土を喰らう十二ヶ月

生きていると動く。動くと腹が減る。食べなきゃ死ぬので食べてまた動く。の繰り返し。
全然腹が減らないので半分死んでいるのかもしれない。私の場合、生きるためにもっと動かなければ。

ツトム(沢田研二)の義母(奈良岡朋子、トレビアン)の告別式に思いのほか弔問客が訪れ、和やかに時に賑やかに故人の話をしているのが泣けてきた。遺族のためには慰めになるなぁと思って。でも、その遺族があの息子夫婦(尾美としのり、西田尚美)じゃなぁと思うと笑えるのだけど。
大受けだったのが、ツトムは白い骨壺に入るのは嫌だからと自分で土をこねて骨壺を作ろうと窯に入れた途端、心筋梗塞かなんかで倒れたこと。むろん、恋人の真知子(松たか子)が偶然やってきて救急車を呼んでくれたから笑えるのだけど。

作家の孤独が作品全体を覆っているように感じる。真知子だけでなく大工や姿は見えずとも野菜の差し入れをしてくれる人や、人との遣り取りはあるようだし、山椒(犬)も飼っているけれど一人で生きている感が強い。きっと思索の時間が印象深いからだろうなあ。真知子にいっしょに暮らそうと言ったあと、真知子が保留している間に心筋梗塞なんかになってツトムの気が変わったのはなぜだろう。本気ではあるけれど、ふと誘ってみただけだったのかもしれないし、真知子がツトムが一人でいるのは心配だから傍にいてあげたいという思いでいっしょに暮らすことを承諾するのは、ツトムの本意ではなかったこともあるだろうけど、やっぱり一人がいいのだろう。
そのせいでツトムが釜で炊くご飯とか、いそいそと作るおかずの分量が気になってしかたなかった。一人で食べ切れるのか?何日分なのか?電子レンジはなさそうなので、せいろで温めるのか?年を取っても食は細らぬ大食漢なのか?それほどよく動いているということだろうか?
(2022/11/12 あたご劇場)

カモン・カモン

小学生だったか中学生になっていたか、文通していた人が「Come on,Come on!」と書いてあって字もうまく、カッコイイ~と思ったことを思い出した。そのときは調べて「がんばれ」という意味とわかったが、もっと幅広い意味合いで色んなシーンで使われる言葉のようだ。「まあまあ」とか「よしよし」とか?

特に感慨はなかったが、「子ども」について考えさせられるいい映画だと思った。

昔々、同僚が「子どもが生まれてからは、犯罪に巻き込まれたり虐待されたりのニュースにホンマに腹が立つ」と言っていたことを思い出す。友だちが「子どもらしいままでいられたらいいのに、まだこんなに小さいのに親の顔色をうかがったり、色々気にしたり不憫や」と言っていたことも。私も甥が生まれてからは、子どもを目にすると甥と同じくらいだなとか、甥もあんな時があったなとか思うようになった。第一次反抗期(?)で妹が手を焼いていたときには「子どもの知恵に負けてどうする」と励ましたことも。妹は素晴らしい親になって子は巣立っていった。今、私は父と、二人の甥の小さかったときの思い出話をして笑い合っている。
社会的に子どもがいてくれてよかったと思ったのは、東日本大震災の避難所で子どもたちが壁新聞を作ったりしているとか、子どもの様子がニュースになったときだ。東日本から離れていても、とても励まされた。反対に子どもがいなくなって廃校となるニュースは、日本が地方から滅びている現実を突きつけられる感じだ。そうかと思えば、近所に幼稚園ができるとやかましいから反対というニュースがあったり。

子どもが悲しい思いを抱えたり、不安だったりするのは、確かに不憫だ。でも、成長の過程では多かれ少なかれ避けてとおれない。回復力は大人の何倍もあるし自身の欲求に忠実かと思えば無用の我慢もするし何よりやっぱり知的生命体なので、ジョニー(ホアキン・フェニックス)が振り回されるのも無理はない。親になるのは大変だけど、なれないわけではないことをジェシー(ウディ・ノーマン)とジョニーが示してくれている。
ラジオ番組の取材としてインタビューされる子どもたちの声を聴いていると、大人は子どもたちがその子らしく生きられて将来に希望が持てる社会にしなくちゃなあと思った。
(2022/09/24 あたご劇場)

ゴヤの名画と優しい泥棒

ゴヤの名画を盗んで、返還する代わりに年金受給者には公共放送の受信料を免除せよと要求した実話をもとにした作品で、イギリスらしいウイットに富み、とても楽しかった。ユーモアだけでなく若干の悲哀もあるのが何とも心に染みる、これぞ真のコメディだ。

ケンプトン(ジム・ブロードベント)とドロシー(ヘレン・ミレン)の夫婦が素晴らしい(^o^)。ジム・ブロードベントもよかったけれど、ヘレン・ミレンが神がかり的に懸命で平凡で魅力的、そして、娘の死を受け入れる名演だ。

裁判のシーンは、弁舌絶好調のケンプトンの独壇場(^Q^)。
最後に明かされる真相もなるほどの納得感。
もう一遍観たいなぁ!
(2022/09/21 市民映画会 高知県立美術館ホール)

天才ヴァイオリニストと消えた旋律

見始めてやや驚いた。久々のティム・ロス。クライブ・オーウェンも出演。若い俳優を覚えられなくなったロートル映画ファンには嬉し懐かしの配役だった。

第二次世界大戦前にヴァイオリンの英才教育のため、ポーランドの家族と離れロンドンのマーティン(ミシャ・ハンドリー:長じてティム・ロス)の家へ引き取られた天才少年ドヴィドル(ルーク・ドイル:長じてクライブ・オーウェン)。二人は兄弟のように一緒に育ち大人になるが、ドヴィドルはデビューコンサート会場に現れず行方不明となる。30年以上経ちドヴィドルにヴァイオリンを習ったという人物に遭ったことをきっかけに、マーティンは彼を再び探し始める。なぜ、デビューコンサートを前に忽然と姿を消したのか、ミステリー仕立ての話は面白いし、ヴァイオリンの演奏も楽しめる。

ルーク・ドイルは本当に弾いているのだろう、大人顔負けだった。収容所みたいなところで一対一のヴァイオリン合戦をするところが一番の見所だ。

あとはドヴィドルがなぜ姿を消したかわかるところ。街かどのシナゴーグで戦争中に収容所などで亡くなった者の氏名を何時間もかけて唱歌するラビ(?)と、家族の名前が唱えられるか否か聴き続けるドヴィドルの場面が印象深い。記録できなかったから歌にして記憶し伝承していくというのは、『サウルの息子』でゾンダーコマンドたちが写真やメモを埋めて出来事を伝えようとしたことを彷彿させられた。民族としての受難だからだろうか、決して忘れず伝えていく意思と共同体の堅さ(それゆえ入って行きにくいもの)を感じる。ただそれは、差別しておいて「入って行きにくいかよ」ってなもんで反省すべきことだ。

再会して一度きりという約束のコンサートを済ませ、30年前の借りは返したとばかりに関係を断ち切るドヴィドルには、断絶以上のものを感じ何だかやりきれなかった。
(2022/09/21 市民映画会 高知県立美術館ホール)