うううう、寒い。身にしみる孤独を久々に見たような気がする。
アメリカでは、リーマンショック以降、バンを改造したキャンピングカーなどで各地を転々とし、有期の仕事(労働条件で悪名高いamazonが実入りのよい働き口のように描かれている)で現金を得て暮らす高齢者が増えたそうな。家はなくとも帰れる車が我が家であり、各地の美しい景色を見て、年に一度仲間と集結し交流を深める。アメリカ国内、どこへ行くのも何をするのも自由。彼らを称してノマドという。そして、ノマドが未知の地(フロンティア)で生活を切り開いて行くのはアメリカの伝統かもしれないと登場人物(主人公の姉)のセリフを借りて作り手は言う。
選択肢がない又はより良い選択肢がない場合、そして、その境遇に固定され逃れることが困難な場合、人は何とか適応し、その境遇の良いところを探す。この映画には本物のノマドも何人かいるのだと思う。ファーン(フランシス・マクドーマンド)を集結地に誘ってくれたリンダやノマドコミュニティーの創始者などは本人で、本当に感じていることを自分の言葉で言っているのではないだろうか。
作り手は、「ノマドランド=アメリカ合衆国≒新自由主義(資本主義の行き詰まり)の国」の酷さもノマドの過酷さも知っている。ノマドに深く同情し、敬意を払っていると思う。それで、本物のノマドが語る「ノマドもまた善し」という部分を掬いたかったのだと思う。ノマドがアメリカの伝統と言うのは、多分やさしさからだろう。そういう立ち位置だから、横並び感はあまりないし、作品から受ける印象はやさしいが冷たい。
いや待てよ、冷たいのはファーンがノマド生活1年生で、まだまだよそ者だからかもしれない。何年もやってたら横並び感が出てくるかも。
ファーンには選択肢があった。姉やノマドをやめて定住したデイブ(デヴィッド・ストラザーン)がいっしょに暮らそうと誘ってくれた。でも、価値観の異なる姉とは暮らせないし、デイブより夫との思い出と暮らす方がよかったようだ。貸倉庫に預けたモノを処分するのは、もうノマドで生きると決意を固めたからだろう。そんな彼女が、かつての自宅から荒野に出る。そして、冬の荒海だ。ノマド生活、丸一年。心配して声をかけてくれる見知らぬ人もいたが、過酷さは充分わかっている。不安だし孤独だ。「ノマドもまた善し」と聞いても寒くないはずがない。
(2021/03/30 TOHOシネマズ高知3)
楽しみにしていたノマドランド、やっと観られました。
テレビのニュース番組で、ノマドについての3分ほどの特集映像を見たことがあり、その時は面白いなと思いました。でも本作は、ちょっと中途半端な気がして物足りませんでした。
考えてみると主人公の女性は、ごく普通の一般人ですからね。思い切って架空の人物を創造するか、取材者が色んなノマドの生活を追うような作品にした方が良かったような気がします。
ノマドランドもミナリも悪くないけど、とにかく地味。そりゃアカデミー賞の視聴率も振るわないはずです。
四ツ谷さん、物足りませんでしたか。それは良かったです(本当)。
と言うのは私はこの映画を大変面白く見たのですが、見終わった瞬間の感想は「問題作やなぁ」だったので、単なる好評より不評の方がいいと思っているんです。
なぜ、問題作と思ったのか後でゆっくり考えたのですが、日本でも一部の人ですが「好きでホームレスになったんでしょう、いいんじゃないの。」と言う人がいるじゃないですか。アメリカでもこの映画を見て「ノマド、いいね!アメリカの伝統、素晴らしい。」(というのは極端ですが)で終わったら、ケン・ローチ精神(笑)に反するな~と思ったわけです。(ケン・ローチ精神とは、庶民の暮らしの実感を作品にするゾ精神だと思っています。)要するに、この映画はノマドの暮らしの実感の一部を掬い取っているだけなのに、全部のように受けとめられかねない作りなので問題なのではないでしょうか。
聞くところによると、今年のアカデミー賞は亡くなった・・・名前を忘れちゃったけど、あの人の受賞を見込んで男優賞の発表を最後にしていたそうですね。そしたら、ホプキンズ爺さんでその場にも中継場所にもいなくて盛り下がったとか。そういう話を面白がる私は少数派でしょうか?やっぱりアカデミー賞、面白いじゃんと思ったのですが(^_^;。
町山さんの解説によるとこれまで白人男性がほとんどだったアカデミー会員ですが、人種性別の割合をだんだんと変えていった結果の近年の多様性のある受賞なんだそうです。
私としては、スタア中心のお祭り受賞発表会がやっぱり見栄えがするかなとは思います。レッドカーペットなんか楽しい~。もう何年も見ていませんが。
ケン・ローチ精神というのがあるんですね。ケン・ローチ監督の作品は観たことが無いけど、なんとなく分かります。市井に暮らす人々の日常を描いて社会を見つめる、といった作品のことでしょうか。
それにしてもちょっと物足りない気がします。私が一番気になったのは、主人公ファーンの貧困の理由がハッキリ描かれていなかったことです。ハウスレスになったのは、夫の勤めていた石膏ボード工場が廃業し町ごと無くなってしまったからという設定でした。
でも、夫婦共働きで子供はおらず、ずっと社宅に住んでいて、二千ドルの車の修理費を払う貯えがないのが不思議でしょうがありません。
単純にリーマンショックで家を失ったとか、失業中に大病したとか、いっそのことドラッグにはまっていたとか、なにか納得できる理由を提示して欲しかったです。
言われてみれば確かにファーンの貧困の理由は描かれてなかったですね。
>でも、夫婦共働きで子供はおらず、ずっと社宅に住んでいて、二千ドルの車の修理費を払う貯えがないのが不思議でしょうがありません。
そうですね。ハッキリとは描かれてなかったですもんね。それを私が不思議に思わなかったのは、ファーンは臨時の先生をやったり会社の事務職をやったりの非正規労働者であまり余裕のないワーキングプアだと勝手に思っていたからかな。日本でも昔と違って正規に働いていても貯金がない人が増えてきているみたいだし、夫もあまり貯金がなかったのかなと、これまた勝手に思っていました(^_^;。
ハッキリと描かれてないところは他にもあって、ファーンが女の子のカラー写真を見ていたじゃないですか。その女の子は誰だ問題です。ファーン自身の子どもの頃の写真なのか、ファーンの娘の写真なのか、娘なら生きているのか、生きているなら絶縁状態ってことなのか、どうなのか謎です。
スッキリ納得の作品とはほど遠いですよね。今後、こういう歯切れのよろしくない作品もアカデミー作品賞を受賞していくのでしょうか?
ケン・ローチ精神は私の頭の中だけにあったのですが、他の誰かの頭の中にもあるかもと思ってアウトプットしてみました。ご覧になってない四ツ谷さんにも通じたみたいで嬉しいです(^_^)。
>その女の子は誰だ問題です。
そんなシーンありましたっけ。ぼくは全く記憶に残ってないです。さすがお茶屋さん、丁寧に観てますね。こういうのが聞けるので、人と映画の話をするのは面白いです。
>こういうのが聞けるので、人と映画の話をするのは面白いです。
ですね(^_^)。
上のシーンについては私も少しネットでやり取りして、モヤモヤが増えました(笑)。
お茶屋さん、こんにちは。
先の拙サイトの更新では、こちらの頁もいつもの直リンクに拝借しております。「ケン・ローチ精神(笑)に反するな~」には意表を突かれつつ、成程なぁと感心しておりました。
拙日誌に「僕にはファーンのような馴染み方はできないように思えて仕方がなかった。」と記した体たらくのくせして「問題作やなぁ」と思うこともなく「開拓の民の末裔は、やはり違うよなぁ」などと脳天気に感心していたのは、彼らがイージーライダー世代であることが作用していたような気もします。
ともあれ、こちらでの談義での遣り取りも含めた指摘は、とても大事なことのように思います。どうもありがとうございました。
>ヤマちゃん
リンクとコメント、ありがとうございます。
四ツ谷さんのおかげで思ってたことが書けてよかったです。四ツ谷さんに感謝。
反射的に問題作だと思ったものの、悪気はないんだろうなぁと思って上のような感想文になりました。
イージーライダー世代は、日本で言う団塊の世代と重なるのかな。ヒッピーもその世代かな?
時代の潮流に乗ってか揉まれてか、各世代ごとで無意識的にそれぞれ考えの共通するところがあるものですね。近年、そんなことをよく考えています。