ニーチェの馬

ぶわははは。やられた(笑)。
生のジャガイモは食えないが、タル・ベーラ監督も食えない。

人は何のために生きるのか。今、私は楽しむために生きているが、十代の頃出した答えは違っていた。「死ぬまでは生き続けるしかない」というのがそれで、『ニーチェの馬』を観るとどうやら時空を超えて有効な答えのようだ。
父(デルジ・ヤーノシュ)と娘(ボーク・エリカ)が、働けず食べて寝るだけの生活を繰り返している。やがて生のジャガイモしか食べるものがなくなるが、それでも生きるしかない。
井戸が涸れたとき、親子は移住を試みるが、結局引き返してきた。飲み水もないとわかっているのに、なぜ、引き返してきたのか謎だったが、上映会の主催(運営)者である学生が作ったパンフレットにニーチェの思想が解説されていて、なんとなくわかったような気がした。

die ewig Wiederkunft des Gleichen【永遠回帰】
人間は弱さを抱えているため、生きることに目的や意味を求め、世界が始まりと終わりのある物語だと考えてしまう。しかし本来、世界は始まりも終わりも持たず、永遠の繰り返しの中で存在している。意味や物語を必要としなくなるとき、ただ永遠に回帰するだけの世界を欲するようになる。(省略)
(省略)
der Übermensch【超人】
超人とは、運命を受け入れ生を肯定し、「永遠回帰」を喜ばしいものとして欲する者のことである。(省略)
(『ニーチェの馬』上映会in高知 高知県立大学文化学部哲学・倫理学研究室製作・発行のパンフレットより)

つまり親子は、運命を受け入れ、死ぬまで単調な生活を繰り返すために帰ってきたのだろう。ニーチェの思想を実践すると、こうなるという見本だ。
私は移住できるものなら移住すればよかったと思うし、例え食べて寝るだけの寝たきり生活になったとしても物語を欲するタイプなので、「超人」は無理だ。だから、この映画の作り手もニーチェに否定的なんじゃないの?とバイヤスが掛かった見方になってしまう。

とまあ、真面目な感想はここまでで、ここからが本番だ。
ファーストシーン。馬の顔を下から撮ったかと思えば、カットを割らずにカメラは馬の左に回る。馭者や馬車をなめるように撮っていき、次にはぐーっと手前に引いて画面の左へ進む馬車に平行して動く。馬車は左奥(画面の左上)に向かい、カメラと離れていくかと思えば手前に枯れ木が映り、枝の隙間から馬車が見える。また馬車に近づき馬の顔がアップになったりするので、今度は右側に回るのかしらと思ったが、そすると画面の右方向へ馬車が進むことになるからだろう、右側に回ることはなかった。いったいどうやって撮ったのだろう。目を見張るシーンでつかみはオッケーだったが、映画監督は魔術師というか、山師というか・・・・(笑)。

映画の冒頭(黒みの画面)で、ニーチェが、どっかの広場で鞭打たれる馬にすがって泣いたエピソードが語られる。だから、ファーストシーンに馬が登場して「ははあ、この馬にすがって泣くのだな」と思った。翌日、馭者が馬を鞭打って馬車を進めようとするが、馬はビクともしない。「ははあ、そのうち広場でこっぴどく鞭打たれるのだな」と思った。数日後、井戸が涸れたため、どうしても移住しなければならなくなって(馬を鞭打つ動機づけ充分)、広場までたどり着いたら、いよいよニーチェの登場だと思っていたら、彼らは引き返して馬は厩に。「ええーーーっ!!!」私は叫んだ。「やられた(騙された)ーーー!」

それだけではない。
人物が二人(老人と若い女性が)現れると、観客としてはその関係を知りたい。ところが、セリフもナレーションもないため、女性は娘か妻か、それとも使用人かわからない。服の脱ぎ着を女性に任せ、自分からは脱ごうともしないのを観て、横柄なのか、あるいは何か事情があって自分では出来ないのか、もしかしてこの老人が発狂後のニーチェなのか、それとも登場人物がニーチェの想像の産物なのか、まったくわからない。
これはタル・ベーラ監督が確信的にわからないように作っているのだ。
その夜、二人は親子だとわからせてくれるし、翌朝の食卓で、老人は右手が不自由なのだとわからせてくれる。わからせてくれた後の着替えでは、ちゃんと左手を使っている。前夜の着替えでは決して左手を映さなかった。

はじめ私は嵐は本物だと思っていた。遠くの樹木も強風で動いていたからだ。でも、五日も嵐がつづくとは思えなかったので、運良く嵐が来た日に全部撮影して、一日目、二日目とキャプションしただけなのだろうと考えた。だけど、最後の日だったか枯れ葉が嫌というほど舞っていたのを観て(嵐が続いたら飛ぶ枯れ葉もなくなるだろうに)、これはもちろん作り物で人工的に飛ばしたのだろうと思い、そうすると遠くの木も扇風機で動かしたのかもしれないと気がついた。激しく動く樹木に風の音を付ければ嵐の出来上がりだ。それに室内のシーンは、風の音を付ければ外を映さなくても嵐が続いているように感じられるし、いくらなんでも一日に全部の撮影は無理だろう(^_^;。

ただ、一日で全部撮ったかもしれないと思ったのには理由がある。
二日目だったか、娘が水を汲みに行って戻ったとき、父はベッドから起き上がった。父の足の裏側から上半身を起こした姿が映されていた。翌日だったか、今度は父の左側から上半身を起こした姿が映されていた。上体を起こした角度や状況が同じに感じられたので、もしかしてカメラ二台で同時に撮ったのではと思った。この調子で同じショットを使い回ししていたら・・・・。違う音やセリフを付けたら・・・・。まあ、素人考えでしょう(笑)。

玄人筋のスコセッシやタランティーノなどは、タル・ベーラにひれ伏していると聞く。私は億万長者になったら好きな監督のパトロンになろうと思ったことはあるが、映画作りなど面倒なことはまっぴら御免。ただし、長年観続けているとどうやって撮影したのか考えながら観ている自分に気づくことがある。それは決まって音と映像による映画らしい映画だ(ろうと思う)。いままで観たこともないような映像、いままで観たこともないような美しさ。そういうのに出会うと嬉しくなる。また、映画が好きな監督に出会うのも嬉しい。『倫敦から来た男』を観たときは映画小僧路線かと思ったけれど、『ニーチェの馬』のりっぱさを観ると山師路線のような気がする。いずれにしても次回作もぜひ観たい。

[追記]
途中でニーチェらしき人物が登場するけれど、その後も広場でニーチェが出てくるぞと思い続けていたのは、なぜだろう?思うに「罪と罰」で幼いラスコーリニコフが、鞭打たれる馬にすがって「やめて~」という場面が頭にこびりついて、それを見たかったのかもしれないと気がついた(納得)。

A TORINOI LO
THE TURIN HORSE
監督:タル・ベーラ
(高知県立大学文化学部 2013/01/18 グリーンホール)

「ニーチェの馬」への2件のフィードバック

  1. お茶屋さん、こんにちは。

    昨日づけの拙サイトの更新で、こちらの頁をいつもの直リンクに拝借したので、
    報告とお礼に参上しました。

    十代の時分、今と違って随分とペシミスティックだったんですね(ふふ)。
    とっても多感な十代をお過ごしだったのでしょう。
    今回の上映会では、そんな十代二十代の女子学生がニーチェに寄せる
    とても敷居の低いアプローチが楽しかったですよねー。

    どうもありがとうございました。

  2. ヤマちゃん、リンクとコメント、ありがとうございます。
    大学生の作ったパンフレット、よかったですよねー。
    ニーチェの思想がドラえもんの登場人物で解説されてわかりやすかったです。
    上映会の運営も若々しくて、ひと味違っていました。
    年に1回でもいいから、またやってほしいなぁ。
    観客にとっては学生の学んだことを教えてもらえるし、学生にとってはアンケートでも観客の反応がわかるだろうし、双方にとっていいことですよね。
    それに現自主上映サークルの主宰者も中高年化していってるし、若手で自主上映に興味を持ってもらえる人が現れればと皮算用があるわけです(笑)。

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