「長くつ下のピッピ」シリーズしか読んだことがないけれど、作者のリンドグレーンがどんな人だったのか興味を持って観に行った。
そしたら、自分の気持ちに“ものすごく”正直な人だった。当世でも自分の気持ちに常に正直でいることは難しいと思うが、当時(日本だと大正時代)、キリスト教社会の村に暮らすアストリッド(アルバ・アウグスト)なら尚更だ。踊りたいときに踊り、叫びたいときに叫び、髪を切りたいときに切る彼女を見ていると、自分の気持ちに正直でいることが自由なのだとわかる。親の小言や人目があって、したいことが出来ないのは不自由だ。小言や人目に道理があればともかく、瞬時に不合理を指摘できるアストリッドの感性と知性に感服だ。
対照的なのはアストリッドの母で、宗教的なこと女性であること子どもが心配であることにがんじがらめで怖かった(^_^;。でも、不自由なのは母だけでなく父も程度の差こそあれ同様で、アストリッドに「あなたの娘の子どもは孫でしょう!?」と言われても、法的な父親のいない子どもを「孫」と認めることが出来なかった。
ただ、両親はアストリッドをアストリッドとして認めていて、困った子のような描き方はされていない。親は愛情深く、きょうだい仲良く、言いたいことを言える健全なよい家庭に見えた。
印象深いのは、アストリッドが外国で出産するため旅立つときの父親の言葉と、育て方がわからない(おまけに懐いてくれない)息子を引き取るときの里親マリーの言葉だ。不安でいっぱいの彼女に二人とも「おまえ(あなた)なら出来る」と励ます。そうだよ、できるよ、その知性、感性、行動力で、と見ている方も思うのだが、本人はなお不安そうなのだ。独立心は一日にしてならず。やるべきことがあって、それが出来て初めて身につくものかもしれないと思わされた。
こうして自由で独立心旺盛なピッピは、リンドグレーンその人だったことがわかった。晩年のリンドグレーンにあてた子どもたちのメッセージに対する解のような形で各エピソードが綴られていく映画の構成も、作品は彼女の人生を部分的に投影したものであるという主旨に基づいているようだ。
制作国のスウェーデン、デンマークでは、アストリッドと言えばリンドグレーンなんだろうなぁ。原題(UNGA ASTRID)は、ヤング・アストリッドという意味のようだ。断然、名字のリンドグレーンよりアストリッドを邦題にした方がよかったと思うけれど、そうすると「長くつ下のピッピ」の人とはわからないし、悩ましい。
(ゴトゴトシネマ 2020/07/13 メフィストフェレス2階シアター)
最後に郷里の教会で再会した編集長は、若い女性と一緒でしたが、あれは娘ではなかったように思うのですが、どうでしょうか。
まさに、「長くつ下のピッピ」の作者の疾風の青春時代でしたね。リンドグレーンへの深い関心と敬愛の感じられるいい映画でした。
そうそう、娘?、新妻?と思いました。小柄だったので娘ということにしておこうと思いました。娘、派手になったねーと(笑)。
「疾風の青春時代」、ほんにほんに、まっこと(^o^)。