さくら

役者で持っている。ペットを含む家族の話で、長男一(吉沢亮)を亡くしてバラバラになった家族が元に戻るまでを描いている。家族って何なのか、人を愛するってどんなことなのか、俳優は真摯に演じていて心を動かされる。(「化粧をしたローリー寺西はやっぱりきれいやなぁ」と思っていたら加藤雅也だった。ラストクレジットまで気がつかなかった自分に衝撃を受けた。)

俳優が頑張っているだけに、例を挙げれば切りがないほど現実味に乏しい作品になっているのが残念だ。携帯もスマホもない時代の考証まではしなくてもいいとは思うが、セリフに違和感があった。犬の性質を「たおやかな」と言ったり、生まれた娘を初めて目にして「美しくて貴い」と言ったり、場面から浮いている。原作を引きずっているのかもしれない。また、雨降りの設定で傘をさしているのに背景が青空というのはよくあることで良しとしても、季節感無視なのは困ったものだ。どんなに予算が限られていても、あの年末年始の部分、特に父(永瀬正敏)の運転で動物病院を探して右往左往するところは、寒そうに見えなくてはいけないと思う。次男薫(北村匠海)が久しぶりに帰宅したとき、緑豊かな町を背景に母(寺島しのぶ)は花の植え替えをしている場合ではないのだ。町の緑をフレームから外し、落ち葉でも掃いていればいいのに。季節感を出すだけで家族が冬の時代を抜け出せたということを表現できたのではないか。兄の遺書に「年を越せない」とあったが、家族は年を越した。その語りに意味を持たせる映像の力(年末は暗く年始は明るく)が圧倒的に不足している。車のなかの愛犬さくらの「てへへ」顔のアップがあれば、家族の一員としてより印象づけられたのに。長女美貴(小松菜奈)が封筒に埋もれて欲望を満たそうとしながら兄を偲んでいるシーンがあるくらいだから、ある種のファンタジーを作りたかったのだろうか?薫の語りで進行する物語だけど、美貴の部分は薫の語りとするには無理がある。要するに端から役者ありきの作品だったのかもしれない。それなら、一を捉えた入魂のワンショットがほしかった。一の比重が軽くてバランスが取れてないように思う。

と色々書いたけれど、そんなに悪い作品ではないと思う。料理次第でもっと良くなったのに「もったいない」という気持ちの表れ。
(2021/02/22 あたご劇場)

すばらしき世界

素晴らしい。まさしく映画。これまで観た西川美和監督作品の中で一番好きだ。相変わらず緻密で練られていて美しい。

スクリーンでこそ見られる小さな星に弁護士の奥さん(梶芽衣子)の「見上げてごらん夜の星を」の歌声が重なる。三上正夫(役所広司)の就職が決まったお祝いの会で、近所のスーパーの店長(六角精児)のギターが伴奏だ。三上君は真っ直ぐで正義感が強すぎるんだな、とか、すぐカッとなっちゃダメだ、とか言ったのは身元引受人の弁護士(橋爪功)だったか。そうよ、いいかげんに生きているのよ私たち、と言ったのは奥さんだったか。励ましの言葉を受けて照れている三上。当初、TV制作の下請けで前科六犯十犯の更生ドキュメントの素材として三上にビデオカメラを向けていた作家志望の津乃田(仲野太賀)も「本当によかった」という感じで微笑んでいる。出所した三上を支える人たちとのワンシーンだけを取っても色々な含みがあって豊かだ。

玉子かけご飯のシーンは天国、カップラーメンのシーンは地獄。シャバダバダ、シャバは大変。
地獄を見て、たまらず暴力団組織の兄弟分のところに電話すると(東京タワーの夜景)、「おつかれさん」とねぎらってくれる。私でも涙がこぼれるくらいの温かさ。こりゃあ、出所して元の木阿弥となる人の多いのは無理もない。兄弟分のところは、別の意味で天国だ。
就職先でめっちゃ嫌なことがあったとき(私は三上に爆発してほしい気持ちがあった。その方が彼らしいではないか。自分らしさを封じ込めることの気持ち悪さ、苦しさ。)、とにかく重い。身体もペダルも何もかも。そこに元妻(安田成美)から電話が掛かる(雨模様の色とりどりの水玉)。これが本当の天国だ。娑婆も捨てたものではない。

単純明快、直情径行の三上であっても人間とは本当に多面体だ。チンピラを相手に格闘し、肉食獣のように口の周りを血だらけにしているところを見たら人はどう思うか。あるいは満面の笑顔で子どもたちと草サッカーに興じた後、くずおれ泣いている背中を見た人は。(おっかさんは月となって正夫を見ていたかも。)
一口に殺人と言っても、その事情は色々だ。一人一人はいろいろで、その一人も多面体である。そんな基本中の基本を描き、娑婆の意味を描き、一人につき四、五人のサポーター(行政を含む)と良き縁の何人かがいれば、ほどよい加減で生き抜けることを描いた。

北村有起哉(生活保護担当職員)、長澤まさみ(テレビ制作)、白龍(兄弟分)、キムラ緑子(兄弟分の妻)、いいねぇ。
三上と津乃田がお風呂に入るシーン、いいねぇ。一人ご飯、電話、お風呂と二つずつシーンがある。
暴力団排除条例を私は「差別条例×警察怠慢条例」と思っているが、暴力団の子は幼稚園にも入れてもらえないというようなセリフがあって感心した。
(2021/02/12 TOHOシネマズ高知3)

素手で虫をさわる日

ペチュニアはナス科の多年草だ。寒さに弱く一年草扱いだが、親戚のカリブラコアは難なく冬越し出来ているからペチュニアも多分大丈夫。通販で千円近くもしたブランド品「ソフィアの宝石」は本当に世話いらずでよく咲いてくれたのですっかり気に入り、ペチュニアのニチャニチャした手ざわりが苦手にもかかわらず、冬越しをさせて3月に植え替えて(ナス科は同じ土だと連作障害があるのだ)毎年楽しもうと思っていた。

しかし、成人の日の週に氷点下が続いたため、あわてて軒下から玄関に入れたのだが、冬越しのため地際で刈っているので生きているのか死んでいるのかわからない。生きていたら水を遣らないといけない。玄関で見ると土の表面は乾いている。鉢植えの水遣りは、土の表面が乾いたら底から水が染み出るくらいたっぷりが基本ではあるが、寒いときの水のやり過ぎは鉢の中が冷えすぎて(もし生きていたら)致命傷となりかねない。もっと明るい陽の下でよく見ようと外に出して土の表面をさなぐってみたら、やはり濡れていた。しばらく水遣りをしていないのに、これだけ濡れているということは、ぜんぜん水がいらなかったということで、死んでいるのかもね。ちょっと根を見てみようと少しだけ土を掘ってみた。目当ては白。植物は根が命。健康な根は白い。

残念ながら白い根は見当たらなかった。そのかわり別の白に当たった。土にまみれていても幼虫は白いものだ。今は無き「カール」というお菓子にソックリな生き物だ。私の指先が当たったかどうかはわからない。幼虫と指の間には、ある程度の容積の土が存在したはずだ。ギョッとはなったが割合冷静で、庭に常備している雨ざらしの割り箸を取りに行き、幼虫を取り出した。一個だけだろうか。白い根を見られなかったものの墓場でよみがえった植物もあることだし、もしペチュニアがまだ生きていて幼虫がいたとしたら葉っぱを食べられてしまう。割り箸でまさぐると出た。全部で四個。匹というべきだろうか、微妙に動いている。カナブンだろうか。昆虫図鑑に幼虫まで載っているだろうか。この四個をどうするか。

割り箸で二個ずつ挟んで塀の上に載せた。鳥が食べてくれないかなぁ。

そして、午後に塀を見てみると、なくなっていた。ありがとう、鳥さん。

ある日、事故で(というのは大袈裟か、)虫を素手でさわってしまう。意外にどうってことないと気づく。そうして素手で虫に触れる日が来るのだろうか。