読書メモ_2024

あまり本を読まなかった。ということは図書館へもあまり行かなかった。ということは、あまり歩かなかった。ということは、悪玉コレステロールが増加するのも無理はない。増加し始めて10年以上経っている。ということは、そろそろ血栓ができているかもしれない。毎日お酢を飲んでいた年は少し減っていたので、また飲もうかな。


●昭和とわたし 澤地久枝のこころ旅:澤地久枝(文春新書)
 ・・・・澤地さんの著作から数行ずつピックアップして、その内容によって六つの章にまとめられている。澤地さんの著作も半生もわかるような内容になっているので、一冊も読んだことがない者にとっては澤地久枝案内のような本になっている。本書の著作者は澤地さんだが、ご本人のあとがきによると全著作を読んだ石田陽子さんが編んだもののようだ。/引揚げのときの様子が生々しい。いつ停まるか、停まったらいつ発車するかわからない列車に乗ったとき排泄はどうするのか。列車の下に潜り込み、用を足したそうだ。いつ動き出すかわからないから命がけだ。また、博多港外の帰還船上の検疫は、何の囲いも覆いもない船尾甲板で裸になり、肛門にガラスの棒を突っ込まれて採便されたとのこと。月経中の人もお構いなし。下の話は恐怖と羞恥が強いので、やはり印象に残る。/心臓の手術を数回、他にも重病を患われたことがあるというのに驚いた。/向田邦子さんの思い出もなかなかに染みる。/「妻たちの二・二六事件」「石川節子 愛の永遠を信じたく候」あたりから読んでみたい。でも、まずはドナルド・キーンさんの石川啄木の評伝を読んでから。/「わたしの満州 戦前から戦中を過ごして」「棄民となった日々 敗戦から引揚げ」「異郷日本の戦後 わが青春は苦く切なく」「もの書きになってから 出会ったひと・考えたこと」「心の海にある記憶 静かに半生をふりかえる」「向田邦子さん 生き続ける思い出」

●鹿男あおによし:万城目学(幻冬舎)
 ・・・・積ん読崩し。/奈良は6、7回は行ったことがある。そのきっかけを作ってくれた言わば奈良友が5年前に贈ってくれた本だ。映画『プリンセストヨトミ』『偉大なるしゅららぼん』の原作も万城目さんだとか。/奇想天外というか、アホらしいと言えばそうだが、気楽に読めて面白い。何より大仏殿の裏手の講堂跡の礎石や転害門がよくでてくるのがいい。大仏池とか大好きな場所だ。しかも秋の奈良だ。「虎に翼」で寅子(伊藤沙莉)の額を見るたびに興福寺の八部衆の誰だっけ(検索したら五部浄像だった)に似ていると思っていたが、本を読むと会いに行きたくなった。平城宮跡の原っぱもいいなあ。グーグルマップでイロイロ見てしまい、あっという間に時間が過ぎた。
2024/10/01

容堂印譜

●異人たちとの夏:山田太一(新潮社)
 ・・・・話がわかっていても面白く読めた。笑いもあっていい。やはり両親との別れの場面は泣ける。/大林宣彦監督の『異人たちとの夏』は大分忘れているものの、ほぼ原作どおりだと思った。原作ではケイが正体を現したとき、原田英雄(語り手)はそれでもいいと思ったのが意外だった。まあ、それでもいいということにもならないので別れることになるのだが、原田としては両親とともにケイにも「ありがとう」と言う。離婚して(する前からだけど)息子とも疎遠で、一番の仕事仲間である間宮が元妻とよい仲だと知って孤独を深めていた原田には、無条件で自分を慈しんでくれる両親と、愛を感じたケイが救いになっていたのだなぁ。(私はすっかり忘れていたが、映画でもケイに感謝するシーンがあったようだ。)/もう、いっしょに仕事をすることもないと思っていた間宮が心配してくれ、彼のおかげで生還できたようなものだし(やはりケイはその心情は複雑だとは思うけれど両親とは異なり悪霊としたものだろう)、現世の縁も捨てたものではない。供養できるのは現世で生きる力があればこそなんだろう。
2024/06/24

●臨書の疑問100:「墨」編集部編(芸術新聞社)
 ・・・・臨書を作品にする場合は、完全コピー(形臨)ではなく文字の大きさや傾き中心のズレなど体裁を整えるようだ。なんだか思ったほど参考にならなかった。まだ参考になるほどの腕前になってないのだろう。
2024/06/05

●落款の疑問100 押印と署名のテクニック:「墨」編集部編(芸術新聞社)
 ・・・・ウェブ上でハンドルネームを使うように、書作品に署名する名前(雅号)をつけることは知っていたが、書いた場所(例えば家とか部屋)にも風流な名前をつけることは知らなかった。その解説も面白く、号をつければ普段使っている部屋も浮世を離れた別世界(この場合は書の世界)になるとのことだ。すっかり乗せられて部屋に名前をつけようと思い妹に説明したら、たいへんよい名をつけてくれた。綿雲堂、その心は綿ぼこりがふわふわしている部屋(^_^;。雅号は既につけていて、茶風(チャップリンの「ちゃっぷ」)。名前だけ一人前だ。実に楽しい。
2024/04/20

●ロデリック・ハドソン:ヘンリー・ジェイムズ著、行方昭夫訳(講談社文芸文庫)
 ・・・・ヘンリー・ジェイムズの初期の傑作とのことで、待望の新訳。行方昭夫先生(1931年生まれ)がきっと訳してくださると思っていた。文庫本で2,400円には驚いたが、否応なく買いだ。/やっぱり大変面白かった。三人称の小説ではあるが、ローランド・マレットの視点で書かれており、彼の一人称小説のようなところがある。だから、彼が恋しているメアリ・ガーランドが彼に対して好意的であるような記述はまったく信用できない。/親の遺産で遊んで暮らせるが、厳しく育てられ忍耐と節度の人となっているローランドが彫刻に天才的な腕前の野生児ロデリックを見いだし、マサチューセッツ州のノーサンプトン(田舎)からローマへ連れて行く。ロデリックは大成功を収めるも、絶世の美女クリスチーナ・ライトに血迷い彫刻の仕事も婚約者メアリもそっちのけで、自己嫌悪の果てに自殺するが、ローランドは事故死と思っている節。という話。/ジェイムズの十八番であるヨーロッパ人とアメリカ人の対比や、本作独自の芸術家論に加えて、登場人物像を読み手が練り上げていく面白さがある。/ロデリックは、子どものようだと思う。言われたことを言われたまま受け取る。ただし、彫刻に関しては自信がないので、グロリアーニに誉められても皮肉と受け取っている。ローランドを信頼していて期待に応えたいと思っている。スイスのお山で口論になったとき、初めてローランドの期待は純粋なものではなく、ロデリックの放蕩やローランドにしてみれば浮気に思えるクリスチーナへの思いを苦々しく思っていたこと、彫刻の才能も見放されていたことがわかったのだと思う。彫刻の才能を見放されたことは、ロデリックにとっては絶望だったと思う。/クリスチーナは、『白痴』のナスターシャに少し似ていると思った。毒母の犠牲者であるけれど、この時代女性が生きて行くには玉の輿に乗るのが一番という母の気持ちもわからないではない(娘のためでなく自分が楽に暮らしたいためだから毒も毒だが)。クリスチーナは自分らしく生きられないので、自分らしい自分ってどんなだかわからなくなりそうなのだと思う。ローランドには一目置いていて誠実に接し、一目置いた人に自分を評価してもらいたいという気持ちだったのであって恋愛感情はなかったと思う。/そんな不安定なクリスチーナの対極にあるのがメアリだ。抜群の安定感。ローランドの従姉妹の次に大人。でも、あまりにも寡黙。ロデリックとその母が帰国したいと言い、ローランドがメアリの気持ちを慮って(的外れにも)帰国しないとリーダーシップを執ったとき、黙っていたのはいただけなかった。/ローランドは困った人だ。最も節度と良識があり審美眼に優れ、人を見る目も備わっているように思っていたが(なにせ彼の一人称的小説だから)、人を見る目についてはそれほどでもなかった。それともメアリーに対する恋心とロデリックに対する恋敵的心情を相当に割り引いてやるべきだろうか。
2024/04/07

●モナリザの微笑:オルダス・ハクスレー、行方昭夫訳(講談社文芸文庫)
 ・・・・訳者が選んだ短編集。/「モナリザの微笑」主人公のイギリス紳士と三人の女性(妻、愛人、会話での恋愛遊戯の対象)の話で妻の殺人事件の容疑者となってしまう。笑えたのはモナリザの微笑をたたえた人が彼に本気だったとわかる場面。雷鳴とどろきおどろおどろしい(笑)。/「天才児」語り手は、移住先イタリアで出会った少年が音楽の天才ではないかと思うが、しばらくして音楽ではなく数学の天才だと確信する。天才というだけでなく語り手の子どもの相手もしてくれる、とってもよい子。しかし、語り手の大家がその子を養子にしてしまい悲劇的な結末に(ToT)。/「小さなメキシコ帽」語り手が被っていたメキシコ帽のお陰で面白い出会いがあった。若い伯爵(軍人でもある)とその父の伯爵。父伯爵は息子の前ではボケを演じ、国外では生を謳歌している。/「半休日」ロンドンで土曜日が半ドンだった頃の話し。皆が春の半ドンを楽しんでいるとき、ボロ靴で恋人なしのピーターはいじけたくもなるが、前を行く令嬢がもし足をくじいたらと恋の芽生えを妄想する。どの話も面白かったけれど、この話が一番だった。ピーターは滑稽でもあるけれど、その妄想や「たられば」の虚しさに共感もできる。/「チョードロン」財界のゴッドファーザー的人物チョードロンを傍で見ていた文芸の才を錆び付かせた男ティルニーが、語り手に別の顔のチョードロンを話して聴かせる。金儲けには秀でていたが(それゆえか)子猫ちゃんに骨抜きのチョードロンの滑稽と異様。ティルニーだって文芸の才を磨かず、しゃべくりオタクとなっている滑稽と異様を自覚している。人間て難しい(笑)。
2024/02/25

●メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会:ノーム・チョムスキー著、鈴木主税訳(集英社新書)
 ・・・・2003年4月発行の本だけれど、状況は今も変わってない。民主主義といっても権力者にうまくコントロールされており、情報に対して受動的であれば権力者の思いどおりの市民でいられる。自分は少数派だろうと思っていたら、そう思わせるような情報しか流れてないせいとのこと。(仕入れた情報を仲間と共有して意見交換することの重要性は今も昔も変わりないと思う。)/それよりも当時70歳代のチョムスキーがとんがっているのに驚いた。ものを言わず行動しない知識人を批判している。インタビューした辺見庸もタジタジだ。何かを言ったり行ったりすれば、それは批判(炎上や脅し)の対象となるわけで、それがどうした、アメリカでも日本でもそれで牢屋に入れられるわけではないと息巻く。それはまあ、そうだけど、知識人でもその勇気はなかなか。そうして言論が萎縮していくわけで、その先もわかっているけれど。この本とは別のインタビューでアメリカは徐々にではあるが良くなっていくと言っていた。おそらく行動する知識人をバックアップできる大衆の成長について希望を持っているのだろう。なんにせよ仲間は大切。
2024/01/25

○西脇順三郎 日本の詩:(ほるぷ出版)
 ・・・・ドナルド・キーンさんが世界に通用する日本の詩人と書いていたので読んでみた。何回も読まないと頭に入ってこなかったので、延長しても返却期限までに読み切れなかった。私には難しかった。/句読点にも意味があるのでしょうね、もちろん。

   皿
黄色い菫が咲く頃の昔、
海豚は天にも海にも頭をもたげ、
尖つた船に花が飾られ
ディオニソスは夢みつつ航海する
模様のある皿の中で顔を洗つて
宝石商人と一緒に地中海を渡つた
その少年の名は忘れられた。
麗な忘却の朝。

詩集「Ambarvalia」より

朝の食卓に着いてハムエッグか何かの載った皿を見ながら、まだ覚めきっていない詩人の頭に浮かんだことのように思う。きっと天気のよい日だと思う。この詩集は「皿」以外の詩も煌びやか。つぎの詩集「旅人かへらず」はしっとりと秋冬な感じ。/私の場合、何を象徴しているかとか、どういう意味かとか考えながら読まない方がイイみたいだ。詩人の頭の中は宇宙で自由で言葉が舞ったり潜ったりしているとわかってきた頃から、次は何を言い出すのか面白くなってきた。時空間の移動があったりして面白い。本当に詩人の頭の中にいるみたいな感じだ。多分、詩人の狙いどおりの受けとめ方ではないと思うが、私のレベルに応じた受けとめ方になるのはやむを得ない。
2024/02/07

デ・キリコ展

やっぱり、実物を観に行ってよかった。絵画の中の物だけでなく空間が立体的に見えて面白かった。

デ・キリコ展で観た絵の画像
「運命の春」

左の画像「運命の春」は、天井を見ると角のところは部屋の隅だと思えるが、床の方を見ると壁が切れている。画像ではわかりにくいけれど、実物を見ると壁が切れているだけではなく奥(の部屋か何か)へと続いているように見える。他にも「球体とビスケットのある形而上的室内」など奥行きとか浮遊感のある絵や、反対に狭く窮屈な感じのする絵もあった。

上の画像は、左から「形而上的なミューズたち」(図録表紙)、「弟の肖像」、「神秘的な水浴」。
図録は読むのを楽しみにしていたが、作品ごとの解説の文章が硬く内容も難しく、なんべん読み直しても全く頭に入ってこず、買ったのを後悔しているところ。(追記:後の方の長文の二つの記事の方はもっとわかりやすそうだ。)

「弟の肖像」は妹賞。私も好きだ。「死の島」などのアルノルト・ベックリンの影響を受けているという。同じくベックリンの影響下の「山上への行列」も二人のお気に入り。自画像を観て妹は「自分が好きな人」と言っていた。そういえば昔、老年期の全裸の自画像を見て私も同じことを思ったような気がする。自画像は粘りのあるタッチとくすんだ色合いが目立つなぁ(笑)。

「神秘的な水浴」は姉賞。一番笑わせてもらった。サインの下には「1939」と記されているけれど、プレートでもカタログでも「1965頃」となっている(謎)。

憂愁の形而上絵画を期待していたが、その上をいく笑える絵がいっぱいで(古典的な絵でさえ可笑しい)大満足だった。彫刻や舞台衣装なども展示されていて、あれもこれも少しずつではあるものの、90歳で亡くなるまで生涯現役の芸術家の仕事を一通り案内してもらえた感じがした。
(2024/10/25 神戸市立博物館)

容堂印譜

冊子「へそまがり大名の自画像 容堂印譜」高知県立高知城歴史博物館の表紙画像

5年前から買っときゃよかったと気になっていた冊子を手に入れた。幕末の土佐藩主、山内容堂の雅印124顆(未完印3顆を含む)の原寸大の印影と印面及び外観の写真に印文の読みと短い解説がついている。側款の拓影はないが款文は掲載されている。

尾本師子学芸員による巻頭の一文「へそまがり大名山内容堂の雅印についての一考察」も面白くためになる。藩主の子は江戸で育つが、容堂は分家の子だったので土佐生まれ土佐育ち。容堂を絡めて幕末のごちゃごちゃも簡潔にまとめてくれてあり助かる。文人、容堂の解説にあたっても、和漢の古典に通じた教養があり、漢詩・漢文・中国風の山水画・人物画をモノするのが文人であり、当時の支配階級などに(武士や町人まで文人に憧れる人も)大勢いたとことがわかった。そして、容堂が依頼して作った印の印文などから、酒飲みのへそまがりという人物像が浮かび上がるので冊子の副題は「~の自画像」というわけなのだ。幕末の殿様は「いごっそう」だったのね。

うえの画像の右上の印影は「厳璋之章」。厳は字として使用しており、「厳しい」でも「厳か」でもなく、現海南省北東部にある樹木の名であり、この木は水に浸すと酒を生じるらしい。璋は名前として使用しており、玉器の圭を縦半分にした玉器で才智不完全を意味するとのこと。章は印のこと。

そのすぐ下の印影「酔中真味」は、酔いの中にこそ人生の真の味わいがあるという意味。更にその下の「美禄」は漢書中の「酒は天下の美禄なり」から。一番上の縦長の印「酒非丹醸不可酔水非鴨河不可飲」は、「酒丹醸(伊丹)にあらざれば酔うべからず、水鴨河(鴨川)にあらざれば飲むべからず」で土佐藩の篆刻家、壬生水石の刻。

表紙画像の中で一番大きな印影「学書者紙費学医者人費」は、「書を学ばば紙のかかり、医を学ばば人のかかり」と読み下し、書の上達のためには紙を沢山使わなければならず、医術の上達のためには患者を大勢死なせなければならないという意味で、北宋時代の文人、蘇軾(蘇東坡)の「墨宝堂記」からとった容堂お気に入りの詩句とのこと。5年前は書道に入門する前なので蘇軾なんて知らないから、買うのが今になってよかったかも。

安政の大獄で蟄居中は「武陵罪人」なんてのを使用したり、ドラマで見る蟄居とは違って余裕?

印材は鶏血石、水晶、銅、竹の根などで、鈕(判子のつまみ)が獅子などの動物や羅漢だったり、薄意(表面の彫刻)は全面に蓮の葉や花が施されていたりで財力を感じる。また、金襴の仕覆や箱が付属しているものが多く、仕覆の底面や箱に白絹を貼って印の材質、鈕の形、印文、刻者名の書き入れがあるという。

昔から判子やスタンプが好きだった。三個のスタンプが毎月送られてくる通販を契約したこともあったし、年賀状などのハガキの落款用に喜々として既製品を買ったり、書道を始めてからは落款印、他にもほしい~と思う。だけど、判子って立体立体しているからなぁ。(文鎮の類いの文房具が部屋のあっちこっちに転がっているのに(^_^;。)立体でも帳面ならまだいいかと思う。御朱印や県内の博物館などのスタンプを集めるのは楽しそうだ。ただし、定規を当てても直線が引けない粗忽者が、きれいに判子を捺せるかどうか。かすれた印影のスタンプ帳を見るのはゴメンだ。

「一捺入魂」と毛筆で書いた画像

俳句の読み

今月から俳句を始めた。これまで4、5年に一句くらい作っていたのを、ほぼ毎日。俳句のいいところは、映画や書道と異なりスキマ時間に頭の中だけでできることと、季語を覚えると今まで見えてなかったものが見えるようになることだ。(20年くらい前、俳句をやっている上司が「竹の秋」「竹の春」という季語を教えてくれて、春に竹の葉の吹きだまりを見つけたり秋に若い竹林を目にするようになった。)

俳句のできにこだわらなければ月並み句や、それ以下のものができる。ちょっとマシと思うものができても、「ああ、自分でそう思っているものが『プレバト』で夏井先生に赤ペンだらけにされるのだな」と出演者の気持ちがわかるようになった。
書道は鑑賞ができなければ書けないし、書けなければ鑑賞も難しい。俳句も多分、同じだろうと思う。だから、読みができない今、詠みもできなくて当然なのだ。なんとか読みの方ができるようになりたいものだ。

夏井いつき先生のyoutubeチャンネルで紹介されていた藤田湘子著「20週俳句入門」(角川ソフィア文庫)を買って読んでいるところで、課題の名句四句を暗誦できなければ翌週にすすんではならないというルールがある。その名句のひとつ、水原秋桜子の「ふるさとの沼のにほひや蛇苺」を読めたつもりでいたのだが、後に載っていた解釈とは全然違っていた。私はてっきり、ふるさととは違う場所に住んでおり、そこで蛇苺を見つけてふるさとの沼の匂いを思い出したのだと思っていた。蛇苺ってどんな匂いなんだろうとも思っていた。ところが、ふるさとの沼に来ており「ああ、以前と変わらぬ匂いだなあ!」と思って、ふと足下を見ると蛇苺があったということらしい。この場合、切れ字の「や」が「にほひ」を強調しているので、実際沼に来ていることになるようだ。作品の解釈は十人十色でよいけれど、法則を知ったうえでの解釈でないととんちんかんなことになるのだと思った。

今、第7週目の名句を暗記しているところで、ここに来てやっと私も名句と思える好きな句が出てきた。渡辺水巴という明治、大正、昭和を生きた俳人の句だ。

庭すこし踏みて元日暮れにけり

珠数屋から母に別れて春日かな

ぬかるみに夜風ひろごる朧かな

月見草離ればなれに夜明けたり

月見草の句は「ばなれ」の表記がひらがなの「く」のような字に濁点。

元日の句(朝寝して迎え酒、お昼にお雑煮を食べて、うとうとして目覚めて、お節をつまみに又御神酒。明日、投函する賀状をしたためようかと思いつつ、あれ、もうこんな時間、少しは外の空気でもと思い庭にすこし出ただけで終わってしまった元日よ。)

春日の句(数珠がなかったのかそれとも新しくしたのか、作者は数珠を買いに行った。葬儀、告別式を無事終えて見上げる空に母はいるのか、春の日の光が柔らかい。)

朧の句(春とはいえ夜はまだひんやり。道なりに続くぬかるみに湿り気を帯びた風がゆるゆると吹いている「もあもあ」であるよ。)

月見草の句(夜が明けてみると月見草は終わっているのね。あなたと私の仲のよう。)

俳句の勉強をした何年か後、この解釈がどのように変わるのか、書いたことを覚えておきたい。