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■ピックアップ>高知映画鑑賞会「ラストショー」(感想編)
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●シネマ・サンライズのガビーさんにお願いして『ギャベ』と『サイクリスト』の感想を書いていただきました。
おまけの『街の灯』の感想は、私が初めて高知映画鑑賞会の上映会へ行ったときのものです。



チラシ『ギャベ』
『ギャベ』&『サイクリスト』

織物としてのギャベの美しさに触発されて生まれたであろう物語。そのまま絵本になりそうなカラフルな映像と、民話的でシンプルなストーリー。映画自体は、ギャベと名のる娘を語り手として、彼女の恋物語に絡んだ叔父さんの結婚の話になったり、母親の出産のエピソードになったり、ギャベに織り込まれた物語を順に見て行くように物語は展開する。そのあたりは、パラジャーノフの映画を思い出させるが、この映画は単なる民族的絵巻きとしては終わらず、入り組んだ仕掛けを持っており、お婆さんが絨毯を洗おうとすると、恋していた頃のギャベが、まるで絨毯の精のように現れて、すでにお婆さんとお爺さんになっているギャベとその恋人の狼の声を持つ若者に、昔の記憶を呼び覚まさせるがごとく、恋物語を語って聞かせるという構成になっている。第三者に語るというのならわかるが、なぜ当事者に聞かせるのか不可解ではあるが、これはマフマルバフ監督の、社会派リアリストとしての視点から来るものではないか。第三者に語れば、作品は詩情ファンタジーとして完結するが、ここで一つマフマルバフには、ギャベに織られるほどの伝説的な恋物語の主人公たちがその後どうなったかを見てみたいという関心がある。同一人物の青春と老境、過去と未来が同じ画面で同居することによって、たくまざるユーモアが生まれている。逆にそれは、普通のどこにでもいそうな老人にも、どんなドラマが隠されているかわからない、という提言にもなっている。

それにしても、ギャベの叔父が、病気のおばあさんを見舞うために帰郷する途中で遊牧民の子供たちの学校に立ち寄り、そこで行った「世界と色」に関する授業が素晴らしい。赤は愛を、青は宗教的崇高さを、黄色は幸福を意味するらしいが、教壇に立ってテントの外の赤や黄色の花畑を指し示した手が、そのままフレーム・インして花束を手に戻ってくるとき、また、空を指し示した手が、青く染まって画面に戻ってくるとき、まるでメリエスが『月世界旅行』の中で、ドロンという煙とともに現れる月世界人を描いたような、『十戒』で、モーゼが海を二つに割って見せたような、映画の原初的な魔法を見思いがする。赤・黄・青は色の三原色でもあり、それはカラー映画を構成する三原色でもある。飄々とした叔父さんの講義からは、深い人間愛・世界愛・映画愛を感じ取ることができる。(この前、NHKで心理学者の河合隼雄さんが、母校の小学校で子供たちに授業を行うという番組をやっていたのだが、この叔父さんの風貌は河合さんによく似ており、子供たちに対する愛情ある接し方も同じだったので、可笑しかった。)

『サイクリスト』は、社会派リアリストとして出発したマフマルバフ監督の、面目躍如たる作品。この時点でのマフマルバフの映画に対する基本的なスタンスは一貫していて、社会的な弱者(この作品の場合は、アフガニスタンからの難民)に対する共感を寄せ、社会制度の不備(金がなければ、瀕死でありながら医療を受けることもできない。金が届くと、たちまち病気の妻に吸入器がつけられ、注射されるというシニカルさ。また、医者は権力者に買収されており、一週間自転車に乗り続けなければならない主人公を、睡眠薬を盛ることにより妨害しようとする。)は逆に弱者を抑圧することを示し、社会改革と弱者同士の連帯を痛烈に訴える作品になっている。そういう意味では、クルド民族の独立と誇りを回復するため、常に自分の財産を売り払いながら映画を作りつづけた『希望』や『路』のトルコのユルマズ・ギュネイに通じる作品。

『ギャベ』はイランの少数民族を、『サイクリスト』はアフガニスタンからの難民を描いた作品だったので、一般のイラン市民がマフマルバフの映画の中でどのように描かれているか、『パンと植木鉢』や『サイレンス』で見てみたいと思う。

鑑賞会の解散によりマフマルバフの紹介は終わりましたが、次々とマフマルバフの新作旧作の日本での上映が予定されており、娘のサミラ・マフマルバフが『ブラック・ボード』でカンヌ映画祭の審査員特別賞を受賞し、妻のマルジェ・メシキニの作った『THE DAY I BECAME A WOMAN』がヴェネチア映画祭の新人部門で上映されており、既に日本での公開も決まっているようなので、今後も自主上映側からの、マフマルバフ一家への注目は続くと思います。




チャーリー『街の灯』
『街の灯』

浮浪者チャップリンの献身的な愛に感動する。最後の出会いの場面での彼のテレくさそうな(哀愁をおびた)笑い。もう言葉にはできない。それまでのチャップリンの苦労と純粋な愛がじわーと観ている者に伝わるのだ。今までさんざん笑わされていたのに、最後の最後で泣くはめになるとは思いもよらなかった。
『CITY LIGHTS』というタイトルが出た時、背景は華やかににぎわう夜の街だった。『CITY LIGHTS』という題名は、そのような大きな街の灯を連想させると同時に、チャップリンや花売りの娘や街角の新聞売りやらの貧しい人々がつくる小さなあかりも想わせる。そして、小さなあかりの方がだんだんに私たちのこころの大部分を占めてきて、ものがなしい、それでもほのぼのとした気持ちになってくるのだ。
音楽はチャップリンそのもの。あの旋律の美しさは、彼の純粋な心をそのまま投影している。感動の映画だった。


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2001/03/25


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