赤い季節

新井浩文と風吹ジュンが親子の役をやるというので観た。新井浩文がカッコイイのでビックリした。ちょっと目がハートになりかけたけど、踏みとどまった。というか、あまりにも演出と脚本がひどいので、ハートになりかかったのを邪魔された感じだ。なんでキリスト教???カメラを動かしたり、カットを刻んで人物をスキップさせたり、その場面に必要???カッコつけたカッコイイ映画を作りたかったのかもしれない。いやしかし、泉谷しげるの先輩が永瀬正敏なんだから、もしかしてコメディー?永瀬正敏は10年前に死んだ先輩ってことにはなってるんだけど(^_^;。キャスティングはともかく、俳優に救われていると思う。ツヨシ(新居延遼明)の無気力そうな身体と、虚無的に目の据わった感じもよかった。

監督:能野哲彦
(2012/11/10 TOHOシネマズ高知1)

北のカナリアたち

泣いた~(ToT)。えい話や~。
炭坑のカナリアみたいな話かと思ったら歌の方だった。
歌を忘れたカナリアを捨てるのは可哀想という話だった。
子どもたちが歌がうまくて!何曲か合唱してくれたんだけど、もっと聴きたかった!

この映画を観た後、吉永小百合の相手役(夫でも恋人でも)に適した男優がいるだろうかと暫く考えた。なかなか思いつかないので、いっそ、夫に死に別れた独り者をやってはどうだろう。お掃除おばちゃんか、レジうちと弁当屋の掛け持ちパートタイマーか。そして、理不尽な上司に仲間と直談判するのだ。とにかく体当たりが似合う。というか体当たりしか似合わない(?)。一目惚れした男性に猛アタックするのもいいかな。その男性は逃げまくるので、サユリストは信じられない思いで映画鑑賞(笑)。さて、その男性、誰がイイでしょう???

はる(吉永小百合)/夫(柴田恭兵)/信人(森山未來)/真奈美(満島ひかり)/直樹(勝地涼)/結花(宮崎あおい)/七重(小池栄子)/勇(松田龍平)/警官(仲村トオル)/はるの父(里見浩太朗)

監督:坂本順治
(2012/11/04 TOHOシネマズ高知6)

ギリシャ語通訳

ギリシャ語通訳メラス氏が、目隠しされた馬車でどこかの屋敷に連れて行かれ、顔中にばんそうこうを貼った男性の通訳をさせられる。男性は明らかに脅されており衰弱しきっていた。メラス氏は帰宅してからもこの男性が心配で、ホームズ(と言ってもシャーロックではなくマイクロフト)に相談する。そう、事件はどうでも、マイクロフト初登場の一編として楽しい。発表順に「緋色の研究」、「四つの署名」、「冒険」12編、「回想」8編と読んできた読者は、「なになに?ホームズの兄ちゃん?」と興味津々なのであった。

ワトソンの誇張した前振りも面白く、ホームズのことを「例外的異常人間」「心のない頭脳」「知能は抜群だが人情は欠陥者」で、女嫌いのうえに友だちをつくるのも嫌がり、子どもの頃や身内の話をしないから、てっきり孤児だと思っていたと言うのである。そりゃー、兄がいると聞いたら驚くわ(笑)。ベアリング=グールドによると知り合って7年も経つのにねぇ(^o^)。

で、マイクロフトも間違いなく変人で、「ロンドンでもっとも人づきあいが悪く、もっともクラブ嫌いの人間が入っている」ディオゲネス・クラブの創立発起人の一人なのだ。ディオゲネス・クラブの安楽椅子に新聞雑誌、おしゃべり無用の静かな空間は魅力的だと思う。お茶のサービスのある図書館か、ネットカフェみたいだ。
ディオゲネスは、樽の中の仙人として知られた哲学者ということを最近知った。子どもの頃読んだ偉人伝で、アレキサンダー大王に「何か願いはないか」とたずねられて、樽の中から「ひなたぼっこの邪魔なので、ちょっとのいてください」と言ったことで好きになったけれど、名前は忘れていた。どうやら変人の代名詞みたいで、マイクロフトも「変人クラブ」を創立するとは変人を自認していたのだなぁ(^m^)。

弟の方も変人は自認しているみたいで「芸術家の血統というものは、とかく変わった人間を生み出しがちなものだからね」と兄と自分のことを言っている。ホームズ本人の弁によると、先祖は代々地方の地主だったらしいが、彼の特別な能力は芸術家の血を引いているからだろうとのことで、祖母はフランスの画家ヴェルネの妹なのだそうな。ちなみに、オラース・ヴェルネをウィキで検索すると、ホームズが血縁だと主張していると書かれている(^_^;。

ホームズによれば、マイクロフトは「ぼく以上に同じ才能を持っている」が推理は趣味で、自宅と職場とクラブの軌道を外れたことがないし、マイクロフトによれば

「ホームズ家のエネルギーは全部シャーロックがひとり占めしてしまったんですよ」(東京図書、シャーロック・ホームズ全集第8巻P208、小池滋訳)

とのことだ。

私が、生きる肌

エンドクレジットの背景でDNAのらせんがうごめいている。豚の遺伝子が気になるところ(笑)。

いや~、面白かった!スペインって本当にオンリーワンの変な芸術家が続々と出てくるなあ。こんな話、アルモドバル監督以外の誰が思いつくでしょう。男と女、女と女、男と男、女だった男と女、男だった女と男・・・・、えー、順列組合せが苦手なのでこの辺でやめるけど、そこのところが柔軟だと話も無限大に広がるような気がする。
それにアルモドバル監督は、イイ趣味している。俳優の趣味がイイ。マリリア(マリサ・パレデス)、ビセンテの母(スシ・サンチェス)と母親タイプの俳優に淀川長治さんは泣いて喜びそう(?)。話も母ものだし。その他、性悪セカ(ロベルト・アラモ)を含め適材適所で感心するばかり。

いろいろ感じるところはあったけれど二つだけ。
ロベル(アントニオ・バンデラス)、その娘ノルマ(ブランカ・スアレス)、その一時のお相手ビセンテ(ジャン・コルネット)の三者は可哀想の三つ巴。誰が一番可哀相か考えだすと夜も寝られない。

もう一つは、ベラ(エレナ・アナヤ)の選択について。彼女がテレビのリモコンでチャンネルを切り替えると、チータが獲物を捕らえたシーン、魅力的な男前が映ったシーン、ヨガのシーンが出てくる。手術によって別人となったベラは、今後どう生きるかを三つの選択肢から選ぶ。食うか食われるかの戦いをいどむか、女性として男性を愛して生きるか、外見が変わっても自分自身であることを守っていくか。心身ともに強くしなやかに保つヨガを選んで本当によかった。だからこそ自分を見失わず、母親に再会できた。
ベラも可哀想といえば可哀相なんだけど、アルモドバル作品ではちっとも悲観する必要がないのがいいと思う。男の子を泣かして、女の子と仲良くすればいいじゃん(?)。気になるのは豚の遺伝子だけだ。

[追記]
もう一人の主人公ロベルについても、やっぱり書きたくなった。
私は、外見は他人のためにあると常々思っていた。誰が誰かを認識するためには外見が一番の判断材料であって、自分は自分であることがわかっているから、自分のためには(おしゃれやエチケットのためをのぞいて)自分自身を見る必要性はあまりないのではないかと。
ところが、この映画を観て、自分が自分であることを認識するには自分の外見を見ない方がよいくらいなものかもしれないと思うようになり、これって裏を返せば、自分を認識するのに外見に左右されるってことだよねぇと思い至った。簡単に言えば、ある朝、鏡を見ると他人の顔だった・・・・ってことになったら、「私は誰?」状態に陥るぞと(笑)。たかが上っ面のことなのに、本人でさえ外見で混乱してしまう。(ベラが自分を保てたのは奇跡のようなものか?ヨガって凄いな(?)。)

ロベルは、ベラの中身が誰かわかっていながら亡き妻似のベラに惹かれてしまい、彼女が自分を愛するようになると期待する。ベラへの仕打ちを思えば、よくそんな期待ができるものだと加害者側の罪の意識の薄さを感じたものだったが、そんな問題ではなかったようだ。大嫌いな人にそっくりな人をなかなか好きになれないように、大好きな人にそっくりな敵を好きになってしまう。見た目に左右されるな、中身が大事とは言うけれど、上っ面の縛りはきつい。

LA PIEL QUE HABITO
THE SKIN I LIVE IN
監督:ペドロ・アルモドバル
(2012/11/03 あたご劇場)