トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦

『トワイライト・ウォリアーズ』の感想を毛筆で書いた画像

あ痛タタタ痛快
そして、郷愁

もうアクションものはいいかなと思っていたところ、予告編を見て「うんにゃ、これはコメディや!」と思い笑うつもりで行った。

笑った!これはバブル期に若者だった高齢者向け、義理と人情の女も泣ける男気カンフーだった。
どこまでがセットでどこからがCGかさっぱりわからない。とにかく素晴らしいセットで、引きの絵もスケール感があった。
若い人はどう思うのだろう?まだ義理と人情が通じる世の中であろうか?
アジアは一つ。軍備より映画制作。おー!
(2025/03/05 キネマM)

どうすればよかったか?

『どうすればよかったか?』の感想を毛筆で書いた画像

どんな家族も物語になりうる

『ゴッドファーザーPart2』『かぞくのくに』を始めとして家族の映画にはハズレがないと思っていて、タイトルにもかなり惹かれて観に行った。

お姉さんに合う薬があってよかった~。

どうすればよかったか?監督自身に関しては、家を出て正解!と思った。両親については、合う薬があったという結果からは、早くお医者さんに診てもらった方がよかったかもしれないとは思うものの、当時(といっても何十年もの間)は迷いはあったかもしれないが最善と思ってのことだったろうし、そうするしかなかったんだろうなぁと思った。両親が娘(監督の姉)をなぜ、医者に診せようとしなかったのかの理由についてはよくわからないが、監督が父に直接たずねていたようなことなのかなと思う。
医者に診せようとしないことについて、監督が別々に両親にたずねたところ、母は「お父さんがねぇ」と言い、父は「お母さんがねぇ」と言い、互いに相手の意思を尊重したみたいに言っているところは、実のところ二人とも診せたくないと思っているのだと思った。(実際には、パパ、ママと呼んでいたと思う。)

それにしても親というものは、ありがたいものだと思う。毒親は存在するけれど、この両親は違う。弟が逃げたしたくなるような姉の病状にもかかわらず逃げない。(精神科の医師でつくる協会(?)の会長が脱・入院隔離を主旨とするインタビューに答えて、入院させないと困るのは家族と地域でしょみたいなことを言っていて腹が立ったことを思い出す。)出入り口を鎖と錠前で塞いでいるのは(いいこととは思えないが)、認知症の家族が行方不明になるのを心配するのと似た気持ちだろうか?
弟も距離を取りながらも姉のことを気に掛けているし、母が認知症になり、父も老いていき、姉が亡くなりという過程を部分的にとはいえ長期的に見せてもらって、この結びつきは家族だなぁとしんみりと感動した。
くすり(^m^)と可笑しかったのは、母の認知症が進んで一番早起きの姉が朝ご飯を準備することになったと食卓の朝ご飯が映されて、次に時計が映ると丑三つ時だったことだ。監督、ユーモアあるじゃんと嬉しくなった。

「赤毛のアン」を始めとするシリーズに「アンの結婚」があって、結婚すると聴いたマリラがとても喜んで言ったことがいつまでも印象残っている。美しい環境に包まれた緑の切妻の家は、アンが養女に迎えられる前に行きがかりでマリラが赤ん坊を取り上げたことがあり、「赤毛のアン」の最後の方でマリラの兄マシュウは急死する。あと結婚する人さえあれば、緑の切妻は家として一人前になれるのだ。マリラの中ではアンの結婚の喜びと、緑の切妻が一人前になる喜びがあった。緑の切妻が悲喜こもごもの人の営みを見ている感じ。「おじいさんの古時計」の感じ。
どんな人も家族もドラマにしようと思えばできるし、コメディにしようと思えばできる。冠婚葬祭・生老病死、平々凡々のようでいてドラマにもコメディにもなる。ドキュメンタリーだったせいか、そういう思いを強くさせられた映画だった。
(2025/03/02 キネマM)

創立70周年記念 高知県書芸院展

期日:令和7年4月8日(火)~4月13日(日)
   10時~17時(最終日16時)
場所:高知市文化プラザ かるぽーと
   7階第1展示室
主催:高知県書芸院

入場無料です。

昨年出品して、観たところ一番下手だったのですが、友だちがいっしょに観てくれて楽しかったので今年も出品しました(^_^;。県展の無鑑査の方の作品、漢字、かな、漢字仮名まじり、大きな作品ちいさな作品(篆刻はないかなぁ?)、バラエティに富んでいるうえ作品数もほどほどです。ぜひ、ご観覧くださいまし。

黄庭堅「松風閣」詩巻(二玄社)の一部 老松魁梧数百年 斧斤所赦今参天

出品したのは臨書作品です。北宋の黄庭堅という人の松風閣詩巻の一部(うえの画像)「老松魁梧数百年 斧斤所赦今参天」(老松の立派なこと数百年、斧斤を逃れ今天に交わる)を書きました。この詩がめちゃくちゃ良いのです。最初は松林の楼閣に「松風閣」と名付けて悦に入ったり、風の音を聴いて「おおお、菩薩泉で耳を洗うようではないか」とうっとりしたり、懸命に働く部下が携えてくる酒をいっしょに味わう果報を喜んだり、空きっ腹を抱えて眼下で煮炊きをする煙を眺めたりしているのですが、おしまいの方では敬愛する師匠の東坡道人(蘇軾)は鬼籍に入り、自分は左遷されて友だちに会えるのはいつのことか、夢見るのは自由の身になって友と小舟で周遊することだと書いていて、哀切の読後感なのです(かなり端折ったうえの意訳;)。いつか全臨したいなぁ。悠然とした感じをだしたかったのですが、形のまねをするのに精一杯でゆったりたっぷりには遠く及ばずカチカチの字になっています(ははは)。


古典の臨書は絵画などの模写と同じで技術を習得するにはもってこいです。書けなかった線が試行錯誤のうえに書けるようになるのは嬉しいです。その他にも楽しいのは、「この字をこんな(に変(だけど絶妙のバランス))に書くか!」という驚きと、「ここで筆のバネを生かしてジャンプして着地した勢いで滑らせながら穂先を開くと、筆をつり上げたときに自然と穂先がこちら側に出るわけか。」というような推理です。これは行書を習い始めてからの楽しみかな。

4月から書道歴5年目に突入。ここ3年くらい飽きずに臨書しているのが「雁塔聖教序」です。これは全臨は気力が続かないと思っています。でも、好きなので、もし、臨書作品にするならどこを書くか選ぶのも楽しい(^o^)。で、浪花節なら一番盛り上がりそうな、ありがたくて涙なしには読めないところを選んで試作してみました。

臨書作品の画像

玄奘三蔵の功績をたたえて、時の太宗皇帝と皇太子(後の高宗皇帝)が撰文し、褚遂良が揮毫しました。刻した人は萬文韶。中国に現存する石碑です。「朝の雪に地は見えず、夕の砂嵐に星はなく、迷いながらの山川万里、幾重の寒暑、霜雨も進み、誠重ければ労軽く、深く求めて願いは叶わん」というような意味です。起案したのは役人かもしれませんが(?)、昔の皇帝は教養人ですね。雁塔聖教序は格調が高すぎてわからないところが多々あるのですが、ここはわかりやすいです。
試作品の反省点をここに書いていたけど削除。一言で言えば、成功した文字が一文字もないです(ToT)×(ToT)。でも、ましな失敗作です(ToT)。これが長生きをしなければならないモチベーションですら。

大きな家

『大きな家』の感想を毛筆で書いた画像

希望

ある児童養護施設のドキュメンタリー。7歳の少女から退園した19歳の若者まで数人の子どもたちをインタビューしながら生活の様子を見せてくれる。どの子どもも施設の仲間や職員は家族ではないと言う。離れて暮らしていても血縁の家族が家族なんだと。こういう家族に対するこだわりの大きさを感じさせられると、無理もないと思いつつ切ない気持ちになる。そして、19歳の大学生となった若者が幼い頃をふりかえって施設は家ではないと思っていたけれど、やはりいっしょに暮らして帰ってこれるここが家だと言って焼きそばを食べているのを見ると、大人になったんだな大人になってわかることなんだなとホッとした。

施設によって、あるいは子どもたちによって雰囲気やルールは異なるとは思うけれど、大体はこの施設のように季節ごとの行事があることと思う。季節ごとの行事は子どものためのモノなんだと改めて思った。(老人福祉では、また別だと思うが。)給食ではなく台所で調理したり、それをある子どもが(自発的に)手伝ったり、別の子どもに何だっけ(?)何か言われて職員が「人間だぞ、ロボットじゃないんだぞ」と反論したり(笑)。どの施設もこんなにアットホームな感じだったらいいなと思った。
(2025/02/22 キネマM)