今月から俳句を始めた。これまで4、5年に一句くらい作っていたのを、ほぼ毎日。俳句のいいところは、映画や書道と異なりスキマ時間に頭の中だけでできることと、季語を覚えると今まで見えてなかったものが見えるようになることだ。(20年くらい前、俳句をやっている上司が「竹の秋」「竹の春」という季語を教えてくれて、春に竹の葉の吹きだまりを見つけたり秋に若い竹林を目にするようになった。)
俳句のできにこだわらなければ月並み句や、それ以下のものができる。ちょっとマシと思うものができても、「ああ、自分でそう思っているものが『プレバト』で夏井先生に赤ペンだらけにされるのだな」と出演者の気持ちがわかるようになった。
書道は鑑賞ができなければ書けないし、書けなければ鑑賞も難しい。俳句も多分、同じだろうと思う。だから、読みができない今、詠みもできなくて当然なのだ。なんとか読みの方ができるようになりたいものだ。
夏井いつき先生のyoutubeチャンネルで紹介されていた藤田湘子著「20週俳句入門」(角川ソフィア文庫)を買って読んでいるところで、課題の名句四句を暗誦できなければ翌週にすすんではならないというルールがある。その名句のひとつ、水原秋桜子の「ふるさとの沼のにほひや蛇苺」を読めたつもりでいたのだが、後に載っていた解釈とは全然違っていた。私はてっきり、ふるさととは違う場所に住んでおり、そこで蛇苺を見つけてふるさとの沼の匂いを思い出したのだと思っていた。蛇苺ってどんな匂いなんだろうとも思っていた。ところが、ふるさとの沼に来ており「ああ、以前と変わらぬ匂いだなあ!」と思って、ふと足下を見ると蛇苺があったということらしい。この場合、切れ字の「や」が「にほひ」を強調しているので、実際沼に来ていることになるようだ。作品の解釈は十人十色でよいけれど、法則を知ったうえでの解釈でないととんちんかんなことになるのだと思った。
今、第7週目の名句を暗記しているところで、ここに来てやっと私も名句と思える好きな句が出てきた。渡辺水巴という明治、大正、昭和を生きた俳人の句だ。
庭すこし踏みて元日暮れにけり
珠数屋から母に別れて春日かな
ぬかるみに夜風ひろごる朧かな
月見草離ればなれに夜明けたり
月見草の句は「ばなれ」の表記がひらがなの「く」のような字に濁点。
元日の句(朝寝して迎え酒、お昼にお雑煮を食べて、うとうとして目覚めて、お節をつまみに又御神酒。明日、投函する賀状をしたためようかと思いつつ、あれ、もうこんな時間、少しは外の空気でもと思い庭にすこし出ただけで終わってしまった元日よ。)
春日の句(数珠がなかったのかそれとも新しくしたのか、作者は数珠を買いに行った。葬儀、告別式を無事終えて見上げる空に母はいるのか、春の日の光が柔らかい。)
朧の句(春とはいえ夜はまだひんやり。道なりに続くぬかるみに湿り気を帯びた風がゆるゆると吹いている「もあもあ」であるよ。)
月見草の句(夜が明けてみると月見草は終わっているのね。あなたと私の仲のよう。)
俳句の勉強をした何年か後、この解釈がどのように変わるのか、書いたことを覚えておきたい。