22日金曜日のこと、『カノン』についてヤマちゃんの「ギャスパー・ノエの罠」説を聴いて大変おもしろかったのでご紹介します。以下の構成は、まず、『カノン』を観ての私の感想、次にヤマちゃんの罠説、そして、罠説を聴いた後のギャスパー・ノエに対する私の感想となっております。
私の感想
とにかく、あの父親(オヤヂ)の負のパワーの毒気に当てられました。不定期衝撃音にも神経を逆なでされました。しかし、自分にも表には出さないけれど、彼のように憤懣やら暴力性があることを自覚しているので、彼を全否定することもできず観ておりました。そこへもってきて彼は「やってしまった」。娘を犯したうえ殺してしまった。映像(演出)の力もあって、その衝撃たるや相当のものでありました。
ところが、それは父親の妄想だったのです。憤懣やるかたない人生に絶望して、自殺するか犯罪を犯すか、行きつくところまで行きかけたとき、愛する娘の存在に何度助けられたことか。生きていくには、理性とこのような心のより所が必要だ。泣きながら抱き合う父娘を見て、私はほとんど鳴咽状態でした。父親の怨念渦巻くぶつぶつや衝撃音に耐えた甲斐がありました。
しかし、その後がいけませんでした。嵐の後の静寂の中で、窓辺にたたずむ父親は、寄り添ってきた娘の乳房をもみもみしているではありませんか。私はたまらなく不愉快になりました。「ああ、それでモラルの映画と断っていたのか・・・。さっきの涙のシーンはなんだったの?う〜ん、このラストさえなければな〜。」
それで帰りのバスに揺られながらいろいろ考えまして、妊婦に暴力を振るうなんてやっぱり嫌だなとか、ああいう父親の行為(もみもみのこと。)に対して、娘を口が利けず知的障害があるような無抵抗な設定にしたのはずるいとか思いました。んで、白状すると、父親のもみもみがこれほど不愉快なのは、私も既成のモラルに囚われているということか、もっと自由にならんといかんのかな〜とも思いました。更に、この映画は父親だけの主観に沿って描かれた一方的な映画であって、いわば彼のための映画なのだから、妊婦や娘の立場に立ってどうのこうのいうのは、『ディアハンター』をみてベトナム人の描き方がなってないというのと同じじゃないかと思い、もみもみシーンを見て感じた不愉快な思いを合理化したのでありました。
ギャスパー・ノエの罠
さて、そこでヤマちゃんの「罠説」です。
この父親は見てのとおり聞いてのとおり荒みきっているけれど、外面的には身重の妻に暴力を働いた事実があるだけで(本人は赤ん坊を殺したと思っているが実際には赤ん坊は無事だろう)、この程度の荒んだ人間は例外的なものではなく、自分の中にもその種が無いとはいえない。こういう普通の人間と思われる部分を、呪詛のごとき悪口雑言や衝撃音によって救い難いほど醜怪に描き、本来は反モラルであって通常でない行為を救いの場面に持ってきている。
観客は殺人シーンで極限に達した緊張を、清澄なカノンの調べで一気にほぐされて、反モラルな場面にも殺伐とした世界から抜け出したような錯覚を覚えるだろう。このようなギャスパー・ノエのテクニックはたいしたものである。
したがって、観客に対して発せられる「ATTENTION!」の意味は、戦慄の殺人シーンがあることの警告に見せかけて、実は反モラルなシーンを反モラルと意識させずに救いの場面として観客に肯定させる、そういう危険な作品であることの警告ではなかろうか。しかも、警告しておきながら、騙してみせるという意気込みを示したサインだと思うが、これはうがった見方であろうか。
以上、ヤマちゃんのシネマノートと直接聞いた話をまとめてみました。(文責:お茶屋)
その後のギャスパー・ノエに対する思い
この話を聞いて、なんだか無性に悔しくなりましたね。私は先に書いたとおり、妄想シーンの直後、父親と娘が抱き合うシーンに感動しておりますので、ノエ監督の緊張緩和のテクニックにみごと嵌まったわけですから。でも、言い訳すると、この抱き合うだけのシーンは特に反モラルでもないわけで、観客としては実に素直な反応であると自負しております(笑)。
問題はラストのもみもみシーンです。これは明らかに父娘相姦のタブーに触れております。このシーンを不快に思った私はノエ監督の罠に嵌まらなかったのだ!といいたいところですが、「既成のモラルから、もっと自由にならんといかんのかな」と思ったということは、かなりどっぷりとギャスパー・ノエめの罠に嵌まったといえるでしょう(自嘲)。
さんざん悔しがっていますが(笑)、でも、ギャスパー・ノエって、こんな罠を意識して仕掛けられるような頭のいい人なんですか?私はこれ一本しか観たことないのでわからないのですが。「ATTENTION!」は、戦慄の殺人シーンを警告したものなんじゃないかな〜。ただ、気になるのは冒頭で、「これはモラルの映画である」というような宣言があったことなんですよね。だから、ヤマちゃんの説は、あながちうがった見方と言えないかもしれません(半信半疑)。
私としては、仮に「ATTENTION!」が殺人シーンの警告でないとすれば、観客への挑戦というよりも、モラルへの挑戦と思うのですが。「私は反モラルと思われていることを反モラルだとは思っていません。だから、悪く思わないでください。」そういう警告だと受け取った方が、ノエ監督に対して好意的になれます。
もし、ノエ監督が「反モラルな場面を観客に肯定させる自信がある」、「反モラルな場面がやすらぎの場面であるかのように観客を錯覚させてやろう」と思っていたとしたら、私は怒りますよ。そんな観客を騙すようなことをしてはいけません。(だから、警告したじゃないのと言われたらよけい怒るで(笑)。)
『スティング』のような騙しは大歓迎なのですが、『ユージュアル・サスペクツ』のような騙しは私は怒り狂いますからね。『ユージュアル・サスペクツ』をお好きな人はたくさんいらっしゃると思うのですが、私はあの再三出てくる、物陰に何者かが潜んでいるかのようなカットにすっかり騙され、観客を騙すためだけにそのカットを用意した監督の、芸の無さと心根の貧しさに怒り狂いました。って、要はものすごく悔しかったからなんですけど(^_^;。
しかし、ギャスパー・ノエ罠説が本当なら、その『ユージュアル・サスペクツ』さえ可愛く思えます。ノエは芸があるがゆえに油断ならない。「ATTENTION!」が観客への挑戦だとしたら、こんな監督には心を許さず、これからの作品には大いなる警戒心を持って臨まなければならないでしょう。観客への挑戦が「ゲーム」性のある可愛らしいものなら、その必要はないのですが。
父娘相姦について
蛇足ですが・・・・・。娘が精神的、肉体的、経済的にも自立して父親とまったく対等である場合、愛し合っているなら許せる気がするのですが。つまり、偶然出会って愛し合った男女が実は父娘だったというケース。これって、父娘とわかった時点で別れなければならないのでしょうか?ナスターシャ・キンスキーとマルチェロ・マストロヤンニで、そんな映画なかったですか?
それ以外の場合は、なかなか対等になり得ず、父親が優位に立ったうえで娘を犯す強姦だと思うのでそういう父親は許せません。このような人権的視点に立つと、『カノン』の父親は許すべきじゃないということになりますね。
今回、近親相姦について父と娘についてしか考えなかったので、わざわざ父娘相姦と書いておりますが、いとこ同士というのはどうなんでしょう?『愛の黙示録』というタイトルだったかな?戦後間もない頃の韓国が舞台で、日本人女性が児童福祉施設を運営する実話に基づいた話なのですが、彼女の子供が地元の子供に、日本人はいとこ同士で結婚する犬畜生だとからかわれていました。日本でも大昔は、異母兄弟姉妹なら結婚していたと聞くし、アフリカでは娘の処女を父親が破り嫁に出す部族があるそうだし、モンゴルの遊牧民は近親相姦にならないよう、6代か8代に遡って(うろおぼえ)先祖を確かめ合うというし、近親相姦のタブーって時代やところによって異なるもののようです。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
昨日観てきました。近々、「ただいま上映中!」に感想をアップしますが、予想に反してお客さんがいっぱいだったのでビックリ。一人一人に「なぜ、観に来たの?」と動機を尋ねたくなりました(笑)。
作品はすばらしい。感動しました。