ジェームズ・ブラウン 最高の魂を持つ男

この作品のジェームズ・ブラウン(チャドウィック・ボーズマン)は一筋縄ではいかない人物だった。ただ、その複雑さにはそれなりの理由があったり、目茶苦茶なようでいて実は理解できないほどではないことが、わかってくるような作りになっている。

例えば、バンドの仲間を裏切るような形で独立するは、独裁者のように意のままにリハーサルを取り仕切るはの所行の数々に耐えていた親友のボビー・バード(ネルサン・エリス)までもが、(思い遣りのないセリフに)ついに堪忍袋の緒を切らし(というか匙を投げて)、「お前は人との繋がりなんて必要ないんだろう。独りきりでやればいい。」と去って行く、その場面から、シアターでのコンサートが大成功した夜、生き別れの母(ヴィオラ・デイビス)と再会したときへとフラッシュ・バックして、母にお金を渡し、もう来るなと言いながら、内緒で経済的援助をするようにボビーに指示を出す。
あるいは、冒頭、理不尽な言いがかりでライフル銃を乱射した後どうなったか、忘れた頃(おしまいの方)に明かされる。息子ジュニアが亡くなり、薬をキメて・・・・冒頭シーンにカット・バック。その後、車で逃走し御用となったのであった。
それぞれのシーンに作り手が出した答えは、ジェームズ・ブラウンは「人との繋がりを大切にする」し、「息子を亡くした哀しみのあまり刑務所送りになった」ということのようだ。私が気づいたのはこの二つだけれど、時制を超えた場面と場面をパズルのようにつなげると万事このように、作り手の様々な答えが用意されているような気がする。

ジェームズ・ブラウンは、子どもの頃、貧しさのため親に捨てられたが、才能に絶対の自信を持ち、ギンギン・シャウトにキレッキレのステップと頭脳で抜け目なくしたたかにショービズ界を渡り、ステージではカリスマ、まさに破天荒を地でいった。恩人はマネージャーのベン・バード(ダン・エイクロイド)と親友のボビー・バードだった。そういう作品だったと思う。

ミスター・ブラウンと呼ばせるけれど、自分も相手をミスター付けで呼ぶところと、ライブシーン、よかったー!

牧野植物園に恐竜が!


「恐竜時代の植物たち」という特別展示のおかげで、花のない植物から種子植物へ進化していって、種子植物も裸子から被子へと進化していったということを初めて知った。習っているはずなんだけどねぇ(たはは)。
トンボに似た昆虫の化石(レプリカ)があって、その大きさが30cmくらいだった・・・・(^_^;。

野火

不思議と湿気が感じられなかった。そのせいか、ここで描かれたおびただしい亡骸からは臭いがしてこない。ちぎれた手足も傷口も鮮明で、きれいだと思った。塚本監督がトラウマになるくらいの描写を目指したと言っていたので覚悟して行ったが、正視できて私としてはありがたかった。

肺病で部隊と医療所を行ったり来たりさせられるところは、戦争につきものの理不尽さが早くも「出た・・・」という感じだった。途中で休んで芋を食べたらいいのにと思うけれど、そんな行動の自由はもちろん思考の自由も奪われているのだろう。
ギャンギャン吠える犬に脅えて発砲し、ギャーギャー叫く現地の女性に発砲し、同行の若い日本兵にも発砲する。「二度あることは三度ある」であり「三度目“も”正直」だった。田村一等兵(塚本晋也)が強い人間なら発砲なんかしないで対処できただろう。相手は銃を持ってないのだから。でも、ビビリは追い詰められると殺ってしまうのだ。私も同じタイプ(ToT)。

密林を幽鬼のように彷徨う兵士がいた。動けず自爆した兵士がいた。上映時間は短いが、他にも盛りだくさんだった。その中で一番強く感じたのは、「戦友は?仲間はどこ?」ということだった。「同期の桜」とか「同じ釜の飯を食った」とか、アメリカ映画でもネイビーシールズの仲間意識とか、ともに苦難に当たると結束力も強くなるというのは戦争の一面でしかなかった。

この作品から戦友とか仲間を感じることはできない。殺伐としている。この孤絶感。一応組織の体をなしている伍長(中村達也)の下でさえ、その部下をして「ここにいても良いことはないぜ。」と忠告されるのだ。
肉を食べるにしても、亡くなった仲間に手を合わせながらというのを想像していたので、狩りは想定外だった。それが事実でないとしても優れた作品は物事の本質を突いてくるので怖いところだ。安田(リリー・フランキー)も永松(森優作)も目的を失っているとして思えない。『地獄の黙示録』でも似たような狂った場面があった。上官もなく目的も失うとあんなになるのだろうか。
人肉食がなかったとしても、うえから書いてきたような体験は、なかなか語れないし、語りたくないと思う。

わからないところもあった。野火はラストシーンを除いても2回は出てきた。タイトルにまでなっているのに、どういう意味が含まれているのかわからなかった。
また、映像が赤っぽくなるところが何回かあったが、これも何か意味があるのだろうか。
焼け石に吐いた血が蒸発するところと塩のことは想像が及ばなかった。←言われてみればと目からウロコ。

戦争の一部分しか描かれてない作品だけれど(そもそも全部描くのは無理)、こういう一つ一つの作品を見ていくと、どのようにして戦争に至るのか(どうすれば戦争を防げるのか)、戦争は個人に社会にどのような影響を及ぼすのか、普遍的なことがわかってくる。そういう1本として良い作品だと思う。

なお、あたご劇場では、11月に市川崑監督の『野火』も上映される。

(2015/08/14 あたご劇場)

スケアクロウ

アメリカの地図
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は一応ロードムービーかなぁ?ロードムービーだとすると『激突』系かしらん。でも、ロードムービーと言ってまっさきに思い浮かぶのは『スケアクロウ』だなぁ、などともう一月以上も『スケアクロウ』のまわりをグルグルしていた。

初めて見たのは淀川長治さんのロードショー番組で(当地では土曜の午後に放送されていたと思う)、「最後のマッチを譲って煙草に火をつけるところから友情が始まった」というような解説をされていた。その頃『ゴッドファーザー』『セルピコ』をやっぱりテレビで見ていて男前アル・パチーノ♥ラブだったので、彼が演じるライオンが傷ついて精神錯乱に陥ってしまうのが可哀想でならなかった(ToT)。

80年代には名画座で上映されるたび見に行った。そうしているうちに、短気でけんかっ早く、疑り深くて着ぶくれのマックスが大好きになり、ラストのピッツバーグまでの往復切符を買うところでは胸がいっぱいになって、演じたジーン・ハックマンも大好きになっていた。

二人が出会ったのはカリフォルニアだったかな。マックスの目的地はピッツバーグ。そこで洗車の仕事を始めようとしていた。ライオンはデトロイトに身重の妻を残したまま蒸発していたので、数年ぶりに妻子に会いに。グーグル地図で見たら遠い~。
ライオンは子どもの性別がわからないので、ランプのおもちゃをお土産に買っている。お土産の白い箱を小脇に抱えての旅だ。白い箱と言えば、『幸福の旅路』という映画でも主人公が白い箱を抱えて旅をしていた。箱の中身はなんとミミズ!目的地でミミズを育てて農家に販売しようとしていたのだった。(ググったら主人公はベトナム帰還兵であり、生還したらミミズの養殖をしようと戦友と約束していたのだった。)こちらもテレビで見たが、よい映画だったという記憶がある。

ライオンがおそるおそる妻に電話したところ、子どもは洗礼も受けずに死んだと言われる。でも、妻の視線の先にはライオンそっくりな男の子が遊んでいる。このソックリ具合は明らかにライオンの子どもだ。作り手がパチーノ似の男の子を探してきたのだね。
こういう見た目は映画では大事だと思う。例えば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』では、どの子が成長して誰になるか、子役と大人の俳優を結ぶことができる。「ジェニファー・コネリーがエリザベス・マクガヴァンかい!?」というツッコミは当時からあったけど。(エリザベス・マクガヴァンは「ダウントン・アビー」で見たけど、素敵になっていた!若い頃より、断然今がいいわ~。)そういうツッコミは『スタンド・バイ・ミー』でもあった。「ウィル・ウィトンが長じてリチャード・ドレイファスかい!?」・・・・でも、現在のウィル・ウィトンを検索すると、その肖像はリチャード・ドレイファスで当たらずとも遠からずといった感じだ。
『時を駆ける少女』をいっしょに見た友だちとは、「(あの子役は)見ただけで尾美くんの子どもの頃ってわかる!」と語りぐさになっているし、最近では『ダークナイト・ライジング』で「あああ!あの子はマリオン・コティヤールだったのか!(ものすごく納得)」というふうに、子役がその俳優にそっくりだとそれだけで説得力がある。

『スケアクロウ』からチト離れてしまった。話を戻すと、マックスの厚着もブーツを枕の下にして眠るのも伏線になっていて、誠にうまい。「SCARECROW」は、「カラス脅し」か「カラスおどけ」か。脅してきたマックスと、おどけてきたライオンのバディ・ムービーとして心に残るロードムービーだった。

Opening Scene – Scarecrow; by Jerry Schatzberg (1973)
youtube。最後のマッチで煙草に火をつけるまで。この緩いテンポがいい。音楽がピッタリだ。

(監督:ジェリー・シャッツバーグ/1973/パルムドール受賞)