|
■かるかん>今宵、フィッツジェラルド劇場で|善き人のためのソナタ |
|
[←もどる] [すすむ→] |
今宵、フィッツジェラルド劇場で ショー・マスト・ゴー・オン |
ちょっと長いけど、アカデミー賞サイトから引用させていただきます。ロバート・アルトマン監督が2005年に名誉賞を受賞したときのスピーチです。(ちなみに、そのときのプレゼンテーターは、リリー・トムリンとメリル・ストリープでした。) 「私を支えてくれた方々全員に感謝します。映画作りは海岸で砂の城を作るようなもの。友達をみんな呼んで美しい構造物を建てるんです。完成したら一杯やりながら波が打ち寄せるのを見る。すると波が城をさらってゆく。でもその砂の城は記憶に残る。今まで砂の城を40ほど建ててきましたが、ちっとも飽きることがありません。私ほど恵まれた映画監督はいないでしょう。意思にそぐわない映画を撮ったことはありません。映画作りを愛しています。私に世界や人間について教えてくれました。」
『今宵、フィッツジェラルド劇場で』を見終わろうとするとき、波にさらわれる城をグラス片手にしんみりと眺めているような心持ちがしました。美しい光景です。次の城はないと思うと、ちょっぴり寂しい。だけど、フィッツジェラルド劇場でラジオの公開生放送を続けてきた面々が、なじみのダイナーで今度はバスでツアーをしようと話し合っています。終わりは次の始まりだと思いました。そこにはアルトマンはいないわけけだけど。なんとかバスを都合してショーを再開するに違いないような気がしました。
パンフレットを読むと、アルトマンは脚本(ギャリソン・キーラー)にあった天使を削除したかったそうです。この天使は最初、出演者を狙っているらしいデインジャラス・ウーマンとして現れますが、中頃でこのラジオ番組が好きな死者だとわかります。よくわからない登場人物で、登場するときは時間が止まったような雰囲気になって、作品の流れを壊しています。アルトマンが削除したかったというのも道理で、彼女がいなくても作品は成り立つでしょう。 蛇足ながら、ガイ・ノワール(ケビン・クライン)の名前には受けました(^o^)かかか。 シネマ・サンライズ 高知県立美術館ホール 2007/9/14 |
[うえ↑] |
善き人のためのソナタ 真面目人間への贈り物 |
DAS LEBEN DER ANDEREN 監督、脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク|音楽:ガブリエル・ヤレド ヴィースラー大尉:ウルリッヒ・ミューエ|クリスタ=マリア・ジーラント:マルティナ・ゲデック|ゲオルク・ドライマン:セバスチャン・コッホ|グルビッツ部長:ウルリッヒ・トゥクール |
見応えがありました。素晴らしい〜!
冒頭の反体制者に対する拷問と冷酷な仕事ぶりに、好きになれなかったヴィースラーでしたが、あの仕事ぶりは彼の真面目さからくるものだとわかったとき悲哀を感じました。彼は正しいことをしていると信じていたのです。 上司のグルビッツが、ドライマンは安全だと言うのに、なぜ、ヴィースラーは臭うと思ったのか。それは職業的な勘が働いたのではないでしょうか。ドライマンに自分とは異質の自由の臭いを嗅いだのだと思います。東ドイツの体制を良いものと信じていたヴィースラーは、体制維持のため反体制者を刈り取って行くことに使命感を持っていたと思います。だから、臭いのするドライマンは放っておけないのです。
この映画は、色んな対比が効いていて、真面目人間ヴィースラーと野心家グルビッツの、庶民ヴィースラーと芸術家ドライマンの部屋の対比などが印象的です。ヴィースラー自身も無意識に自分とドライマンの生活を対比していたのでしょう。帰宅しての孤独が身に沁みます(涙)。
で、決定的なのは、「孤独な魂に芸術は沁みる」です。ドライマンは敬愛する演出家が自殺したとき、ピアノを弾きます。やるせない思いで弾くピアノの調べが盗聴しているヴィースラーにも聞こえます。このときのヴィースラーの涙は、ドライマンの状況に同調しての涙とも言えますが、ドライマンの状況を知らなくても泣けたかもしれません。音楽にはそれだけの力がありますので。 例の悲劇で幕かと思っていたら、その後のドライマンとヴィースラーが描かれていることにビックリ。ここまで引っ張るかー!と圧倒されました。素晴らしいエピローグとなっていて、真面目人間へのよい贈り物でした。(だけど、真面目人間は、間違いと気づかないかぎり良心に曇りなく真面目に拷問なんかをしていまう怖い一面がありますので気をつけましょう。) 市民映画会 高知市文化プラザかるぽーと 2007/9/20 |
[うえ↑] |
|ホーム|サイトマップ|サイト内検索|リンク自由|byお茶屋(連絡先)| |