拷問(処刑)シーンが、ちと辛かったが、いろいろ考えさせられて大変面白かった。
ずーっと前から理解できなかったのが「踏み絵」だ。キチジロー(窪塚洋介)のように、踏んでも信仰し続けるでOKじゃんと思った。逆さ吊りの(そのままでは死んでしまう)人を前にして「踏み絵」を逡巡しているロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)には「早う踏め」と思いながら見ていた。自分や他人の命が懸かっていても踏めないものって何だろうと考えた。ムカデ。これ(に類するもの)は踏むのに勇気がいる。赤ん坊は踏めない。踏むと死んでしまう。井上サマ(イッセー尾形)が「踏まずとも足を載せるだけでよい」と言われるなら、赤ん坊でも踏むかもしれない。しかし、人間を踏むのは罪悪感だ。自分が大事にしているものより他人が大事にしているものの方が踏みにくいかもしれない。でも、命が懸かっているのなら踏んで、後で謝って赦してもらおう。日の丸を燃やされて本気で怒る人は、日の丸を踏めないのだろうか?信仰って命より大切なものなのか。斯く言う私でも、うん十年前に隠れキリシタンの気持ちが理解できたような気がした瞬間があった。目が覚めてベッドから足を下ろしたその下に本があったのだ。それも有り難い内容の本。踏み慣れてない、しかも有り難いものを踏む。ちょっとした「やっちまった感」を拡大したものが「踏み絵」を踏めない気持ちなのかと。結局、「踏み絵」を踏めない人は偉人レベルだと思う。「踏めない」ではなくて「踏まない」方を選択したのだから、村人やバードレのために犠牲になったモキチ(塚本晋也)と同等。マララさんと同じカテゴリー。
転びバテレンの方が好き。フェレイラ(リーアム・ニーソン)もロドリゴも転んだわけだけど、もし、転んでなかったら目の前で逆さ吊りになっていた人たちを見殺しにしたわけで。転んでキチジロー(=ユダ)と同等になったことによって、キチジローと同じくらい神が必要になったと思う。(最も神を必要としていたのはキチジローだ。)表面上は棄教したように見えても信仰し続けているというのは、フェレイラが「ロード(主)」と口にしたことでわかるし、ロドリゴがキチジローと接する様子でわかる。(信仰を貫いたわけではなく、ますます信仰せざるを得ない状況になっていたと言える。)ラストシーンはダメ押しのようなものだけれど、どんな弾圧があっても頭の中は自由だというメッセージのようにも見え、『未来世紀ブラジル』のラストシーンと共通しているように感じた。
フェレイラが、日本人の信じるキリスト教は本当のキリスト教とはちょっと違うと言っていたが、これは原作者(遠藤周作)が考えていたことだと思った。『深い河』で「西洋とは異なる日本人らしいキリスト教があっていい」というセリフがあったが、それは遠藤周作の思いだったのではないだろうか。「真理は一つ」と言って布教する上から目線を井上サマに指摘させたのは、原作者のこだわるところなんだろう。「そんなの本当のキリスト教じゃない」と散々言われたのかもしれない。
人はキチジローのように神を必要としているが、その応えは沈黙。常に沈黙だと「存在しないからでは?」と懐疑的にならざるを得ない。それでもその存在が必要だから「沈黙」だと捉えるしかない。私は仏教徒なので、沈黙は神が存在しないからだと思えるのだけれど、信じる人にとってみればあくまでも沈黙なんだと思った。そして、キリスト教徒は神と常に対話しているのだなと思った。しかし、考えてみれば自分も2、3週間前に「昨年はありがとうございました。今年もよろしくお願いします。」てなことをお賽銭をあげながら言っていた。更に考えてみれば誰に言っているのだろう???そして、応えは「沈黙」ではなかったか。う~ん、予想に反して沈黙問題は大きい。
タイトルバックの音がいい。神の声が聞こえない状態を「SILENCE」というのだろうか。おしまいのタイトルバックの様々な音を聴いていると、自然という人知を超えたものに神(のようなもの)を感じる者としては、行く道を示されず、問うても答えがない状態ってあるがまま、自然のままの状態ではないか、それならキリスト教の神(創造主)も自然のようなものではないかと思った。
窪塚君が深みのある顔になっていた。はじめは胡散臭いが実は無垢なキチジローを好演していた。
海岸とか引いた絵にスケール感があってよかった。
スコセッシ監督の渾身作だし、ヒットしてほしいな。
(2017/01/21 TOHOシネマズ高知2)