カモン・カモン

小学生だったか中学生になっていたか、文通していた人が「Come on,Come on!」と書いてあって字もうまく、カッコイイ~と思ったことを思い出した。そのときは調べて「がんばれ」という意味とわかったが、もっと幅広い意味合いで色んなシーンで使われる言葉のようだ。「まあまあ」とか「よしよし」とか?

特に感慨はなかったが、「子ども」について考えさせられるいい映画だと思った。

昔々、同僚が「子どもが生まれてからは、犯罪に巻き込まれたり虐待されたりのニュースにホンマに腹が立つ」と言っていたことを思い出す。友だちが「子どもらしいままでいられたらいいのに、まだこんなに小さいのに親の顔色をうかがったり、色々気にしたり不憫や」と言っていたことも。私も甥が生まれてからは、子どもを目にすると甥と同じくらいだなとか、甥もあんな時があったなとか思うようになった。第一次反抗期(?)で妹が手を焼いていたときには「子どもの知恵に負けてどうする」と励ましたことも。妹は素晴らしい親になって子は巣立っていった。今、私は父と、二人の甥の小さかったときの思い出話をして笑い合っている。
社会的に子どもがいてくれてよかったと思ったのは、東日本大震災の避難所で子どもたちが壁新聞を作ったりしているとか、子どもの様子がニュースになったときだ。東日本から離れていても、とても励まされた。反対に子どもがいなくなって廃校となるニュースは、日本が地方から滅びている現実を突きつけられる感じだ。そうかと思えば、近所に幼稚園ができるとやかましいから反対というニュースがあったり。

子どもが悲しい思いを抱えたり、不安だったりするのは、確かに不憫だ。でも、成長の過程では多かれ少なかれ避けてとおれない。回復力は大人の何倍もあるし自身の欲求に忠実かと思えば無用の我慢もするし何よりやっぱり知的生命体なので、ジョニー(ホアキン・フェニックス)が振り回されるのも無理はない。親になるのは大変だけど、なれないわけではないことをジェシー(ウディ・ノーマン)とジョニーが示してくれている。
ラジオ番組の取材としてインタビューされる子どもたちの声を聴いていると、大人は子どもたちがその子らしく生きられて将来に希望が持てる社会にしなくちゃなあと思った。
(2022/09/24 あたご劇場)

ゴヤの名画と優しい泥棒

ゴヤの名画を盗んで、返還する代わりに年金受給者には公共放送の受信料を免除せよと要求した実話をもとにした作品で、イギリスらしいウイットに富み、とても楽しかった。ユーモアだけでなく若干の悲哀もあるのが何とも心に染みる、これぞ真のコメディだ。

ケンプトン(ジム・ブロードベント)とドロシー(ヘレン・ミレン)の夫婦が素晴らしい(^o^)。ジム・ブロードベントもよかったけれど、ヘレン・ミレンが神がかり的に懸命で平凡で魅力的、そして、娘の死を受け入れる名演だ。

裁判のシーンは、弁舌絶好調のケンプトンの独壇場(^Q^)。
最後に明かされる真相もなるほどの納得感。
もう一遍観たいなぁ!
(2022/09/21 市民映画会 高知県立美術館ホール)

天才ヴァイオリニストと消えた旋律

見始めてやや驚いた。久々のティム・ロス。クライブ・オーウェンも出演。若い俳優を覚えられなくなったロートル映画ファンには嬉し懐かしの配役だった。

第二次世界大戦前にヴァイオリンの英才教育のため、ポーランドの家族と離れロンドンのマーティン(ミシャ・ハンドリー:長じてティム・ロス)の家へ引き取られた天才少年ドヴィドル(ルーク・ドイル:長じてクライブ・オーウェン)。二人は兄弟のように一緒に育ち大人になるが、ドヴィドルはデビューコンサート会場に現れず行方不明となる。30年以上経ちドヴィドルにヴァイオリンを習ったという人物に遭ったことをきっかけに、マーティンは彼を再び探し始める。なぜ、デビューコンサートを前に忽然と姿を消したのか、ミステリー仕立ての話は面白いし、ヴァイオリンの演奏も楽しめる。

ルーク・ドイルは本当に弾いているのだろう、大人顔負けだった。収容所みたいなところで一対一のヴァイオリン合戦をするところが一番の見所だ。

あとはドヴィドルがなぜ姿を消したかわかるところ。街かどのシナゴーグで戦争中に収容所などで亡くなった者の氏名を何時間もかけて唱歌するラビ(?)と、家族の名前が唱えられるか否か聴き続けるドヴィドルの場面が印象深い。記録できなかったから歌にして記憶し伝承していくというのは、『サウルの息子』でゾンダーコマンドたちが写真やメモを埋めて出来事を伝えようとしたことを彷彿させられた。民族としての受難だからだろうか、決して忘れず伝えていく意思と共同体の堅さ(それゆえ入って行きにくいもの)を感じる。ただそれは、差別しておいて「入って行きにくいかよ」ってなもんで反省すべきことだ。

再会して一度きりという約束のコンサートを済ませ、30年前の借りは返したとばかりに関係を断ち切るドヴィドルには、断絶以上のものを感じ何だかやりきれなかった。
(2022/09/21 市民映画会 高知県立美術館ホール)

マイ・ブロークン・マリコ

親友の遺骨と旅をする話。思いのほかハードボイルドで面白かった。
ハードボイルドというと、ポーカーフェイスでタフな状況を乗り越えていく感じで主人公はほとんど男性のイメージだが、本作のシイノ(永野芽郁)は思い切り泣くし、叫ぶし笑うし吸うし食う。それでもからりと固ゆで卵な感じ。女性が主役のハードボイルドと言えば『グロリア』とか?あの作品も「映画のハードボイルド革命や~」な感じだったかもしれないけど、本作は間違いなく革命や。なにせ笑えるのだから。ひったくりを追いかけて戻って来たシイノが、頼みもしないのに遺骨の番をしてくれていた男性(窪田正孝)に感謝して名前を尋ねると「名乗るほどの者ではございません」と言って去って行く、その肩に掛けた釣り用のクーラーボックスにデカデカと名前が(^Q^)。久々に声をあげてしまった。だが、この男性もかつては世をはかなんでというか居場所をなくしてというか、自分自身が嫌になってというか何の望みもなくなってというか、自死を試みたことのある人で、後にシイノを見送るとき良いことを言う。

ブロークン・マリコ(奈緒)は、本当にブロークンだった。シイノは頑張ったけれど、彼女一人の手には負えないレベルだと思う。いっしょに専門家に相談するとかくらいは出来たかもしれない。放り出したくなったときもあったと正直な気持ちを独白していて、そういう嫌になるマリコも含めて覚えていたいのに思い出すのは可哀想なマリコ、可愛いマリコ。客観的に観てシイノができることはしていたと思うが(それがシイノ自身のためでもあった)、死なれると何もしてやれなかったという思いになるのか。
マリコに頼られることでシイノも辛うじて生きてきた。一言もなく去って行ったマリコに、私はあんたの何だったのかと怒り悲しみ、焼け(自暴自棄)死に(発作死に?)しようともした。だけど、陽はまた昇る。腹も減る。マリコを思い出すためには生きていなくては。

一番おどろいたこと。マリコの暴力親父を演じていたのが尾美としのりだったこと。尾美くん~、ビックリだわよ~。
(2022/10/05 TOHOシネマズ高知4)