偶然と想像

『ドライブ・マイ・カー』などの受賞が続いている濱口竜介監督作品ということで観た。ロメール作品みたいに軽やかでコメディ仕立てで面白かった。監督のオリジナル脚本とのことだ。
自分を持てあまし気味の(過去を引きずってもいる)三人の女性のそれぞれを主人公にした小咄で、各人が偶然の出来事からちょっとした想像をふくらませ、自身の屈託にささやかな慰めと励ましを得て生きていく。そういう実存主義的作品と受けとめた。
どれが偶然で、どの部分が想像か、「ご想像にお任せします」という作品でもあると思うので、いろいろ解釈できると思う。

「第一話 魔法(よりもっと不確か)」
カフェで親友といるところに元彼が偶然とおりかかる。元彼と親友は良き仲なのだが、想像で元彼に「私(主人公)はまだあなたが好き」と言って親友と主人公のどちらを選ぶのか迫る。現実がリフレインされるのでわかりやすい。
もしかして、ひょっとしてタクシーで引き返して元彼のところに行くところからして想像かもと思ってはみたが、あそこまで想像できたらあの小悪魔ちゃんは脚本家になれる。

「第二話 扉は開けたままで」
第一話以降も現実がリフレインされると思っていたら、それはなし。バスに乗って帰宅中に偶然、元セフレと遭遇。主人公は当時彼の願いを叶えたばっかりに恩師は大学を退職、自身は離婚しているため、それを揶揄しながら近々結婚すると言う彼に想像で名刺を渡し、「結婚相手との仲はどうなるかしら」という調子で一方的にキスしてバスを降りる。彼は冷水を浴びせられたような表情で、バスから降りた主人公を見送る。元セフレへのささやかな復讐を想像したと思ったのだが、はてさて。
「扉は開けたままで」というのは、映画ファンがほくそ笑むタイトル。どっかの監督が映画の撮影中に偶然の出来事も作品に取り込めるように扉は開けたままだったそうな(?)。

「第三話 もう一度」
同窓会でも会えなかった高校時代の親友とエスカレーターで遭遇。親友宅に招かれ訪れるものの、互いに人違いとわかる。偶然、方や思いを寄せた友だち、方やピアノが縁の友だちと勘違いしていた。初めは人違いとわかってから以後がすべて主人公の想像と思っていた。初対面の人となりすましごっこなんて、想像の世界でしかできないよ。観ていてこっぱずかしかった。親友と遭遇できたらいいなという思いから、最初のエスカレーターですれ違うところから想像かもしれないとも思った。でも、そもそも映画自体が創作物(想像の世界)だから恥ずかしいと感じないことだってできる。お互いを人違いした当人だと想像して「ごっこ」ができたのかもしれない。そうすると何不自由なく専業主婦として暮らしていたけれど薄ぼんやりと自分自身を生きている感がない思いをしているもう一方の彼女も主人公だったのかもしれない。
(2022/05/14 あたご劇場)

由宇子の天秤

タイトルからすると、作り手は由宇子(瀧内公美)の天秤(ジャッジメント:判断)が正しかったかどうか、あなたならどうしたかと観客に投げかけているように思う。私は自他共に認める単純な人間であり、小心者でもあるからお天道様に顔向けできない真似はしたくない。良心が痛むようなことをすると自分が苦しい。しかし、神は死んだといわれて久しいし、大人になると綺麗事だけではすまないことも多いし、嘘をついたり本当のことをしばらく隠したりする由宇子の判断をやむを得ないと思って観る人も多いと思う。何よりドラマには葛藤が不可欠だから、由宇子の一つ一つの判断がサスペンスを生むのが面白い。私自身は、由宇子が自作のドキュメンタリーの放送日までメイ(河合優実)の子宮外妊娠を伏せたことはアウトだ。子宮外妊娠をよく知らないからかもしれないけれど、2週間経ったら赤ちゃんはけっこう大きくなるんじゃないの?大出血ってことになったらと思うと恐くて仕事を優先なんてできない。それができる由宇子はなかなかの博打打ちだ、さすが主人公と感心して見ていた。

由宇子はメイの父哲也(梅田誠弘)に彼女を妊娠させたのは由宇子の父(光石研)であることを告げた。なぜ告げたのか。それは、哲也が娘が売春していたという噂を信じていたのを正すためだと思う。由宇子はメイを疑い傷つけてしまった。そのせいで絶望したメイは死のうとしたのかもしれない。それはドキュメンタリー制作で取材していた女子高校生とも重なる。メイを傷つけたことに対しては良心の呵責もあったろうと思う。メイのために自分が事実と判断したことを告げたのだと思う。もしかしたらタイトルは、この判断のことを指しているのかもしれない。

報道の暴力、性暴力、いじめという言葉の暴力、加害者の家族というだけで責める世間の暴力。様々な暴力が織り込まれていて見事な脚本だ。力のある作品だが好きかどうかは別の問題。私にはあまり気持ちのよい作品ではなかった。

(2022/04/13 あたご劇場 監督・脚本:春本雄二郎)

ベルファスト

ケネス・ブラナー監督とは同世代で、今まで観た監督作品から勝手に親しみを感じているけれど、ベルファスト出身とは知らなかった。フィクションも織り交ぜているとは思うが、どうしても1969年当時の自伝と思ってしまう。作品から感じられるのはやはりベルファスト愛だ。両親が好き、祖父母も好き、幼友達やご近所さんも遊んだ場所も好き(おじいちゃん、サイコー(^o^)!)。そんな大好きな人を残して故郷を去った理由と、その体験から望むこと、言いたいことをノリノリ音楽にのせて描いている。子どもの生命力と大人の包容力と舞台演出家の茶目っ気がが詰まった愛しくなるような私好みの作品なのに体調悪しで前半ウトウトが痛恨の極み。
その頃の日本は大学生がデモなんかをしていたかもしれないが、私はニャロメを描いていたか。仮面の忍者赤影の真似やシェーは卒業していた気がする。三億円事件の話をしたり、カラスノエンドウの笛を鳴らしながら下校していた頃、ケンちゃんは大好きな人たちとお別れして言葉も違う街へお引っ越しだったんだ。

北アイルランド関係作品メモ
『ライアンの娘』『麦の穂をゆらす風』『マイケル・コリンズ』『クライング・ゲーム』
(2022/04/04 TOHOシネマズ高知5)

トーベ

友だちにムーミンシリーズはアニメと異なり面白いと遠い昔に薦められたが読んだことはなく、挿絵を見て繊細でいい絵だと思うだけだった。この映画で「ムーミントロール」のお話が少しはわかるかもしれないと期待していたが、トーベ(アルマ・ポウステイ)の話であってムーミンの話ではなかった(やっぱり)。
トーベの父ビクトル(ロベルト・エンケル)は著名な彫刻家、恋人アトス(シャンティ・ローニー)は社会主義の議員、もう一人の恋人ヴィヴィカ(クリスタ・コソネン)はブルジョアの舞台演出家。恋愛については恋人が二人いるだけあってキスシンーンガ多くやや引き気味(^_^;。むしろ確執のあった父との関係がパターンではあるが、もらい泣きだった。

ムーミンのようなイラストは芸術ではないというのが父ビクトルで、その影響を受けてトーベも絵画作家は芸術家、ムーミンのような絵とお話を売るのは芸術家ではないという認識だったようだ。なんとなくわかるような気もする。イラストレーターはアーティストだと思うけれど芸術家と呼ぶのは何かちょっと違う感じがするから。ただ、トーベが「作品は私自身よ」と言っていたようにムーミンの絵もお話も彼女自身だと思う。ムーミンは発表するつもりではなかったものだから尚更のことと思う。ヴィヴィカが「煙草を吸う女性」の絵を大好きだと言ったときと、ムーミンを上演して大成功を収めたときのトーベの喜びはいかばかりか。父に認められなかった自分がヴィヴィカに認められ大衆にも受け入れられたのだ。そして、父の遺品を整理していてムーミンの新聞連載などをスクラップしていたことを知ったとき、そう、そこが泣き所。間違いない。

世の中には心が不自由な人がいる、というかどんな人も時と場合によって自由になったり不自由になったりなんだろう。トーベは比較的自由な人だ。自分の感情に正直で環境(人間関係)も自由でいさせてくれるラッキーなものだった。芸術も恋愛も思いどおりにはならないが、区切りをつけて新たな一歩を踏み出すことが自由ってもんよという映画(トーベ)だったように思う。
(2022/04/01 あたご劇場)