ポエトリー アグネスの詩

詩は感じたことを書けばいいと思う。それにリズムがあれば鑑賞に堪えうるし、美しさや普遍性があれば後世にまで残ると思う。
私の考えでは、感じたことを書けば一応は詩になるので皆詩を書けるはずだけれど、この映画を観ていると現代人は「感じる」ことができなくなっているのかもしれない。例えば、ミジャ(ユン・ジョンヒ)の孫は、友だちといっしょに同級生の女の子を半年の間強姦し続け、女の子は自殺したというのに、その事実を恐れる様子もない。また、加害少年たちの父親は示談でカタをつけるのにやっきで、女の子やその遺族の痛みに思いを馳せることはない。
感じる者と感じない者のコミュニケーションの断絶が、ミジャをおしゃれで変わったおばさんとして孤立させる。ミジャが、病院で見た可哀想な母親の話を会長の娘にしようとしても、接客とレジうちに忙しい会長の娘は話を聞くどころではない・・・というか無関心というありさまだった。(ソン・ガンホっぽい警察の人が係わってくれたのはよかった。詩の朗読会で人を喜ばせようとするし、自分に批判的な人とも交わろうとするし、いい人だ~。)

ヒラヒラふわふわと存在し、浮世ばなれした人と思われそうなミジャだが、家政婦として介護している会長との遣り取りを見ていると、なかなかのおばさんだ。会長に「今日は機嫌がよくないね」と言われると「私が笑顔になると会長なんか骨抜きですよ~」と軽くあしらい、バイアグラで行為を迫られると手厳しくつっぱね、会長にお金を無心するときも間に入った娘に「お金を頂にきたんですよ」と軽い調子で当然のように言うのが手練れだ。一度拒んだ行為なのに、なぜ、仏心を出したのかは私にはわからないけれど、本人も言っていたように一通り(以上)の苦労をしてきたことはわかる。

ある素人文人が教えてくれたことだけれど、塵芥が渦巻いているうちは作品にならないそうだ。澱となって沈殿し、その上澄みを掬う。それが作品を作るということのようだ。
多くの人は感じたことを吐き出してしまう。愚痴を言ったり、意見として表明したり、相手にぶつけたり。ところがミジャは、孫にも娘にも肝心なことは言わなかった。孫の犯した罪も自分に下されたアルツハイマーの診断も瞬く間に沈んでいって、これまでの人生で澱となったヘドロの中に紛れ込んだのだろう。あとは上澄みを掬い、文字として出力する回路が通じるのを待つだけだ。

これだけ触発される映画だったけれど、私はそれほどの感動はなかった。というのは、ミジャの「アグネスの詩」の字幕をまったく読めなかったから。日本語だったら耳から入ってきてよかったかもしれないが、外国語だから字幕に頼らざるをえない。でも、私の集中力は画面を見ながら字幕を読むってことに1分も持たない。映画なんだから映像で表現してよ~。って、無理な話(^_^;。
はじめはミジャの声で読まれていて、アグネスに捧げられた詩のようだったが、途中から死んだ女の子の声に変わった。内容がわからないので何とも言えないが、私はミジャがアグネスに同化して亡くなった者の視点で詩を書いたような気がしている。
孫を警察に引き渡し、釜山で働いている娘を呼び戻し、忽然と姿を消したミジャ。はて、どう受けとめようか。はてなマークいっぱいで上映会場をあとにした。

[追記]
カミヤマさんのブログポエトリー アグネスの詩(ネタバレ)で、ミジャが会長さんと事におよんだ動機を読み、「そうだ、そのとおり!」とものすごく納得がゆきました。

暴行の現場に行ったり、飛び降りた橋に行くだけでなく、ミジャは男子たちに乱暴されたアグネスに寄り添うために、体が不自由な金持ち老人(キム・ヒラ)に抱かれたりもするんですね(って、拡大解釈かもしれませんが、僕はその後で500万ウォンをせしめたのは結果論だと思う)。

会長さんとの事は、橋を見に行って川べりを歩いたあとだったと思うので、ミジャの心の動きとしては「アグネスに寄り添うため」がしっくりきます。お金のために仕組むのはミジャらしくないので、「500万ウォンをせしめたのは結果論」というのに大賛成。仕組んだと思われても仕方ないと思って、ヘタな言い訳をしないミジャのいさぎよさは、返せる当てがないので「貸して」と言わずに「ください」と言った清廉(?)ぶりとマッチしていると思います。

POETRY
監督:イ・チャンドン
(シネマ・サンライズ 2012/09/15 高知県立美術館ホール)

天国の日々

限りなく透明に近い哀しみ。すごくよかった。鉄工所を出て汽車で移動し、農場に着いたあたりから哀しくなって、最後まで哀しかった。どうしてなのかは考えない。
「鳩の翼」の男女反転ヴァージョンかと思って観ていたら、農場主(サム・シェパード)、そうきたか~(ビックリ)。ドライバーを手にしていたばっかりに、ビル(リチャード・ギア)、そうなったか~。農場主の亡きがらを抱く農場長(ロバート・ウイルク)の深いしわを忘れない。
話が通俗的で表現が詩的。あとに残るのは、どこからきてどこへ行くのかわからない流れ者の哀しみだ。それは、残されたアビー(アダム・ブルックス)やリンダ(リンダ・マンズ)だけの話ではないのだろう。

スタンダートだったのか~(意外)と思っていたら、ヤマちゃんがビスタをスタンダードで上映していると指摘していた。何の違和感もなく観ていた自分にショックを受けた(がしょーん)。

[追記]
上映会主催者さまが配給元(コミュニティシネマ・センター)に問い合わせたところ、70年代は撮影はスタンダードで、上映は画面を大きく見せるために上下をマスキングしてビスタでということが普通に行われていたそうです。本作は、予告編やDVDではビスタですが、今回は、撮影したまんまのスタンダードで配給・上映されたということです。
私としては、「マリック監督、いったいどっちが意図するサイズなの?」って感じです。

DAYS OF HEAVEN
監督:テレンス・マリック
(シネマ・サンライズ 2012/08/28 高知県立美術館ホール)

セイジ 陸の魚

伊勢谷友介さんは俳優より監督の方が私はイケテルと思う。いい風景を切り取っているし、雰囲気の作り方がうまい。バーの賑やかさ、トンネルの音が響きそうな静けさなどなど、状況に応じて見せ方(編集)を工夫していると思う。ただ、バー、セイジ(西島秀俊)、ショウコ(裕木奈江)の部屋の美術が、どれもある種の美しさがあるのは改善の余地ありかな。『善き人のためのソナタ』で人物によって部屋の雰囲気をがらりと変えているのがいいお手本だと言うと、私の思っていることが伝わるかしらん。カズオ(新井浩文)の片思いの彼女がいる店とか、りっちゃんの和風のお家とかは、いいと思ったので、セイジとショウコの部屋の雰囲気に似たようなところがあるのは、何か意図があるのかもしれないけれど。

セイジがとった最後の行動は、何かしてあげたいけど何もしてやれないということの表明だと思った。義憤を感じて書いたり言ったりする口先だけの私と比べてどうなのか、・・・・・(・_・)。しばし考えた。
(カズオ、すっきー(^o^)。)

旅人(森山未來)

監督:伊勢谷友介
(とさりゅう・ピクチャーズ 2012/08/23 自由民権記念館)

ダークナイト・ライジング

前二作ともあまり好きでなく、ゴードン(ゲイリー・オールドマン)以外は(ジョーカー(ヒース・レジャー)でさえも)ほとんど忘れ、まるで観る気が起こらなかった本作だったけれど(冒頭のハイジャックシーンのバイオレンスぶりにやっぱりよせばよかったと思ったことを除けば)、すごく面白かった!

私にとっての前半のハイライトは、涙をためたアルフレッドの青い瞳だ。マイケル・ケイン渾身の演技に引き込まれ、思わずもらい泣き(笑)。
そんなアルフレッドの制止もむなしく、ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベイル)がバットマンとなってゴッサムシティに再登場したとき、フォーリー市警副本部長(マシュー・モディン)の勘違いは甚だしく、バットマンを追いかけだしたときは「わ~、ばかばかばか」とかつての青春スタアをバカ呼ばわり(笑)。
それに、バットマンが乗っていたバイクみたいな乗り物が、突然、タイヤの回転軸を換えて方向転換したのには、「さすが、マンガやーーー!!!」と大受けだった(笑)。

中盤で面白かったのは、やはりベイン(トム・ハーディ)だ。目的がさっぱりわからなかったので、破壊のための破壊に見えて、これぞ究極の悪といった感じだった。「ウォール街を占拠せよ」と比較するのもおぞましい証券取引所の乗っ取り、スーパーボウルの競技場爆破。楽しいから壊すというわけでもない。世間への恨みを晴らすといったふうでもない。そして、破壊の先には何もない。やっていることは派手なのに、この虚しさといったらなかった。(娯楽映画のはずなのに、まじめくさっているったらなかった(笑)。)

終盤、ミランダ・テイト(マリオン・コティヤール)の正体がわかり(子役の容姿は重要だと改めて思った)、ベインの破壊の動機もわかり(虚しさが吹き飛び微笑ましくなった)、ブレイク(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)の本名もわかり(なんかピッタリ~(^o^))、セリーナ・カイル(アン・ハサウェイ)の末路に灯がともり、娯楽映画としてとても気持ちのよい幕切れで満足した。
ただし、鉄腕アトムみたいなバットマン決死の運搬は、もっともっと遠くでないとゴッサム市民はのちのち苦しむことになるのではないだろうか。

THE DARK KNIGHT RISES
監督:クリストファー・ノーラン
(2012/08/20 TOHOシネマズ高知1 吹替版)