ゆるゆるでうとうと。(うとうとは、ほんの少しだった。)
登場人物の名前といい、言葉づかいといい、昭和の匂いがそこはかとなく漂う。ぼくのおじさん(松田龍平)は、昭和ならでは許されるキャラクターなのかもしれない。兄一家に居候し、週一の大学講師以外はぐーたら日々を過ごし、甥を守らず守られて、「いいとこないじゃん」と思った私は平成の世にどっぷりまみれ、効率主義の金畜生になっているのだろう。おじさんは何かというと、カントの辞世の言葉をドイツ語でつぶやく。「これでいいのだ」・・・・それってバカボンのパパじゃーん(笑)。世知辛い世の中、一時の休息を映画館で。そんな1本。
(2016/11/03 TOHOシネマズ高知1)
カテゴリー: 映画の感想
ハドソン川の奇跡
これぞアメリカ映画という感じ。
さらりと人間賛歌を撮ってしまうイーストウッド監督、おみごと。
ハドソン川への不時着が一人の犠牲者も出さずにすんだことがわかっていても手に汗握ったし、着水後、機長のサリー(トム・ハンクス)が飛行機の最後尾座席まで確認したものの、そこは既に水がまわっていて一抹の不安がよぎるのもうまい。全員無事とわかって安堵するサリーの気持ちにシンクロできた。乗客も老若男女様々な状態の人がいて、その人たちの命を預かる仕事の重責をひしひしと感じた。
付近で働く人たちが不時着を目撃して、それぞれの判断で救助に駆けつけるのも頼もしかった。
事故調査委員会が、近隣の飛行場に着陸できたのにハドソン川への不時着を選択したのは、かえって乗客を危険な目に遭わせたのではないかとサリーを問い詰めるのは、サリー自身想定内のことだったのだろう。だから答えも用意されていた。ただし、機械のシミュレーションによれば飛行場に着陸できたとまで言われるとサリーの確信も揺らぐ。そのときは「これしかない」と判断しても、その判断は正しかったのか誠実な人間なら自問を繰り返すだろう。そのうえ、道を歩けば英雄あつかい、調査委員には容疑者あつかいで、心の支えは妻(ローラ・リニー)と同僚ジェフ(アーロン・エッカート)だけだ。そのへんのもやもや感が、ホテルと夜の街の描写で伝わってくる。
公聴会で決着が付くのもアメリカ映画らしい。公の場で主張でき、論理的で合理性があれば認められる。主張できる能力がないとアウト・・・という厳しさはあるけれど、それも含めてアメリカらしいと思ってしまう。
ニンゲンであるが故に迷いがある、迷いも含めてシミュレーションしてほしいというサリーの主張には合理性があった。機械的な処理や判断は効率的でよいが、そこには「ニンゲンらしさ」がない。
公聴会のシメ、ジェフの一言もユーモアがあってよかった。こういうセリフもアメリカンだ(^_^)。
一人の悶々とする人間に焦点をあて、ニンゲンらしさを描いた作品、昔ながらのアメリカ映画だ。
(2016/09/24 TOHOシネマズ高知9)
グランドフィナーレ
サウンド+ヴィジョン=映画
お金持ちはいいなぁ・・・っていうのは置いといて、これは身体にいい映画だった。見る前は、ちょっと寒気がして風邪を引きそうな感じがしていたのだけれど、映像や音楽(音)にゆったりと浸っているうちに、あのホテルのスパで湯治をしたかのように血行がよくなっていた。
クスクスと笑いながら、たらたらと過ごせる取り留めのない作品だが、けっこう残酷だったりする。ミック(ハーベイ・カイテル)が作ろうとしている映画は、本当につまらなさそうだし(^_^;。ブレンダ(ジェーン・フォンダ)に引導を渡されるシーンは手に汗を握った。
指揮者、作曲家として成功しているフレッド(マイケル・ケイン)にしても、病気の妻を見るのはつらいことだ。妻の表情は残酷の極みである。妻は老いと死の象徴として描かれているように思う。フレッドが妻の病床を訪れるというのは、老いと死を受け入れるということなのだろう。
マッサージ師のお姉ちゃんの踊りはしなやかだ。若さとは、そのしなやかさのことではないだろうか。ミックはブレンダに引導を渡されても(エア)ファインダーを覗き、七転び八起きのしなやかさを持っている。フレッドも頑なに拒んでいた「シンプル・ソング」の指揮を執る。身体は硬くとも心は柔らかに。老いを自覚する者こそ、しなやかにゆきたいものだ。
(原題:YOUTH 2016/10/29 あたご劇場)
Mr.ホームズ 名探偵最後の事件
人生死ぬまで勉強。論理だけでは割り切れない人の心のために物語がある。ホームズが論理に執着するのは、一種の職業病。引退から30年、齢90才を超えて職業病から脱し、深い後悔と孤独の果てに物語の大切さを学んだ。植栽や白亜の岸壁が美しい。イアン・マッケラン、ブラボー。
この映画の中には三つの物語(フィクション)があって、ひとつはロジャー(マイロ・パーカー)の亡き父が息子に語って聴かせた三題噺、もう一つはワトソンが傷心のホームズ(イアン・マッケラン)のために結末をアレンジした事件簿、そして、ホームズが母を亡くしたウメザキ(真田広之)に宛てた手紙だ。人が誰かのために物語るとき、そこには慰めや希望がある。
かつてのホームズは事実と論理が第一で、ワトソンがホームズ像を描いたときの付属品(ディアストーカーとパイプ)には否定的だったし、父のことを問うウメザキに対し、誠実にではあるが「覚えていない」と事実を伝え、ウメザキの落胆ぶりを見てもやむを得ずの構えだった。そんなホームズのままなら誰かのために物語をしたためるなんてことはしなかったろうが、アン・ケルモット(ハティ・モラハン)失踪事件の結末を思い出し、ロジャーとマンロー夫人(ローラ・リニー)の支えが必要な身となってみれば、ごく自然な変化だと思う。
アンとのベンチのシーンは哀しかった。アンを見送るホームズの表情が何とも胸に迫ってきた。ホームズは、ああ見えて情熱の人だが、自制が効くのだ。失敗はこの事件だけではなかったはずだが、孤独の共有ということでアンにシンパシーを覚えたために後悔も大きかったのだろう。また、当時よりもワトソンやマイクロフトが亡くなった現在の時点で思い出されることが哀しさが増すような気がする。(二人が亡くなったことが、私にとっても寂しかったのがオドロキだった。)
それにしても、ホームズはアン・ケルモット失踪事件の結末を忘れたかったはずであり、おそらく記憶を消し去ったのだろうに、「忘れたかった」ということを忘れてしまい、ロイヤルゼリーや山椒で思い出そうとするのが面白い(^m^)。でも、いちばん刺激になるのはロジャーとわかった(笑)。やっぱり死ぬまで勉強だ。
(2016/10/08 あたご劇場)