほど、いいのです。残酷なほどに人間は「うちらが、アホなばっかりに……」と自らの罪深さを反省するという寸法です。神の計画でなければ、ヘロデ王じゃないけれど、奇跡がおこせるのだから縄抜けでもして逃げたらよかったのです。
鞭打たれたイエスが石段の上で立っているとき(民衆は「磔、磔」と叫んでいるとき)に、ピカッと閃いた「衆愚=原罪。こりゃもう、磔になるしかない。」という思いを、文章にすると上記のようになりました。同様のシーンがある『ジーザズ・クライスト・スーパースター』では閃かなかったのにな〜。『パッション』の、より強力なリアリティのなせる業でしょうか。

ギブソン監督
キリスト教において、十字架が意味するものは、「イエスの犠牲=人間のアホさ」でしょうか。この映画を見て、そう感じるようになりました。
キリスト教徒は、十字架を見るたび、イエスの犠牲を思い、人間(自分)のおろかさを反省していたのでしょうか。あるいは、人間のおろかさを知らしめるため、自ら犠牲になったイエスに感謝するのでしょうか。
ギブソン監督は、近頃、どうもそうでなくなったような風潮を感じたために、あるいはキリスト教徒たるもの、イエスの犠牲を肝に銘じるべしとの思いで、この映画を作ったのでしょうか。よくわかりませんが。
『ブレイブハート』といい『パッション』といい、骨太のスローモーション多用の肉と血の力作。特に『パッション』については、これほど見応えのある作品はまれですから、本当によくぞ作りました、偉いと思います。

イエス物語のおもしろさについて
イエスの一生は、本当におもしろいです。ドラマッチックやし葛藤があります。『奇跡の丘』(パゾリーニ監督)、『ジーザス・クライスト・スーパースター』(ノーマン・ジュイソン監督)、『最後の誘惑』(スコセッシ監督)など、いずれも見応え十分です。
『パッション』に描かれたイエスの最期の12時間だけをとっても、葛藤だらけ。まず、イエスが、この苦杯を飲むのは避けたいが、父なる神は飲め飲め言うし……とものすごく悩んでいます。イスカリオテのユダは、イエスを裏切ったことを後悔して気が狂います。ペテロは、3回も「イエスなんか知らん」と言った自分を信じられない思いで泣きます。ローマの提督ピラトーは、イエスの無実を知っているので処刑したくない(妻もイエスを救えと言うし、手を汚したくない)のに、大司教と群集に責めたてられて頭を抱えます。
どの人物にスポットを当ててもおもしろいです。時間的には短いスパンですが、大河浪漫的な雰囲気がある作品だと思いました。

DVD 2005/8/15


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