今、『ノマドランド』を思い出している。共通するところのある作品だが、『ノマドランド』は見終わってすぐに問題作だと思ったのに、本作には詩のようなものを感じている。
見始めは、目に新しいトーキョーだな、盆栽や銭湯などの文化だけでなく地下街の猥雑なところや汚れまでも美しく撮影されて外国人受けしそうだなと思い、自分自身も楽しんだ。主人公のカセットテープの音楽も聴いたことのある曲がいくつかあって、音楽が国境や世代を越えることを実感した。でも、ビルやトイレの掃除は中高年の女性が多いと思っていたし(今は変わっているのだろうか?)、室内で栽培している盆栽は幼木であっても屋外でもう少し陽や風にに当てた方がいいのではとか思ったし、現実世界はもっとあくせくしているので、箒で掃く音で目覚めたり、人が目にとめないものを見つめたり、密かなちいさな楽しみをいくつも持っている「この作品≒主人公の平山(役所広司)」は浮世離れしていると思った。平山は人との軋轢を逃れ、自分でも気づかないうちに結界にこもった都会の仙人なのだ。
そして、正にその仙人に私は長年憧れてきた。浮世のしがらみのない山奥の澄んだ空気の中で霞を食って生きる。
平山は父との関係で酷く傷ついている。大抵の人は、若いとき傷ついても様々な経験を経て反省したり、あるいは許したりすることができて、親の死に目にうん十年ぶりの再会などというのはよくある話のような気がするが、平山は傷ついたままだ。妹が「昔の元気な父じゃない」と会うことを勧めても出来ない。また、おそらく挫折を知らない妹たちを住む世界が違うと言う。そんな哀しいことを言うなよ(T-T)。仙人は哀しい。
うん十年ぶりのヴィム・ヴェンダース監督作品だったが、やっぱり合う。『パリ・テキサス』『都会のアリス』『ベルリン天使の詩』、ほとんど忘れてしまったが、主人公は人間関係の軋轢みたいなものは大の苦手だったのではなかったっけ?
何を着ても似合うのは良い俳優の条件で、役所広司は軽くクリアしている。何も身につけないでもカメラの前で自然に振る舞えるというのも条件に加えるべきなのかも(?)。そうするとカンヌ国際映画祭で俳優賞を受賞できる。あれ?違う?長回しのアップに耐える表情筋の鍛え具合だろうか。
(2023/12/25 TOHOシネマズ高知5)