グランドフィナーレ

サウンド+ヴィジョン=映画
お金持ちはいいなぁ・・・っていうのは置いといて、これは身体にいい映画だった。見る前は、ちょっと寒気がして風邪を引きそうな感じがしていたのだけれど、映像や音楽(音)にゆったりと浸っているうちに、あのホテルのスパで湯治をしたかのように血行がよくなっていた。
クスクスと笑いながら、たらたらと過ごせる取り留めのない作品だが、けっこう残酷だったりする。ミック(ハーベイ・カイテル)が作ろうとしている映画は、本当につまらなさそうだし(^_^;。ブレンダ(ジェーン・フォンダ)に引導を渡されるシーンは手に汗を握った。
指揮者、作曲家として成功しているフレッド(マイケル・ケイン)にしても、病気の妻を見るのはつらいことだ。妻の表情は残酷の極みである。妻は老いと死の象徴として描かれているように思う。フレッドが妻の病床を訪れるというのは、老いと死を受け入れるということなのだろう。

マッサージ師のお姉ちゃんの踊りはしなやかだ。若さとは、そのしなやかさのことではないだろうか。ミックはブレンダに引導を渡されても(エア)ファインダーを覗き、七転び八起きのしなやかさを持っている。フレッドも頑なに拒んでいた「シンプル・ソング」の指揮を執る。身体は硬くとも心は柔らかに。老いを自覚する者こそ、しなやかにゆきたいものだ。
(原題:YOUTH 2016/10/29 あたご劇場)

Mr.ホームズ 名探偵最後の事件

ミスター・ホームズ人生死ぬまで勉強。論理だけでは割り切れない人の心のために物語がある。ホームズが論理に執着するのは、一種の職業病。引退から30年、齢90才を超えて職業病から脱し、深い後悔と孤独の果てに物語の大切さを学んだ。植栽や白亜の岸壁が美しい。イアン・マッケラン、ブラボー。

この映画の中には三つの物語(フィクション)があって、ひとつはロジャー(マイロ・パーカー)の亡き父が息子に語って聴かせた三題噺、もう一つはワトソンが傷心のホームズ(イアン・マッケラン)のために結末をアレンジした事件簿、そして、ホームズが母を亡くしたウメザキ(真田広之)に宛てた手紙だ。人が誰かのために物語るとき、そこには慰めや希望がある。
かつてのホームズは事実と論理が第一で、ワトソンがホームズ像を描いたときの付属品(ディアストーカーとパイプ)には否定的だったし、父のことを問うウメザキに対し、誠実にではあるが「覚えていない」と事実を伝え、ウメザキの落胆ぶりを見てもやむを得ずの構えだった。そんなホームズのままなら誰かのために物語をしたためるなんてことはしなかったろうが、アン・ケルモット(ハティ・モラハン)失踪事件の結末を思い出し、ロジャーとマンロー夫人(ローラ・リニー)の支えが必要な身となってみれば、ごく自然な変化だと思う。

アンとのベンチのシーンは哀しかった。アンを見送るホームズの表情が何とも胸に迫ってきた。ホームズは、ああ見えて情熱の人だが、自制が効くのだ。失敗はこの事件だけではなかったはずだが、孤独の共有ということでアンにシンパシーを覚えたために後悔も大きかったのだろう。また、当時よりもワトソンやマイクロフトが亡くなった現在の時点で思い出されることが哀しさが増すような気がする。(二人が亡くなったことが、私にとっても寂しかったのがオドロキだった。)

それにしても、ホームズはアン・ケルモット失踪事件の結末を忘れたかったはずであり、おそらく記憶を消し去ったのだろうに、「忘れたかった」ということを忘れてしまい、ロイヤルゼリーや山椒で思い出そうとするのが面白い(^m^)。でも、いちばん刺激になるのはロジャーとわかった(笑)。やっぱり死ぬまで勉強だ。
(2016/10/08 あたご劇場)

パレードへようこそ

「サッチャーと警察が炭坑夫の敵だ。俺たちLGBTと同じだ。」と閃いた主人公。
そうか、LGBTと炭坑夫は同じ敵と闘っていたのか~(笑)。
LGBTの人たちはカンパを集めて、ウェールズでストを継続中の炭坑夫とその家族に届け、ラストのプライド・パレードではその炭坑労組の人たちが労働組合旗を掲げて応援に来てくれた!
歌と踊りがいっぱいで楽しいうえに(ビル・ナイ様はあいかわらず色っぽいし)、垣根をとっぱらって手を取り合うことがどれだけ力になるかを示してくれた作品だと思う。職を失っても差別されても負け続けても、翻らない。それがプライド。でも、一人では心許ないんだなぁ。仲間がいれば心強い。国境も越えて手を取り合って共通の敵(誰?)と闘えば世界平和も夢じゃない。そういうでっかい気持ちにさせられた(笑)。
(原題:PRIDE 2015年高知オフシアターベストテン上映会 2016/07/02 高知県立美術館ホール)

追記

『パレードへようこそ』の感想を書かなきゃと思い出したのは、『怒り』の感想を書いていて、千葉、東京、沖縄の各地で鬱屈を抱えている人たちはバラバラに悩むしかないのかなぁ(人権感覚が備わった人が行う、もう少しマシな政治であれば悩みは軽減されるのではないだろうか)と考えたから。

怒り

もの凄いパワーのある作品だった。非正規労働、知的障害、性的少数者、借金地獄、圧政集中地域、母子家庭と様々な現代日本の問題が描かれており、ガツンと重いものが残る。あまり愉快でないシーンがいくつかあるうえ、犯人の歪んだ心と足りない考えに嫌~な感じがした。「怒り」はものごとを変える原動力になり得るのに、感情にまかせた結果があれだ。怒りの矛先を間違えないためには考えることが必要なのだ。犯人の八つ当たりっぷりには怒りを感じた。あそこまでの自暴自棄に陥るまでに何か歯止めが必要だと思う。
ただ犯人も含め皆、悩みや鬱屈を抱えて懸命に生きており、作品全体としては何かしら美しいものを見たという印象が残る。後味の重さを払拭するようなよいシーンがたくさんあったのだ。また、不信を乗り越えた人同士の結びつきは、一筋の光明でもあった。

私たちはもっと怒ってもいいのではないか?もっと叫んでもいいのではないか?踏みつけられたら踏みつけ返したり、また別の人を踏みつけるより、愛子(宮崎あおい)みたいに泣き、泉(広瀬すず)みたいに叫べ。
見たばかりのときは、問題丸投げ的な作品に思えて、もう少し解決策のようなものを示してくれたらよかったのにと思ったけれど、今思うのは、芸術は爆発だが生きるってことも爆発だってこと。(生きることが爆発だから、芸術は爆発なのかな。)
(2016/09/17 TOHOシネマズ高知8)