濃口コメディ。日本人には濃い過ぎると思いつつ笑えた。人生色々、アルゼンチン人もいろんな場面で我慢を重ねているのでしょう。そんな我慢も映画ならスイッチオン、爆発OK 。ただし、お金持ちの犯人偽装エピソードは、お金が一番大事というところは笑えても、なんか嫌な感じだった。好きなキャラクターは、猫いらずでの復讐を推奨した料理人。ものすごく同僚の身になって考えて、自分にも都合のよい行動に出て、思い切りがよく気持ちよかった。
(2016/01/10 あたご劇場)
カテゴリー: 映画の感想
タカダワタル的
タカダワタル・・・・、歌う落語家(笑)?
歌う詩人、歌う飲んべえ?飄々と生きているように見える。深いシワと諦めたような目の表情が、どうしてこんな顔になったのか不思議でしょうがなかった。人は声が細くなり、目に力がなくなって死んで行くが、この映画は高田渡さんの晩年だろうか。そう思いwikiを見たら、2005年に56才で亡くなっている。がーん。ショックだ。70過ぎのおじいさんと思って見ていたから、自分とたいして違わない年だったとは。
ふわふわと街を漂う姿も興味深かったけれど、ライブ中心のドキュメンタリーにしたところがよかった。リラックスできて前向きになれるライブだったことがわかる。寄席みたいな空気感だ。せっかくの寄席なのに(笑)、何を話しているのか聴き取りにくかったのは残念だ。でも、歌詞がわかったので本当によかった。
歌詞は詩になっている。平易な言葉が短く身近い。怒りと毒を完全に沈殿化し、美しく澄んだ言葉になっている。それがのんきなリズムとなだらかなメロディーで歌われる。バンドのアンサンブルもご機嫌だ。
「ブラザー軒」はハイライトシーンだと思った。どうやら亡くなった父と妹のことを歌っているようだ。カメラは歌う高田渡の顔にゆっくりズームインしていく。夢のように美しく、哀しさが沁みてくる。
「タカダワタル的」とはどんなことなのか、やっぱり考えてしまう。なかなか良いタイトルだと思う。
映画の中で柄本明は高田渡の生き方にあこがれても、ああいう生き方はなかなか出来ないと言う。それは自由を選択することの厳しさを言っているのだろうか?例えば、お金にこだわらない、お金から自由になるというのは、お金があってもイイがなくてもイイということであって、なくてもイイ生き方は厳しいから、なかなか出来ないという論理。
だけど、私たちは既に「タカダワタル的」なのではないかと思う。高田渡は詩人、歌手という表現者だから一般ピープルには確かに真似できないけれど、その歌のどれもが生活する人の視点から生まれており、大いに共感できる。今日の糧を探して地を這うアリンコ派でも、宵越しの金は持たないキリギリス派でも高田渡の歌がわかる人は「タカダワタル的」なのではないだろうか。
監督:タナダユキ
(2015/11/07 あたご劇場)
私の少女
見ている間中、何かもやもやしていた。映友に聞くと、あまりにもリアリティに欠けるのでもやもやしたのだそうな。確かに、「それはないだろう」というところが結構あったように思う。例えば、田舎の警察所長に左遷された主人公(ペ・ドゥナ)が、買い込んだ大量の酒をペットボトルに詰め替えるところ。そこで詰め替える?そもそも詰め替える必要がある?そんなに呑んで、それだけの酔い?などとツッコミを入れたりもしたけれど、ペ・ドゥナと少女ドヒ役のキム・セロンが可愛い~と思いながら見ている分にはリアリティに問題があってもそれほど気にならなかった。では私のもやもやは何だったのかというと、倫理的によろしくないことが行われている、それが原因だと思っている。ドヒは祖母と父に虐待されている。父はあこぎな雇用主でもある様子だが、警察は見て見ぬ振り。外からやってきた主人公はそのことに気づかぬまま。主人公の左遷された理由というのは秘密にはされているが(部下にはバレている)、それが左遷の理由となることの理不尽さ。秘密を抱えた主人公の閉塞感は、見ているこちらも息苦しい。そして、極めつけは少女ドヒの狂言レイプ。更に狂言と気づきながら主人公がドヒを見捨てて去って行くに及んでは、もやもやムカムカの頂点であった。しかし、奇跡の大逆転、ハッピーエンディングとなって、ホッとしたのと同時に思ったのは、子どもが生きのびるのはもの凄く大変なことなのだ、ということだった。昨今、いじめられ自死にまで追い詰められる子どもに、この映画のように頼れる大人(それは歩み寄ってくれた人)がいたならと思った。見てからしばらく経った今、もう一つ思い浮かんだのは、『ひとりで生きる』だ。ロシア版『大人はわかってくれない』とも言える作品で、こちらは大人から自由になりたい子どもだったが、やっぱり子どもが生きのびるのは大変なのだ。
(シネマ・スクウェア10月号 2015/09/11 シネマ・サンライズ 高知県立美術館ホール)
質屋
絶望を描いて成功しているため、重い重い(^_^;。
いろいろ演出が目に見えるところが、力作感を強める。
ロッド・スタイガー、役者!
ホロコーストで妻子を亡くし、一人だけ生還したソル(R・スタイガー)の傷は深い。同様の経験をしてきた女性とベッドをともにすることはあっても愛は育めず。孤独な者同士なかよくしましょうと近づいてきた女性を拒絶し、後にソル自ら助けを求めて彼女に会いに行っても、次元の異なる淵に落ちたソルを救いたくても救うすべなし。
だけど、そんなソルにも生きる力があるっていうのが作品の凄みだ。質屋の従業員ヘススが撃たれて死んだ。生きる屍状態のソルに亡骸を抱えて泣く力があった。その日は、妻子の命日なので、ヘススの死が妻子に重なる。いずれの死に際してもソルのなすすべなし。毎年、この日周辺は死にそうに生きていくのだろうなあ。
ホロコーストを初めて描いたアメリカ映画とのことだけれど、孤独というか・・・・、心の傷を癒すものが何もない絶望状態を描いた作品として心に残った。
「質屋」シドニー・ルメット ←ヒデヨシ映画日記さんへリンク
監督:シドニー・ルメット/1964年
(2015/10/04 小夏の映画会 龍馬の生まれたまち記念館)