あのこは貴族

貴族も平民も女子は生きにくいですなぁ。男子も生きにくいかもしれないけれど、この映画では女子が主役なもので。
華子(門脇麦)は、結婚するまでは特に息苦しくはなさそうだった。結婚してから日々虚しく過ごすうち、家系に縛られていることに気づいたのかもしれない。それで夫と関係のあった美紀(水原希子)の部屋を訪れて、別な生き方があることを知ったということだろうか。
美紀はお金がないゆえの金縛り人生。仕事はあっても女性の賃金は安いので、先行きがやっぱり不安なのだ。

華子と幸一郎(高良健吾)との結婚を機に、幸一郎と別れた美紀。その後、虚ろな結婚生活に終止符を打った華子。
二人とも男性に依存しない道を選んで生きていく結末。イイ時代になったものじゃ。女性に依存しない男性を主人公にした映画ができたら猶よい。

華子の友だちのバイオリン弾きの女性が言っていた「女性同士が敵対するのはおしまいにしたい」というような意味のことは作り手の気持ちだろうと思った。
美紀とその幼なじみが、いっしょに故郷で事業を興すことに決め、自転車の二人乗りをするシーンは、『キッズ・リターン』のラストのようで、「ここで終わりか?終わってもいい」と思ったが主役は貴族であった。自立した華子に幸一郎が目をとめるのがラスト。そりゃあ、まぶしく見えるでしょうとも。でも、よりを戻すことになったらガッカリだ。
(2021/12/03 あたご劇場)

アメリカン・ユートピア

ワイヤレス、\(^_^)/、バンザイ。
ディヴィッド・バーンズと言われても「昔バンドやってたの?」と思いながら観ていた。音楽のお師匠様はトーキングヘッズを教えてくれなかったからなぁ。よう声も出るし、歌の内容も脳から始まって家にこもる完全インドア派みたいで面白い。バックボーカルの人たちの踊りが楽しい。そして、何よりリズムセクションの充実ぶり。やはり古今東西、鉦や太鼓は晴れの日には欠かせない。それにしても、スパイク・リーはこのライブをナゼ映画にしたのか????と思っていたら。
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!。
「プロテストソングは鎮魂歌でもあります。」バーンズさんの言葉が、そのあとの歌が(ToT)。
「自分を変えろ大地震で」、そうです。心あるアーティストはライブで言ってきたのです(沢田研二も言っているらしい)。どう変えるかは本人次第。他人を変えるより自分を変える方がまだ簡単。世の中もより良く変えたいと思いませんか。より良いどころか(逆さ)ユートピアなんだから、もう変えるしかないでしょう。今よりましな(逆さ)ユートピアにしなくっちゃ。今のままでいい人は投票しなくていいけれど、今のままでイイということは、これだけ黒人が殺されてもイイということですよ。「投票」に行くしかないでしょう。
あああ、なんと日本にも当てはまることでしょう。

観客は中高年多し。ご本尊とともに年を取る。
作品としては作り手(スパイク・リー)のセンスを感じる。ファーストショットの緩くも楽しい絵は緞帳(のようなもの)だったことが最後にわかる。何より他人を拒むかのような歌が、同じ歌詞なのに子どもが合唱すると他人と繋がろうとする歌になる、その歌で映画の最後を締めくくる(中程でちゃんと伏線を張っているのがイイ)。投票だけではダメで人と繋がることの必要性をスマートに表現して爽快だった。
(2021/11/24 あたご劇場)

ある画家の数奇な運命

芸術イコール自由。その対極にあるのがナチスやかつての東ドイツのような全体主義の体制(であり出る杭を打つ世間)だ。
絵さえ描けない不自由な時代から、絵は描いてもよいが画題は選べない不自由な時代へとつづき、西ドイツに脱出して商業主義の誘惑はあるものの、アトリエまで与えられて何をどうしても自由、さあ、制作にかかれるというときに、主人公クルト(トム・シリング)は空っぽ。ぽか~ん。そりゃ、あんた才能がないんじゃないの?芸術家って描きたいものが次々と(引退宣言した後も)押さえてもフタをしても湧きあがってくるものじゃないの?というツッコミは気の毒だった。申し訳ない。いかに才能があろうとも、長い間ナチスなどの元で発揮しようがなくては錆びてくるというものだ。
その錆を落としてくれたのが、デュッセルドルフ芸術大学の教授(オリヴァー・マスッチ)だった。教授は自らを語り(というかさらけ出して)、「君は何ものなのだ」と暗に問う。そして、結局、芸術作品とは作家の現し身なのだ。クルトは自分を掘り起こす作業を始める。
というわけで、1930年代から1960年代までの東西ドイツを舞台に、芸術(作品)とは何かを描いた作品と受けとめた。そして、一番感動したのがこの教授の語りの場面だ。若い人のために身を削って教えてくれる。なかなか出来ることではない、ありがたいことだ。

帰りにもらったチラシを見ると、クルトのモデルはゲルハルト・リヒターだという。えー!?聞いたことがある名前~、我らが棚ぼた美術館に作品があったかも!と思って検索したら、「ステイション」という「あー、あれか」な作品だった。それとは別に来年、大規模なリヒター展が東京と愛知で開催されることもわかった。東京、愛知はすっかり遠くなったけど、豊島のガラスの作品は見てみたいな~。
(2021/10/27 高知県立美術館ホール)

最後の決闘裁判

ほっぺのホクロでベン・アフレックと気づくまで随分かかった。めっちゃヒゲが似合う。ケネス・ブラナーとともにヒゲがあった方が良い男優に分類した。もともと好きな俳優だったが、女好きアホアホ領主を演じて私の中のアフレック株が上がった。もともと利口そうなマット・デイモンも、実直ではあるが自分しか見えてない器の小さい騎士を演じて役者やのう。二人とも脚本にも加わっているそうで、自分たちの身を削って(あるいは楽しく?)フェミニストぶりを発揮していてイイ感じ。

リドリー・スコット監督らしい映像の見せ場を感じなかったのはナゼだろう?決闘場面は見事だと思うけれど、私は中世に偏見があるのだろう、野蛮でむさ苦しく見えてしまう。全体的にシルバーグレイが印象に残るヒンヤリめの映像だが、ラストシーン(ジョディ・カマー演じる母と幼子)は温かい。初期の作品で面白かった『デュエリスト』は時代がもっと下っていたせいか美しかった印象がある。今作のディレクターズカット版は、更に1時間長いという話を聞いたのでキレイめの映像はそちらでということかな。

お話は第一章(ド・カルージュ(マット・デイモン)主観)、第二章(ル・グリ(アダム・ドライバー)主観)の解が第三章(ド・カルージュの妻(ジョディ・カマー)主観)だと思う。解がわかっていたから、第一章で妻からレイプされたと打ち明けられたときのド・カルージュの怒り様はそんなもんじゃないだろうと思っていたし、第二章でド・カルージュの妻がル・グリ誘うように靴を脱ぎ捨てて行ったのも「あんたの勘違い」とツッコミを入れていた。
ル・グリは勤勉で恩人にも義を尽くしていた。アホな領主様のご機嫌もよく伺っていた。しかし、女性に対してはご機嫌を伺う必要性を感じてないので、よく見ないし聴きもしない。誠に残念なことだ。現代もこのような男性は多い。男性のみならず、人はご機嫌を伺う必要性を感じていない相手に対しては自分の意のままに振る舞い、相手が被害を訴えてもなお見もせず聴きもしないため加害を自覚しようがない。当人がご機嫌を伺う必要性を感じている相手(尊重している相手)に言われるまではダメみたいだ。犯罪でも交通事故でもイジメでもネットの誹謗中傷でも同じだ。
それで、中世では神がその尊重している相手に当たる!!!!というところが、一番面白かった。しかも、決闘裁判ともなると生死に直結するわけで、いや~、神が死んでくれてよかった。もし、ル・グリが勝っていたら彼にとっては「神はいた」かもしれないが、ド・カルージュの妻にとっては「神は何処に???」ではないか。

もっとも受けたのは、フランス国王と王妃。とてもお似合いで微笑ましい(^_^)。しかし、決闘を見るに堪えない王妃と、王妃を気遣うこともなく嬉々として稚気が逸る王は今もいそうなカップルだ。
(2021/10/16 TOHOシネマズ高知8)