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■かるかん>地獄の黙示録 特別完全版|ブラックホーク・ダウン
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地獄の黙示録 特別完全版
哲学する戦争映画
Apocalypse Now REDUX
監督&製作:ファランシス・フォード・コッポラ|脚本:コッポラ&ジョン・ミリアス|
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
ウイラード大尉:マーティン・シーン|カーツ大佐:マーロン・ブランド|
キルゴア大佐:ロバート・デュバル|デニス・ホッパー|ハリソン・フォード|
クリーン:ローレンス・フィシュバーン|ランス:サム・ボトムズ

いや〜、おもしろかった。3時間半があっという間。鳥肌の立つシーンがいくつもあった。
ウィラード大尉は、軍の指揮命令系統から逸脱したカーツ大佐を暗殺せよとの命令を受け、ヴェトナムの川を溯って行く。ウィラードは、その途中の惨状を見るにつけ、また、カーツの身上調書を読むにつけ、カーツがなぜ、軍から離れ奥地に帝国を築くに至ったかわかってきて、自分が殺さなければならない人物に傾倒して行く。果たしてウィラードとカーツの対決はどうなるのか!?川を溯る途中に出会う人々や起こる出来事も見ごたえ十分。
『地獄の黙示録』は、自分が殺そうとした相手を助ける欺瞞(だったら殺そうとするなよ)や、殺人者が殺人者を裁く欺瞞(おいおい自分自身を裁かんのか)を、また、戦争って本当に支離滅裂でなんじゃこりゃのごった煮状態だということを、哀しく美しく、時に滑稽に圧倒的なスケールで描いた傑作だ。
コンピューターグラフィックによらない生の映像の迫力、本物の群集の厚みと体温、すばらしい音響と音楽と、美しいオーバーラップ。

高知東宝1 2002/03/31

鬼の対談『地獄の黙示録 特別完全版』(1)(2)を是非、ご覧ください。


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ブラックホーク・ダウン
戦場疑似体験!おもしろくないけどおもしろい
Black Hawk Down
監督:リドリー・スコット
ジョッシュ・ハートネット|ユアン・マクレガー|トム・サイズモア|
エリック・バナ|ウィリアム・フィシュナー|サム・シェパード|レゴラス(^_^;

いや〜、もう戦闘シーンの連続で早く終わってほしいと何度思ったことか。マジで吐きそうになったところが二ヶ所あった。ドラマ性を一切排除して、圧倒的な迫力と微細なエピソードの積み重ねで戦場とはかくの如しとばかりに自信満万に撮っている。心を打たれることはないものの、頭はフル回転でいろいろ考えさせられることがあり、観る価値は十分ある作品だ。

●ネタバレ感想
戦争映画って男ばっかりで(しかもイイ男ばっかりだと)おいしいんだ〜というヨコシマな気持ちは、開巻20分くらいでどこかに吹き飛んだ。あとはいきなり戦場に投げ出され、通信機器はあっても状況により聞こえないんだ〜とか、へ〜、民兵か一般人かわからないので撃ってきてから撃ち返すのかとか、そんなルールがちゃんと守られているのかとか、あのような混乱状態では取り残される兵士もおるだろうとか、実践でこれだけ走らされるんだったら、やっぱ訓練は必要なわけよね〜とか、戦力では圧倒的にアメリカに分があるのに一般市民を巻き添えに出来ないから爆弾を落とせないのかなとか、まあ、登場人物といっしょに粉塵と爆風とにまみれながらも冷めた目で観ていろいろ考えさせられた。本物の戦場を知っているわけではないけれど、本物らしいと思えたし、また、映像はカッコよく決まっていると思った。

しかし、なんかウソ臭い。それはどんなところかというと、まず、サム・シェパード少将が出撃した兵士を一人残らず連れて帰ると啖呵を切るところだ。負傷者も死者も連れて帰るということだが、これって本当だろうか?それは気持ちとしては理解できる。負傷者は見殺しには出来ないし、遺族のことを思えば遺体は残しては行けない。また、遺体のみならず負傷者を置いて撤退したとなれば、その後の戦闘時の志気にも関わる。しかし、撤退すれば生きて帰れる兵士を、作戦を続行させることによりむざむざと死なせてまで、一人残らず連れて帰る意味があるのかだろうか。指揮官であれば断腸の思いで即時撤退の決断をすることは出来なかったのだろうか。いや、兵士は見えるところにはいないので、断腸の思いをせず割と他人事で決断できるかもしれないとさえ思う。指揮官なら作戦を続行した場合と撤退した場合の損失の大きさの比較を常にしているものだと思うのだが、シェパード少将はそれをせず、一人残らず連れて帰ることに固執しているようにみえる。これがウソ臭い原因のように思う。それとも現場の状況を正確に把握していなかったため、犠牲者を増やさずに作戦を遂行できると誤った判断したのだろうか。一人残らず連れて帰るという気持ちが本当にあれば出撃しないのが一番だけれど、出撃しなければならないのなら犠牲者が出る可能性は覚悟のうえではなかったのか。

次にウソ臭いのは、一旦基地に引き揚げた部隊が援軍として再び戦場に赴くときに、「行きたくない」といった兵士が一人いて、この兵士に上官(?)が「自分で決めろ」と言ったことだ。兵士に出撃するしないの選択権があるのだろうか。ちなみに、その兵士は、援軍に参加することを自分で決めた。
また、2機目に撃墜されたヘリコプターに乗っていた仲間がソマリアの民兵に囲まれているのに居ても立ってもおれず、「助けに行かせてください」と言う別のヘリの兵士がいて、この兵士に少将が「本当に行きたいのか」と意思確認をしていた。戦闘の最中に上官がこのように意思確認してくれるほど、アメリカの軍隊では個人の意思が尊重されるのだろうか。

更にウソ臭いのは、「なぜ、闘うのか」という問に答えてエリック・バナ(いい男)が「仲間がいるから。仲間を救うために。」というようなことを言っていたところだ。このエリック・バナは一匹狼風に描かれているので、「仲間のために」という言葉が白々しく聞こえるのだ。

それで、ちょっと考えてみたのだが、仲間のためにとか仲間を助けたいというのは、確かにあるだろうと思う。同じ釜の飯を食べた仲間であればなおさらだろう。だけど、現実にはもっと複雑でないだろうか。例えば、同じ職場で働いている同僚が、職場の慰安旅行で行った先の海で溺れている場面を思い浮かべても、あまり考えずに反射的に助けようとする人もいれば、その同僚に特別な思いがあって是が非でも助けようと泳げないのに飛び込んでしまう人がいたり、あるいは飛び込むのを躊躇してしまって色んな思いが脳裏をよぎり、その同僚このことは嫌いだが後で寝覚めの悪い思いをしたくないがために助けようとする人もいれば、体面を考えて助ける人がいるかもしれないし、泳げないので助けたくても助けられなかったり、始めから誰かが助けるだろうと傍観したり、波が強くて自分もダメかもしれないと思いながら飛び込んだり、怖くて足がすくんだりと本当にいろいろだと思う。
それなのにこの映画では、そんな掘り下げは全くなく、みんなが仲間を助けると一本調子で言うからウソ臭いのだ。しかも、うえに書いたシーンは、本物らしく見える他のシーンと違う調子で改まって撮られているような感じがして益々いけない。
要するにドラマがないので、おもしろくない映画なのだ。ただし、この映画に触発されて、戦争というのは必ず仲間のためにというものだとか、戦場では考えるな、反射神経で動けとか、アメリカのこととかいろいろ考えさせられたので、本物らしい戦場の描き方とあわせて観る価値のある作品だと思った。

なお、私はこの映画はとても好きになれないが、同じ監督(だったと思う(^_^;)の『GIジェーン』は好だ。ヴィゴ・モーテンセンが出ているからだけじゃなくて、詩が出てきたことの驚きで。詩を解する上官っていいわ〜。ヴィゴだからかもしれないけど(爆)。


高知東宝2 2002/04/10


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