人生死ぬまで勉強。論理だけでは割り切れない人の心のために物語がある。ホームズが論理に執着するのは、一種の職業病。引退から30年、齢90才を超えて職業病から脱し、深い後悔と孤独の果てに物語の大切さを学んだ。植栽や白亜の岸壁が美しい。イアン・マッケラン、ブラボー。
この映画の中には三つの物語(フィクション)があって、ひとつはロジャー(マイロ・パーカー)の亡き父が息子に語って聴かせた三題噺、もう一つはワトソンが傷心のホームズ(イアン・マッケラン)のために結末をアレンジした事件簿、そして、ホームズが母を亡くしたウメザキ(真田広之)に宛てた手紙だ。人が誰かのために物語るとき、そこには慰めや希望がある。
かつてのホームズは事実と論理が第一で、ワトソンがホームズ像を描いたときの付属品(ディアストーカーとパイプ)には否定的だったし、父のことを問うウメザキに対し、誠実にではあるが「覚えていない」と事実を伝え、ウメザキの落胆ぶりを見てもやむを得ずの構えだった。そんなホームズのままなら誰かのために物語をしたためるなんてことはしなかったろうが、アン・ケルモット(ハティ・モラハン)失踪事件の結末を思い出し、ロジャーとマンロー夫人(ローラ・リニー)の支えが必要な身となってみれば、ごく自然な変化だと思う。
アンとのベンチのシーンは哀しかった。アンを見送るホームズの表情が何とも胸に迫ってきた。ホームズは、ああ見えて情熱の人だが、自制が効くのだ。失敗はこの事件だけではなかったはずだが、孤独の共有ということでアンにシンパシーを覚えたために後悔も大きかったのだろう。また、当時よりもワトソンやマイクロフトが亡くなった現在の時点で思い出されることが哀しさが増すような気がする。(二人が亡くなったことが、私にとっても寂しかったのがオドロキだった。)
それにしても、ホームズはアン・ケルモット失踪事件の結末を忘れたかったはずであり、おそらく記憶を消し去ったのだろうに、「忘れたかった」ということを忘れてしまい、ロイヤルゼリーや山椒で思い出そうとするのが面白い(^m^)。でも、いちばん刺激になるのはロジャーとわかった(笑)。やっぱり死ぬまで勉強だ。
(2016/10/08 あたご劇場)