オケ老人

楽しかった~!音楽映画はえいねぇ!(^o^)
それに杏ちゃんは、やっぱり魅力があるわ~。
地方にいると一流の音楽家の音楽に接する機会というのは限られているけれど、音楽の楽しさは結構あるんじゃよね。
フランスの有名指揮者がおじいちゃんと意気投合するのも楽しかった。
なんたらデンキの息子とおじいちゃんの孫娘がラブなのも初々しい~。
なんたらデンキの中におじいちゃんの修理コーナーができたというラスト、あったまるぅ。
忘れているところもいっぱいあるけど、テレビで放送されたら、ぜひまた見たい!
(2016/11/16 TOHOシネマズ高知3)

妻への家路

見てから何ヶ月も経つのに、轟音の列車から垣間見える逃亡中のルー・イエンシー(チェン・ダオミン)の姿から始まって、最大の山場である駅の陸橋での大捕物を経て、ラストの家族の肖像に至るまで、様々なシーンが昨日見たかのように思い出される。ユーモアを織り交ぜながら、過剰な説明抜きで文化大革命が、ある一家に残した深い瑕を描ききり、「忘るるなかれ」と心に染みこませるような作りである。バレエやピアノという映画と相性のよい事柄がうまく織り込まれているだけでなく、駅の階段を下りてくる人々の服装や雰囲気で時代の流れを表現したりと、これぞ映画という表現に溢れ、本当に堂々とした素晴らしい作品だ。

フォン・ワンイー(コン・リー)が、夫の顔を思い出せないのは、辱めを受けたことを忘れたくて夫の顔まで忘れてしまったのか、あるいは夫のせいでこんな目に・・・と思ってしまい、その思念を否定するあまりのことか。強制労働に行かされた夫も残された妻も娘もとにかく酷い目に遭わされた。特に教育現場の様子など短時間で要点を描いたうえ、バレエの見せ場まである巧みな脚本だ。(娘は父を犯罪者と思っている。こういう教育をされた娘をワンイーは許せない。)
写真さえあれば、夫が帰ったことがわかるのに、娘のタンタン(チャン・ホエウェン)がアルバムから父の顔をことごとくひっぺがしていたことが残念で可哀想でもあり、子どもらしいことをやったものだと可笑しくもあり。
イエンシーが妻をひどい目に遭わせた仇のところへオタマを持って殴り込み(笑)に行くところは作りすぎなんだけど、加害者も被害者であったこと(文化大革命の本質)を描くため必要なところだったと思う。

ラストは、私にとっては大どんでん返しだった。このどんでん返しによって、どうしても『肉弾』を思い出してしまう。『肉弾』は、戦死者のことなど忘れて浜辺で戯れる人々からそう遠くないところを漂流するドラム缶の中の亡骸(戦死者)がラストショットだった。それと比べると、『妻への家路』はとても静かなラストシーンだが、作り手の思いは同じなのではないだろうか。文化大革命から40年以上を経た中国では、それを知らない人が増えているだろうからこの作品が作られたのだと思う。
歴史を知ることはとても大事なことだと思っているので、文化大革命についても『芙蓉鎮』『活きる』などなど、映画でこうして歴史の事象とそれが人に及ぼす影響を見れることに意義を感じる。ただ、この映画のどこに普遍性があるかといえば、やはり夫婦、家族の愛の物語というところではないだろうか。
(2015年高知オフシアターベストテン上映会 2016/07/02 高知県立美術館ホール)

ぼくのおじさん

ゆるゆるでうとうと。(うとうとは、ほんの少しだった。)
登場人物の名前といい、言葉づかいといい、昭和の匂いがそこはかとなく漂う。ぼくのおじさん(松田龍平)は、昭和ならでは許されるキャラクターなのかもしれない。兄一家に居候し、週一の大学講師以外はぐーたら日々を過ごし、甥を守らず守られて、「いいとこないじゃん」と思った私は平成の世にどっぷりまみれ、効率主義の金畜生になっているのだろう。おじさんは何かというと、カントの辞世の言葉をドイツ語でつぶやく。「これでいいのだ」・・・・それってバカボンのパパじゃーん(笑)。世知辛い世の中、一時の休息を映画館で。そんな1本。
(2016/11/03 TOHOシネマズ高知1)

ハドソン川の奇跡

これぞアメリカ映画という感じ。
さらりと人間賛歌を撮ってしまうイーストウッド監督、おみごと。
ハドソン川への不時着が一人の犠牲者も出さずにすんだことがわかっていても手に汗握ったし、着水後、機長のサリー(トム・ハンクス)が飛行機の最後尾座席まで確認したものの、そこは既に水がまわっていて一抹の不安がよぎるのもうまい。全員無事とわかって安堵するサリーの気持ちにシンクロできた。乗客も老若男女様々な状態の人がいて、その人たちの命を預かる仕事の重責をひしひしと感じた。
付近で働く人たちが不時着を目撃して、それぞれの判断で救助に駆けつけるのも頼もしかった。

事故調査委員会が、近隣の飛行場に着陸できたのにハドソン川への不時着を選択したのは、かえって乗客を危険な目に遭わせたのではないかとサリーを問い詰めるのは、サリー自身想定内のことだったのだろう。だから答えも用意されていた。ただし、機械のシミュレーションによれば飛行場に着陸できたとまで言われるとサリーの確信も揺らぐ。そのときは「これしかない」と判断しても、その判断は正しかったのか誠実な人間なら自問を繰り返すだろう。そのうえ、道を歩けば英雄あつかい、調査委員には容疑者あつかいで、心の支えは妻(ローラ・リニー)と同僚ジェフ(アーロン・エッカート)だけだ。そのへんのもやもや感が、ホテルと夜の街の描写で伝わってくる。

公聴会で決着が付くのもアメリカ映画らしい。公の場で主張でき、論理的で合理性があれば認められる。主張できる能力がないとアウト・・・という厳しさはあるけれど、それも含めてアメリカらしいと思ってしまう。
ニンゲンであるが故に迷いがある、迷いも含めてシミュレーションしてほしいというサリーの主張には合理性があった。機械的な処理や判断は効率的でよいが、そこには「ニンゲンらしさ」がない。
公聴会のシメ、ジェフの一言もユーモアがあってよかった。こういうセリフもアメリカンだ(^_^)。
一人の悶々とする人間に焦点をあて、ニンゲンらしさを描いた作品、昔ながらのアメリカ映画だ。
(2016/09/24 TOHOシネマズ高知9)