ジャーナリストは、パンドラの箱を開ける人というと美しすぎるかな。臭いもののフタを取る人というのでもいい。単に好奇心からだけではなく、災厄や臭気を被る覚悟で真実を世間にさらし、後の教訓にしたりして、よりよい社会にしようとする仕事と言えばカッコイイ。雑誌記者のジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)もとっかかりは、風化しそうな事件を取材して・・・・というものだった。ところが、取材していくうちに社会のためというよりも自分自身が知らずに済ませられなくなっていく。それは好奇心というよりも、希望を探す旅のような気がする。あまりにも酷いサラ・スタルジンスキ(メリュジーヌ・マヤンス)の人生に取材という形で出会って、どこかに希望があるのではないか、生きているならサラに会って確かめたいという気持ちがジュリアを動かしていたのではないだろうか。だけど、希望はなかった。サラの人生は弟の亡骸を見たときに終わっていた。
それでも旅は続く。ジュリアは生前のサラの様子を聞いてみたかったのだろうか、サラの息子ウィリアム(エイダン・クイン)に会うが、息子は母がユダヤ人だったことを知らない。それどころか、真実を話そうとするジュリアを拒絶する。(ウィリアムが真実なんて知りたくもないと言ってのける前に、ジュリアの夫ベルトラン(フレデリック・ピエロ)が、寝た子を起こすようなことをするなと言ったり、義父が本当のことは母には知らせないでほしいと言ったりしていたので、この作品の作り手は、真実を知ることの代償と、代償を払っても知るべきことがあることを描きたかったのだと思う。)
ジュリアと会ったとき、ウィリアムが母の真実を受けとめていたら、ジュリアは自分の娘に別の名前をつけていたかもしれない。あのときのウィリアムにとっては無理もない反応だが、ジュリアにとっては本当のサラの存在が消されたような感じがしたのではないだろうか。サラは存在していたという思いと、幸せになってほしいという思いをこめて、彼女は自分の娘にサラと名付けたように思う。
ELLE S’APPELAIT SARAH
監督:ジル・パケ=ブランネール
(市民映画会 2012/06/23 かるぽーと)
お茶屋さん、こんにちは。
ジュリアが娘にサラと命名した理由、いいですねー。
そんなふうに確たる意識はないままでしたが、
非常にぴったりと来て、大いに納得しました。
「代償を払っても知るべきことがある」ということと
「代償を払っても真実は常に知り知らされるべきである」は
似て非なるものなんですが、前者であるべきことが
得てして後者の形の方便として使われている気がします。
そのへんのデリケートさへの思いの及びようが偲ばれる点に
大いに感心させられる作品だったような気がします。
おお!ヤマちゃん、サンキューです。
どうして娘にサラと名付けたのか、そこが一番の疑問だったもので、そう言っていただけると嬉しいです。
>「代償を払っても真実は常に知り知らされるべきである」
あ~、知らなくていいこともあるってことかな。
よくわからなかったので、間借り人サイトに行ってきました。そうですね、ジュリアが義父に聞きにくそうにしてたり、義父が知りたいかどうか気持ちを聞いたりしていましたね。義祖母には知らせるなっていうのも。弟がどうなったかは、サラの知るべきことだったのでしょうね。私としてはサラは知らない方がよかったと思うのですが、最後まで見てしまうと。
それにしてもジュリアは、サラに深く関わったものですねぇ。途中まではジャーナリストとしてだと思うのですが、このへん、ヤマちゃんはどう思われますか?
「知らなくてもいいことがある」というよりも
知らせることの負の側面への自覚というか、“代償”なんていう
秤のような言葉で済ませてはいけないことだと思うんですよ。
つまり、
ただ知らせるだけなら「知らせなくてもいいことがある」わけで。
でも、それって結局のところ、
結果論でしか言えないことなんですけどね~(たは)。
ウィリアムの場合で言えば、知ってよかった「結果」になってたわけですが、
だからといって、知らせることが常に正しいわけではない気がします。
ジュリアが知ろうとしていた動機と調べ方は、
ずっとジャーナリストとしてだったように思います。
変化が生じたのは、やはりウィリアムと会ってからでは?
彼が激しく真実を拒み、母親のサラを知ろうとはしなかったために
彼女がコミットすることになっていったのだろうと思います。
お茶屋説のとおりというわけですよ(ふふ)。
「ぼくのこと、どう思っているかって?本心を聴く覚悟は出来ているんでしょうねぇ???」(内心の声)ってことですかねぇ。
>ずっとジャーナリストとしてだったように思います。
そうですか。
私は、若手の同僚が「もう記事にしたのに、まだ取材する気なの~」といった感じで見てたことと、義父のアパートのことは記事にしにくいこと(もしかして記事にしたかもしれませんが(爆))、彼女がその後の取材を記事にしようとする描写がなかったこと(もしかして見落としているのかも;;;)の三つでもって、ウィリアムと会うより前に個人的な取材になっていたような気がしていました。
「可哀想だた、惚れたってことよ」的な執着心がジュリアを動かしていたように感じます。そうでもないと娘に同じ名前を付けるかな~と。かなり独自な受け止め方のようですね(侘)。
>「ぼくのこと、どう思っているかって?
>本心を聴く覚悟は出来ているんでしょうねぇ???」(内心の声)
この「ぼく」って、ウィリアムですか? あるいはベルトラン?
いずれもジュリアに向けられた内心の声ってことですか?
いずれにしても、お茶屋さんにおいては、
「知る」ことのウェイトのほうが「知らせること」よりも高そうですね。
こういう秘密と嘘の類に対して僕がよく思うのは、
もっぱら「知らせることの罪」のほうなんですよね。
さて、「ジャーナリストとしての取材」の件については、
目前の記事のためだけのものではなくなっていると僕も解してます。
何十年か前に記事にしようとしたときに与えられたスペースの
何倍もの分量を与えられ、
堂々たる特集記事を組んでも書ききれていないものを、
彼女が今後、記事もしくは本にする機会を得るか否かは、
かつて特集記事を組む機会を与えられなかったのと同様に
何らの保証もないのでしょうが、取材機会は今を逃して「ない」
というような職業的習性が働いていた気がしてますね。
それが少々変わってしまっていることを示す証拠として
娘への「サラ」という命名は、とても重要なエピソードなんですが、
ジュリアのその変化がどの時点から?というのは、
実は、けっこうビミョーなところなのだろうと思いますね。
>いずれもジュリアに向けられた内心の声ってことですか?
すみません(^_^;。
映画には関係ない私の空想の中の女性のつぶやきです。
>いずれにしても、お茶屋さんにおいては、
「知る」ことのウェイトのほうが「知らせること」よりも高そうですね。
そうですね。
生みの親とは別に育てられる子どもには、その子どもが生みの親は誰かと疑問を持ったとき、答えられるようにしておいてほしいと思いますもん。←その子どもの立場からの発想ですからねぇ。
お茶屋さん、こんにちは。
本日付の拙サイトの更新で、こちらの頁を
いつもの直リンクに拝借したので、報告とお礼に参上しました。
コメント欄でも談義を重ねていただき、とても深まりました。
どうもありがとうございました。
ヤマちゃん、こちらこそコメント欄の談義、ありがとうございました(^o^)。
これから、自主上映&TOHOシネマズと、観たい映画が目白押しで大忙しですね。映画の秋にそなえて、体調を整えておかないと!