浅田家!

楽しいファミリー映画だ。
浅田家のインテリア、つかず離れずの家族の距離感、イイネ。
母(風吹ジュン)も父(平田満)も兄(妻夫木聡)も弟政志(二宮和也)も、それぞれに(^o^)。私は消防士さんになりたかった父ちゃんファン。
弟の彼女(黒木華)、弟にはもったいない(笑)。しっかりした人が、そうでない人とカップルになった方が上手くいくのね。

そして、やはり、写真は記録媒体であり記憶媒体であると意識させられた。
政志が東日本大震災後の東北に行って写真を撮れず洗っているとき、一方で被災者にカメラを向けている人が複数いた。多分、報道人だと思うが、これは写真の記録機能を活用しているのだと思う。家族写真を撮ってきた政志は記録よりも記憶の方により重きを置いている。芸術写真はどういうものなんだろう。記録か記憶か、その両方か、はたまた別のものか。木村伊兵衛賞、初めて聞いた。

政志の家族写真を写真集として出版した赤々舎の社長(池谷のぶえ)のキャラが最高だったので、検索してみた。
齋藤陽道の写真集も出していた。

赤々舎
“天才写真家”を次々と発掘 業界に風穴空ける女性創業者の「目利き力」 (1/7)
(2020/10/08 TOHOシネマズ高知7)

うたのはじまり

いろいろ触発される豊かな作品だと思う。
齋藤陽道の撮った写真に彼自身の感じたことを書いた作品(「それでもそれでもそれでも」という作品集になっている)をいくつか観たことがあって、いいなぁと思っていた。宮沢賢治の「春と修羅」の詩を写真で表現した写真集を出したと聞いて、観てみたいと思っていた時期もあった。それから幾年ゾ、予告編を見て、こんな美しい人だったのかと思い本編を観る気になった。

若いときは誰でも夾雑物がないゆえの美しさがあると思う。年を取っても美しい人は、澄んでいてまろやかで水底に沈殿物があるせいか奥行きのある美しさだ。齋藤陽道は、もちろん前者で人を惹きつけるとてもよい被写体だ。(50歳を超えた齋藤さんを是非、観てみたいと思った。)
その(ろう者で音楽も歌もわからないと言っていた)被写体を追っていると、子どもが生まれ、やがて子どものために自然と子守歌が生まれた。それを見ていた客人(友人の七尾旅人)が、原始の時代から「本当の」歌とはこういうもの(感じたことが歌になり周囲の人と共有するもの)だったのではないかと感動する。
「ろう者と音楽」という構想はあったかもしれないが、撮り始めたときは、齋藤陽道が歌うことも七尾旅人がまとめになるような素晴らしい発言をすることもわからなかったわけだから奇跡のような作品に思える。(即興の歌が韻を踏んで詩になっているのは、斉藤陽道が詩人だから。マンガを描くことには驚かなかったが、プロレスラーだったことには驚いた。)

歌うと気持ちがいいと言っていた。また、絵や写真は生存本能の発露であるとも。そのとおり!言葉にしてくれてありがとう。絵や写真に限らずアート全般(歌も、ついでに感想を書いたりおしゃべりも)、表現、出力、アウトプット、排泄、どう言ってもいいが、それは芸術家でなくても必要なことだ。まさに生存本能の発露だ。同時に入力だって必要なことだ。出したら入れる。入れたら出す。どちらが先かはわからないが、どちらも必要。
新型コロナウイルスで芸術・文化も保護施策の対象としたのはドイツ政府だったか、どこだったか。わかってるね!『うたのはじまり』を観て思ったことの一つだ。

ろう者も楽しめるように音楽が、五線上の絵になってスクリーンの下を流れる。生き物みたいで面白かった。
(2020/10/07 ゴトゴトシネマ メフィストフェレス2階シアター)

37セカンズ

いや~、よい作品だった(^_^)。
ユマ(佳山明)が母(神野三鈴)のことを「過保護で困ってるんですよね~」と言うのを聞いて、ユマ、私より大人じゃん!と思った。私は、あのお母さんが本当にゴメンだわと思って見ていたので(父から来たユマ宛の手紙を隠すの、ダメでしょう)。心配するのはもっともだけど、もう少し離れたところから子どもを見ていたら、お母さん自身も楽になるのに。でも、お母さんのお陰でユマちゃんも自立できる大人になったと思うので、お母さんに感謝。そして、お母さん、育てて、育ってくれて、よかったね!ユマの大冒険のお陰で、生き別れになったままの、もう一人の子どもにも会えるよ!(ToT)

冒険は未知への好奇心と怖いもの知らず(ユマの場合)。やっぱり若いね!歌舞伎町へ行ったり、男娼を買ったり、父を訪ねたり、姉に会うためタイに飛んだり!その行動力は、自分に正直な心があってこそなんだろう。タイで会った双子の姉が、障害があると聞いて会うのが怖かったと打ち明けてくれた。そのように未知は怖いものなのだけれど、ユマの想像力はビルの夜景が笑っている宇宙人に見える(宇宙人から見れば私の人生なんて夏休みの宿題と考える)くらいポジティブなのだ。ユマが、ユマの心と体を23年間体験してみて、この私でよかったと言えるのは、彼女の生まれつき持っていた性質と、愛情いっぱいのお母さんのお陰だろう。
幼なじみに利用されていることに気づかなかったのも、無知もあるけれどネガティブな考えをあまり持たないからだと思う。

映画のその後は、ユマの漫画が大ヒット、サイン会には行列、お母さんはタイへ旅行中。アカルイミライしか思い浮かばない作品だった。
(2020/09/28 あたご劇場)

ミッドナイトスワン

娯楽映画だから楽しんだ者勝ちなんだけど、「あの汚部屋を短時間に一人でこれだけ綺麗にできる?ウソん。」とか細部にツッコミどころが随分あったことと、屋上からの飛翔や露わになった胸や紙おむつの血など、目覚ましポイントが数々仕掛けられていて(退屈はしなかったけれど)引いてしまった。
また、トランスジェンダーの悲劇になっているのが私には面白くない。もっとも悲劇ではなくて、当初、反目し合っていた凪沙(草彅剛)と一果(服部樹咲)が心を通い合わせ、一果は凪沙の分も強く生きていけそうだから、めでたしめでたしと受けとめることはできると思う。
だけど、バレエコンクールにおいて、踊れず棒立ちの一果をステージに駆け上がった母が抱きしめるのを見た凪沙は、タイへ飛んで女性になる手術をし、一果を実家に迎えに行き「女の身体になったから母親にもなれるのよ」と言って修羅場を演じて願い叶わず、手術も失敗と後でわかるというのが堪えた。あそこまで行くと凪沙が一果依存症になったように思えて怖かった。それに東京での二人は充分親子っぽいと言うか、心が通い合っていたのに急いで手術する必要があるのかと思った。母親でも子どもの毒になる人はいるわけだから、まずは子どものためを思う心の方が大切で凪沙は既に母親だと思うんだけど、それはトランスジェンダーの気持ちがわかってないのかもしれない。要は心身の性別の一致が先決ということだ。
それでもタイへ飛ぶ必要があるのかしらん、性別適合手術は保険が利くようになったはず・・・・と思ってネットを検索したら、ホルモン投与(保険適用外)の履歴がある人は手術も自費(百万超え)という、よくわからないことになっていた。

一果とりん(上野鈴華)の場面で、「一果、変わったね」「変わってないよ」と一果がりんの言う良いことを否定し続けキスに至るところ、面白かった。
(2020/09/29 TOHOシネマズ高知7)