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■鬼の対談>ピアニスト



 
昨年9月、ミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』が自主上映されたときに、ヤマちゃんとメールで話し合った感想をまとめました。


 
(お茶屋)
『ピアニスト』のシネマノートどうもありがとう。
わたしもね、ハネケはあんまり好きじゃないな〜。
私は芸術作品でも娯楽作品でも一滴の甘さがほしいな。その甘さって励ましになったり慰めになったりするのだけれど、ハネケはそれがないんだよ。

(ヤマ)
『セブンス・コンチネント』では、まだ希望を読み取ろうとしたさすがのお茶屋さんも遂に引導渡しちゃいましたか(笑)。
 
(お茶屋)
うん、第二のジャック・リベット(笑)。
『セブンス・コンチネント』でも希望を読み取ろうとしたわけではないんですけど。『ピアニスト』も『セブンス』と大体同じ見方をしているつもりなんだけどな〜。
ハネケ監督は、「死は死だ」とか「孤独は孤独だ」とか現実をそのまんま描いているだけなんですよ。

(ヤマ)
そういう意味では確かに同じ観方かも。
でも、『セブンス・コンチネント』のときには「死を選ぶことを否定することで『もっと生きよ。』といっているのであれば、そういう風に受け止めてみると、この映画は傑作になる」と言ってたじゃない。
ふーむ、でも、そーか。お茶屋さんはナイフを持って眼前で自殺をするという運びを想定して、それを留まらせたわけだから、結論的解釈においても同じだということも言えるのかもね。

(お茶屋)
死のうとまでは思ってなかったと思うけど。ワルターの前で自分を刺して、彼をつなぎとめようとしている(と私は思っている)わけだから。
ただし、ワルターをつなぎとめられないとわかって、絶望して自殺するかもとは思いました。

(ヤマ)
あ、そうだったの。うん、確かにそのほうが妥当だね。
僕はワルターを刺すつもりだと観てたけど、こっち(つなぎとめようとして自分を刺す)の方がエリカっぽい気もするね。

 
■  刺す  ■

(お茶屋)
ワルターを刺すつもりっていうのは、これは一瞬、私も思いました。
でも、エリカはそんなことようしませんね。多分。
ようするやったら、お母さんを先に殺しているでしょ(^_^;。

(ヤマ)
なるほどね。それも一理あるな。
でも、お母さんの場合は、ある意味で共依存的なところがあるでしょ。
かたやワルターとの間には、そこまでのものはない。
だから、同列には比較できないという気もするんだよね。

(お茶屋)
そうですね。
この辺は、あまり詰める気はないんだけど、私はお母さんをおんぶしたエリカが、「私をおんぶしてくれ〜」とワルターに言っている一こまマンガが浮かびます。もちろん、エリカはお母さんをおんぶしたまま(笑)。

(ヤマ)
こいつは、とんでもなく重そうだな(笑)。
僕はワルターを刺すつもりだと思ってたんだけど、お茶屋さんの書いていた「エリカは、セックスというのは関係性を維持するためのものと思い込んでいたのですね」というのに、ちょっとドキッとしたな。何か意表を突かれたような気がした。
「『まだ、おしまいじゃないわよ』とワルターの目の前で自らを刺す」というのはなるほどで、そうすると終わりにしたつもりのワルターを再び巻き込むことはできるよね。

(お茶屋)
そうです。セックスで失敗したから、次はナイフです。

(ヤマ)
恐い逆ストーカーってわけだね。

(お茶屋)
ヤマちゃんの「解消できない屈託の帰結として、密かにナイフを忍ばせて出向いたエリカが、ワルターから向けられた明るい笑顔と激励の言葉に打ちのめされた」というのは、充分説得力がありますね。

(ヤマ)
拍子抜けなんて透かされ方よりも、もっとコタエた気がするよね。
自分の惨めさが何倍にもなったろうし、そこで予定どおりの行動をとると更にそれに追い打ちがかかるよね。
行為によって意味を伝え得てこそ、行為に意義も生まれるけれど、そこが空振りしていたんじゃ悔しくて手出しできないよね。

(お茶屋)
う〜ん、あんなとき惨めさも悔しさも感じるだろうけど(だから、ヤマちゃんの話には充分説得力があると思うけど)、果たしてそういう感情を頭の中で言葉にできる余裕がエリカにあったかどうか。
私はエリカが呆然としていたように思えたんです。
私の考える予定の行為は、自分をもっと深く刺していたと思うな〜。
目の前で自殺するわけじゃないけど(死ぬつもりはしていないけど)、かなり思いつめてワルターを探していたので、あの勢いだともっと深く刺していたと思います。そして、ワルターの屈託のなさに、勢いをそがれたように見えてしまうな〜、私には。

(ヤマ)
これには、やられたね!(拍手)
確かに、エリカ呆然ってのが多分一番、真実に近いよね。
解釈のなかで言葉を重ねていると、往々にして言葉が言葉を呼び、言葉世界を構築して行っちゃって、リアルから離れてしまうことがあるよね。
そういうときに、こういう形で引き戻せるのは、足場としての座標軸がしっかりしている証拠なんだろうね。
惨めさや悔しさは、タイムラグを経て、生じてくるものだよね。
「タイミングを逃してちょっと間抜けなことになって」という点については、僕は日誌にも綴っているようにタイミングの問題ではないように思っているけど、「唯一すがれそうなものだったワルターを逃して絶望しているはず」というのには頷けるね。

 
■  ラストシーンに希望はあるか  ■

(ヤマ)
ただ、あのラストにも希望を読み取っている人たちもいるようなんだよね。
ワルターに煩わされることなく振り切って歩みを始めるために自らを刺したのであって、その上で表の広い世界に出ていくというのはエリカの人生にとっては一つの希望ではないか、とね。
あるいはまた、大事な演奏会場を出ることで音楽に縛られ、母親に縛られた生を送っていたエリカが、ようやく自身の生き方を変え始めたのだとか。

(お茶屋)
これは、私も思いました。

(ヤマ)
さすが、前向きお茶屋さんじゃん(笑)。
とりあえずのこの反射力って凄いなと思うね。

(お茶屋)
はあ、どうもお褒めに預かりまして(^_^;。
だけど、すぐ違うな〜と思ったよ。『セブンス』でも思ったことなんだけど、ハネケ監督って、そういう希望の持たせ方ではないと思うのね。

(ヤマ)
そんな優しさなんぞ微塵もないってことだよね。

(お茶屋)
そう、主人公のみならず、観客をも容赦しない。

(ヤマ)
ここだよね、作品に選ばれた観客であればあるほど、そういう意味では、よけいに容赦なく痛めつけられちゃうんだね。

■  ハネケの罠  ■

(お茶屋)
ヤマちゃんが書いていたように、見所は男女の関係性というより、エリカの人物造形とその表現のし方だと私も思います。

(ヤマ)
だよね。というところでは、「そのおかげで私なんかは、 ワルターのようにすいすい生きているわけでもないのに、『君は空っぽで病的で治療が必要』という言葉に肯いてしまったり・・・・。」というのは、ずばりハネケの思う壺に嵌められたってことなんですかねー。
 
(お茶屋)
そうだと思います。
確かに、だれでもエリカ的なところがあるでしょう?アメリ的なところと言った方が、うなずいてくれる人が多いと思うけど。
それなのに、エリカを仲間という意識では見れなく作られていますもん。エリカの未熟さ、生き下手、大なり小なりあるでしょう。

(ヤマ)
確かに、ね。
でも、少なくともそれを揶揄したり笑い物にしているような視線はなかったよね。
安易な共感を許さない作りをしているのは明白だけどね。

(お茶屋)
エリカが、なぜ、あのようにしか生きられないかということと、死ねない彼女のこれからを考えてみてくれというところだろうと思うけど。
それとエリカを観客の共感を得られないようにあそこまで描いた理由があるはずだと思うのです。
仮に原作どおりだとしても原作どおりであることを選んだハネケの思惑があるはずだし。
まあ、『セブンス・コンチネント』と今作を見た限りにおいては、ハネケは観客から好かれる登場人物には興味がなさそうなんだけど。

(ヤマ)
そこなんだよ、そこ。
それが僕にも今いちビジョンの開けないとこなんだよなー。

(お茶屋)
「私の映画に出てくるのはあなたです。あなたの中にエリカがいる。それを認められますか?」かな?

(ヤマ)
衝撃の事実!あなたはこれに耐えられるか?
ってなもんですか、ヤなやっちゃな〜。
というようにして、避けたがる観客を脅かして真実に目を向けよ!と来ているのかねー。
ふむふむ、そういう気もしてきたな(苦笑)。
 
(お茶屋)
ギャスパー・ノエの罠ならぬ、ミヒャエル・ハネケの罠(笑)。

(ヤマ)
確かに(笑)。

 
■  突然ですが、落合恵子  ■

(お茶屋)
数年前に落合恵子の講演会にわざわざ行ったことがあって、彼女の話に本当に感動するのは、食べるものを買うお金もないような人だったり、ずーっと踏みつけられて生きてきた人だろうなと思ったんですよ。
その人たちは「落合さんは、私のことをわかってくれる」という風に安堵感と救いを感じるんじゃないかなと。
でも、講演会に来ているほとんどの人は、頭では理解できても、なかなか心に響くものがないだろうと。
それでも、少数の人の心に届いただけで(その人たちが落合さんにとっての目的だから)、この講演はこれでよいのだと。

(ヤマ)
この話は、ちょいと面白いところを突いているね。少数の人の切実なところでの安堵感を引き出すことができれば、多くの人に訴えられなくともよい、むしろ、そういうものが必要となる人は少ないほうがいいという立場で少数の人の心に届けてあげたいものがあるっていうのは、ちょっとエラソーな気もするけど、実際にそういう効用を果たしているのであれば、それはそれでよいのかもしれませんよね。
話し手の思惑や態度をもって問題にすべきではないだろうと僕も思うなー。
イヤなら読まなきゃいい、聞かなきゃいいだけだもんね(笑)。

(お茶屋)
「少数の人の心に届けてあげたいものがあるっていうのは、ちょっとエラソーな気もするけど」に対してなんですけど、落合さんがそういう気持ちで講演をしているわけではないと思いますよ。
彼女が講演で言っていることが、結果的にそういう少数の人の胸に届くだろうと私が思っているだけで。
彼女の言葉の選び方、表現者としての言葉に対する意識は、エラソーなところが微塵もないんです。

(ヤマ)
なるほど。
結果とか効用とかで判断するんではなく、この「表現者としての言葉に対する意識」が肝要なんだよね。
ここのところで、その人となりを窺い知ることができるんだから。

(お茶屋)
それに落合さんの意図としては、人を踏みつける側の人にいかに働きかけて、その人に自発的に変わってもらうかというところがあるので、少数のいわば仲間内の人ばかりに向って発言しているわけではないと思います。

(ヤマ)
これは、果たして届くんだろうかねー。
言葉って、それほどまでには力のあるものではないという気がするなー。
まるで無力なものでもないんだけど、そこまではなー(疑心)。

(お茶屋)
そうですね。ま、人それぞれの方法があるだろうし、落合さんも講演だけではなく他にも活動されているようですよ。

■  崖っぷち  ■

(お茶屋)
『セブンス』にしても『ピアニスト』にしても、たぶん、登場人物に自分の全部又は一部を見る人はいると思うのですが、そういう人はある種の崖っぷちに立っていると思うんですよ。

(ヤマ)
それはそうなんだろうね、きっと。

(お茶屋)
その人たちは、落合恵子の講演で「落合さんは、私のことをわかってくれる」と安堵感と救いを感じた人たちのように、「ハネケ監督は、私のことをわかってくれる」と思ったでしょうか?大いに疑問ですね。
ハネケは、崖っぷちに立っている人に「あなたは、今、断崖のふちに立っている。」と言っているだけじゃないですか。

(ヤマ)
そうだねー。僕は崖っぷちに立ってないから、判断のしようがないけど、このあたりは微妙だね。
あの寄りつきやすさを断固として拒んでいるところにこそ、ある種の共鳴を覚えるのかもしれないという気もするし、崖っぷちに立っている人にそんな余裕はないだろうという気もするし。

(お茶屋)
どちらの作品にしても、どんな事情があるにせよ、とにかく「自ら死ぬことは許さない」ってだけですからね。崖っぷちの向かい風くらいの力しかないんじゃないですか?そんな向かい風は、すぐ止むって(笑)。

(ヤマ)
やっぱり解釈的結論は同じでも、ニュアンスが違うような気がするな(笑)。

(お茶屋)
はい、そのとおりです。認めますm(_'_)m。
でも、そんなに『セブンス』を絶賛しているように思われたのかな〜。
「そういう風に受けとめてみると傑作」と書いたけど、完全にそういうふうに受けとめていたわけじゃないんだけど。

(ヤマ)
いや、僕はむしろ、そんなふうに受け止めてみることを想像できるところに感心してたんだけどね。

(お茶屋)
あ、そうでしたか。それはそれはm(_'_)m。

 
■  ハネケってば何が言いたいの?  ■

(お茶屋)
自ら死を選ぶことを拒否することで、たとえ生きる屍状態であっても生きるということ、それを描いていると思います。

(ヤマ)
やすやすとは死なせないっていうのも、それ自体が両義的ではあるんだよね。

(お茶屋)
そうなんですよ。
『セブンス』もそれは同じ。
それはそれでいいのですが、今回は私はまるっきりエリカのような人がこの映画を見たとして、慰めなり励ましなりになるかね(ならんじゃろー)と思ってしまったので、ちょっと腹がたったのです。

(ヤマ)
ここんとこが僕は上にも書いたように、ビミョーなんですよ(笑)。
崖っぷちに立ったことがないもんで、ね(いやはや)。

(お茶屋)
ただね〜、その人が「私と同じ人がいる。私一人じゃなかった。」というふうに受けとめると、また違ってくるので・・・・、

(ヤマ)
でしょ。やっぱ微妙だよね、ここんとこ。
今まさに自殺をしようとしていた女性が観ると、どういうふうに思うのかなー。
でも、お茶屋さんもそこんとこが断言できるほどに解ったりしなくてよかったね。
僕も自分が解らずに済んでありがたいと思ってるんだけど(笑)。

(お茶屋)
ハネケを第二のジャック・リベットとして決別するのは保留しようかな(笑)。

(ヤマ)
僕は訣別なんかしませんよ、まだまだ。
むしろ余計に気にはなってる(笑)。

(お茶屋)
しかし、まあ、疲れる監督ですよ(はあ)。

(ヤマ)
やっぱ、好きそうじゃないなー(笑)。

(お茶屋)
そういうことです(笑)。

■  哀しかったこと  ■

(お茶屋)
ちなみに、私はエリカより生きる能力があると思ったとき、すごく哀しかったです。

(ヤマ)
え? これ、どういうこと?

(お茶屋)
これはですね〜、本来、私はワルター側ではなくエリカ側ではなかったかということなんです。エリカ側に立つべきところ、ワルター側に立って、「私はエリカより生きる能力がある」と思ったということは、エリカを踏みつけにしたということです。
いままで孤独な主人公とか映画の中でたくさんいましたが、彼らの中に自分の一部分を見て、共感して、疎外される側、異端視される側に立って孤独を共有していたわけです。それは、そういう映画(例えば『アメリ』)が、多少の甘味料をほどこしているため主人公に共感しやすい作りになっているからなのですが、甘味料なしのハネケ作品でついに自分の本性をつきつけられた感じなのです。

(ヤマ)
なるほど〜。こういう自覚を迫る要素があったってワケだね。
エリカに共感はできない自分に忸怩たる思いを迫るのは、彼女を見下している自分に気づかせるからってことか。
これは、相当に次元の高い感受性だなー(恐るべし!)。

(お茶屋)
いや〜、面映いというかお恥ずかしいというか、何と言うか。
ハネケがそれを狙っていたかどうかは、わかりませんが。
それで、まあ、ハネケに八つ当たりして、芸術作品でも娯楽作品でも一滴の甘さがほしいとかなんとか難癖つけているの。

(ヤマ)
そういう忸怩たる思いを迫られると、やっぱ愉快じゃないもんなー(笑)。

(お茶屋)
だから、ヤマちゃんが『セブンス』と『ピアニスト』で私の感想のニュアンスが違うというのは正解なんやね。はあ。

(ヤマ)
じゃあ、『ピアニスト』のほうが傑作なのかもね。

(お茶屋)
えー、そうなんですか?なぜゆえ?
『セブンス』の方がスッキリ感があって、ヤマちゃんのシネマノートに「スタイリッシュさにおいて、より精彩を放っていた分、『セブンス・コンチネント』の方が魅力的たっだが」というのに賛成なんですけど。

(ヤマ)
そりゃあ、上にも書いてあるようなお茶屋さんが感じたようなことを観る側に問い掛けてきているとしたら、そういう問い掛けは『セブンス・コンチネント』でも、観ようによっては、なくもないけど、『ピアニスト』のほうがはっきりしてるじゃない。
ただ、受け手としてそう感じ取れる感受性を備えているかどうかが問われるけど。
そーか、そこがハネケのビジョンだったりするのか。

(お茶屋)
そーかな〜?

(ヤマ)
ありゃ?(笑)

(お茶屋)
そんで「私の映画に出てくるのはあなたです」なんてことを言ってるの?
そんなことを言ったら、たいていの人はワルターよりエリカやそのお母さんだよ。ワルターは稀人です。

(ヤマ)
むろん、ハネケがそう言っているとき、先ず想定しているのはエリカでしょ。
人はなかなか自分と対峙できないもので、エリカを見下したり、気の毒がったりして、自分の身の安全を確保しようとしちゃうけど、そんなふうに高みから見ることができるところにはいないでしょってことかも。

(お茶屋)
それより、ハネケって評価され過ぎなんじゃないの?

(ヤマ)
観て、よりキツいのは『ピアニスト』のほうだよね。
僕は、そういう言わば、次元の高い感受体験をしなかったわけだから、ビジョンが開けないのも道理だな(笑)。
やはり相当、観客を選ぶ作品なのかもしれないね。

 
■  変態性  ■

(お茶屋)
『ピアニスト』では変態性という言葉についても考えさせられたなぁ。エリカを変態ということはできないんですよ。変態というのは、少なからず「余裕」を持って変態行為をしている場合にしか使えないなぁと思い至りました。

(ヤマ)
ふーむ、これはどういうことだろう。
遊びの範疇だってこと? 変態行為ってそもそもが何なんだろうね。

(お茶屋)
ずばり、変態とはクローネンバーグ(の作品)です(笑)。
『ピアニスト』では、精液のついたティッシュをかいだり、覗きで尿意を催したり、SM道具を隠し持っていたり、陰部を切ったりの行為をクローネンバーグが演出したら、それは「変態や〜」と妙な共感を持って見れたことでしょう、と思ったわけです(笑)。

(ヤマ)
なるほど、なるほど。
要は、上の落合恵子の言葉についての話と同じなんだよね。
表現者としての意識のありようが、同じものにでも全く異なるニュアンスを帯させるってことだよね。それは、そのとおりだ。

(お茶屋)
エロがグロになるのは嫌だけど、グロをエロにするクローネンバーグは大好き(^_^)。

(ヤマ)
「グロいエロ」と「エロいグロ」って全く別物だよね。
要は「エロい」かどうかなんだよ、きっと。
でもって、「エロいエロ」がノーマルとされてて、エロでないものをエロくすることができるところが変態性なのかもね(笑)。
そんななかでも、グロをエロくできるのは、変態エリートなんだね、きっと(笑)。

(お茶屋)
ぶわははははは!(画面に向って大爆笑)
クローネンバーグは、変態エリートだったのか!(^o^)

(ヤマ)
ほかにいないっけねー、こんなんをエロっぽく描けるのかいなって、ちょっと感心させてくれる変態エリート(笑)。 メイプルソープとかアラーキーの花の写真なんかもエロいけどね。

(お茶屋)
変態行為って楽しむもので、エリカは楽しんでいるというより自分を痛めつけている(好きでやっているという感じがしない)。

(ヤマ)
自分を痛めつけてても、好きでやっているとか飲み込んでいる感じがすれば、確かに「痛い」とか「苦しい」とか「イヤだ」とか言ってても大きくは楽しんでいることにはなるんだろうね。

(お茶屋)
変態とは行為ではなく、カトちゃんフェイスで「あんたも好きね〜」と言えるような雰囲気が必要だと思いました。

(ヤマ)
なかなかの変態通じゃん(笑)。

(お茶屋)
いや〜、それほどでも(笑)。
映画を見ていても驚くことが多くて、まだまだ精進が足りないと思っております。

(ヤマ)
究めるおつもり?(笑)

(お茶屋)
こんなことを始めの感想につらつら書いていたんだけど、読む方はたまらんと思って削除したんだけどね。 つい、思い出して爆発してしまった。
ヤマちゃんならおもしろがってくれるかもねという思いがあるんやね(笑)。

(ヤマ)
うん。面白がる、面白がる。

(お茶屋)
「あんたも好きね〜」(笑)。

(ヤマ)
僕も変態なのかしらん?(笑)
「あんたも好きね〜」ってお茶屋さんが言えるような雰囲気があるのねん(笑)。
 
(お茶屋)
そりゃあ、性愛王様ですから(笑)。

(ヤマ)
こりゃ〜、まいったねー。
妄想王のほうがまだしも実際に近い気がするんだけどなー(笑)。

(お茶屋)
というより、何を言ってもたいていは怒られないという安心感が言わせた言葉でありましょう。

(ヤマ)
あ、これは嬉しいね。
構えの取れた状態の言葉の交換って嬉しくかつ楽しいものだよね。

(お茶屋)
ハネケももう言い尽くしたようで(笑)。
『ピアニスト』は、リトマス試験紙のような(エリカ側かワルター側かハネケに試されているような)、いや〜な(笑)映画でありました。



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●第二のジャック・リベット=お茶屋は前に書いたようにお茶屋にとって拷問のような映画を作るジャック・リベット監督と決別している。 もどる↑

●アメリ=日本でも大ヒットしたフランス映画『アメリ』の主人公の名前。一風変わった女の子。 もどる↑

●ギャスパー・ノエの罠=ノエ監督は『カノン』で観客を罠に嵌めた。近親相姦の場面を救いの場面であるかのように描いて、普通なら容認できない近親相姦を観客に受け入れさせたのだ。詳しくは、このページ。 もどる↑

●性愛王=「間借り人の映画日誌」サイトの掲示板で、来客者がヤマちゃん(管理人)に授けた称号。映画の中の性愛表現への名解釈ぶりと女優の姿態等への心酔ぶりが受けて授けられた(と思う)。 もどる↑

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●ヤマちゃんの感想文
間借り人の映画日誌サイトのセブンス・コンチネントピアニスト

●お茶屋の感想文
当サイトのセブンス・コンチネントピアニスト
2003/5/11

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